幼な妻と尼姫宮

 2011/06/24(Fri)
 先日久しぶりに十二単を見てきたこともあり、またちょっと源氏物語をあちこち読み返していました。で、今まであまり関心のなかった女三宮について、いくつか思ったことがあったので覚書きです。

 源氏物語の登場人物たちについては、よく歴史上の人物に準拠、つまりモデルを求める研究が多くあります。特に主人公光源氏の準拠は源融とか源高明とか藤原伊周とか藤原道長とか、日本史でもお馴染みの人物たちがぞろぞろ挙げられており、そのどれか一人に限定するということは恐らく不可能でしょう。
 というわけで、そんな大物について語るのはおこがましくまた今さらでもありますが、そういえば女三宮のモデルではないかと言われた人っていたかしら、とふと思いました。単に私が今まで興味を持たなかったから知らないだけだろうとは思うのですが、そこで連想したのが、藤原彰子と尊子内親王だったのです。

 まず藤原彰子といえば、これまた日本人なら知らない人は少ないでしょう、道長の娘で一条天皇の中宮、そして紫式部の仕えた主人です。12歳の若さ(というより幼さ)で8歳年上の従兄一条天皇の後宮に入内、同じく12歳年上の従姉・皇后(始めは中宮)定子と並び立って后となったことは、平安時代の歴史でも特に有名な一大事件でした。
 しかしよく考えてみると、先妻を押しのけて(と言うと言葉が悪いですが)天皇の正妃になった彼女の来歴は、紫の上という人がありながら親子ほども年上の光源氏の正室として降嫁した女三宮と、何だか妙に似ています。最近「源氏物語の時代」という本を読み返していてそのことに気がつき、こういうことを考えた人って他にいないのかなと思っていたら、その後橋本治の「窯変源氏物語」、それも『雲隠』の中にちらりと同じようなことを書いていたのを見つけて驚きました。(昔読んだはずなのに、すっかり忘れてました…苦笑)

 とはいえ、物語では女三宮は柏木との密通・出産の末に呆気なく出家、源氏の正妻の座から降りてしまいましたが、歴史の方は皇后定子が出産で亡くなり、中宮彰子はその後一条天皇の生涯を通して事実上ただ一人の妻でした。栄花物語では「かかやく藤壺」と讃えられ、華やかに時めいた彼女はどちらかといえば源氏の初恋の人で、その名も同じ藤壺中宮のイメージの方がまず浮かんできそうです。
 ただ「源氏物語の時代」にもあったように、亡き後も定子への思いを忘れることのなかったらしい一条天皇が、表向きはともかく果たしてどれだけ彰子を寵愛したのかは疑わしいところも残ります。しかし現代ならともかく、当時「源氏」の読者でこれを意識した人はどのくらいいたのかと思うと、やっぱり紫式部ってちょっと怖い人ですねえ。(なお「源氏物語の時代」の著者は一条天皇と皇后定子の二人に桐壺帝と桐壺更衣の悲恋のイメージを重ねていますが、それはそれでやっぱり洒落にならない…)

  


源氏物語の時代源氏物語の時代
一条天皇と后たちのものがたり
(朝日選書 820)

(2007/04/10)
山本 淳子

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 さてもうひとり、こちらは名前を知っている人は恐らくかなりの日本史通だろうという、尊子内親王ですが。
 彼女は冷泉天皇の第二皇女、生母も藤原北家嫡流の名門出身という、文句なしに高貴ないわば血統書つきの内親王です。しかし母は早くに亡くなり、また摂政となった祖父も同じく早世、尊子は幼くして頼りになる後見を失くしてしまいました。
 もともと彼女については、第15代賀茂斎院という肩書のひとつから注目していましたが、この人の珍しいところは斎院を降りた後で天皇の妃となったところです。相手は叔父にあたる円融天皇で、そもそも入内についても円融天皇の方から勧めたことだったといい、「栄花物語」でも妃となった内親王を可愛らしい人と思ったとありますから、二人の仲は多分悪くなかったのでしょう。
 しかし尊子は内親王と言う高貴な生まれにもかかわらず、結局円融天皇の皇后にはなれず、また皇子皇女にも恵まれませんでした。そして数少ない身内の一人であった叔父の死をきっかけに、何と自ら髪を切り落として出家、世を捨ててしまったのです。

 …こうして見ると、中宮彰子とはまた違った意味で女三宮との共通点がいくつもありますが、尊子内親王はその後20歳の若さで亡くなってしまいました。女三宮は出家こそしたものの、表向きは光源氏との子とされた息子薫のおかげで不自由ない平穏な生活をしていたようですから、過酷な体験をしたとはいえ尊子に比べれば随分恵まれた余生を送ったことになりますね。
 なお付け加えれば、尊子の同母弟は一条天皇の先代・花山天皇でした。こちらも道長の父兼家の陰謀で退位・出家させられた逸話で有名な人で、そのとばっちりで紫式部の父為家はいわば失職、その後随分苦労したようです。その花山天皇の姉で若くして世を捨て亡くなった尊子を、式部はどう感じていたのでしょうか。

  




内親王ものがたり内親王ものがたり
(2003/08/29)
岩佐 美代子

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 それにしても、源氏物語とはそれなりに長い付き合いになりつつありますが、時折それまで意識しなかったようなことにふっと気がついて驚くことがよくあります。こういうところがいくつになっても飽きることのない、それどころかますます惹きつけられる源氏の魅力でもあるのでしょうね。

 そうそう、最後にもうひとつ、これは大分以前から密かに気になっていたのですが。
 中宮彰子は皇后定子の亡き後、定子の産んだ敦康親王を引き取って母代りに養育し、一条天皇が亡くなった時には実の息子よりも敦康を東宮にと希望したといいます。肝心の敦康親王がそんな彰子にどういう感情を持っていたかは判りませんが、モデルと言うならこの二人こそまさに光源氏と藤壺の宮を連想させるなあと思うのは私だけでしょうか…?(←それこそ歴史小説等のネタとしては行けるかも。笑)


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再び十二単の謎

 2011/06/19(Sun)
 6月18日(土)、明治神宮文化館にて開催中の「十二単の世界 ―四季を飾る「かさね」の美―」(2011/4/29-7/3)へ行ってきました。


   十二単の世界



 お馴染み京都の風俗博物館さんでもこの手の展示はよく見に行きますが、やはりものがお着物ですから実物大で見るのが一番です。残念ながら情報を知ったの自体が遅かったので、多分既に展示替えを行った後だろうと思うのですが、それでも目も彩な衣裳の数々はいつもながら大変目の保養でした。


 ところで今回、展示された十二単の数々を見ていて、ふと引っかかったことがありました。
 展示スタイルは大きく分けて二通りで、唐衣・五つ衣・表着・裳をそれぞれ個別に分けて展示するタイプと、一式着用した形の展示とがあったのです。おかげで個別の展示の方は、普段見えない唐衣の仕立ての仕組みだとか、通常袖口や裾だけが覗く五つ衣の具合だとかがよく判るようになっていました。
 一方、一式着用型の方もこれまた実に華やかで、鮮やかなピンクや山吹や紅など、まさしく等身大お雛様の着物のようでそれは綺麗でした。特に唐衣や表着は多分二陪織物(ふたえのおりもの)というものでしょう、生地の地文の上に刺繍のような華やかな上の文様が一面に散らされた豪華なもので、見ているだけでも溜息がでるような美しさでしたが、最後の着物のところであれっと立ち止まりました。
 一見した感じは同じように普通の十二単なのですが、入口から見て左側の一番手前にあったその着物だけは、唐衣も表着も地文だけの何だかちょっと地味な着物だったのです。
 この点についてはキャプションにも特に説明はなく、解説してくれそうなスタッフさんもいなかったので判らなかったのですが、よくよく見ると他の十二単は五つ衣もしっかり立湧等の華やかな地文がある豪華なものなのに、その衣裳だけは五つ衣もまったくの無地で明らかに違っていたのです。ついでに裳も他のおめでたい桐竹鳳凰文に対して、やっぱりシンプルな流水とちょっとした植物や鳥を描いただけのものでした。
 そうした点を考え合わせると、あれは多分昔で言うなら女房クラスの人が着るような衣裳だったのかもしれません。何しろ教えてくれる人が誰もいなかったので、はっきり断定できるわけではないのですが、そういう細かいところの解説ももっとつけてほしかったなと思いました。


 さてもうひとつ、今回特に目を引いたもののひとつが、入口すぐの左脇にあった「帛装束」です。
 これは皇后陛下用の全身真っ白な十二単で、元は江戸時代の女帝が神事に着用したものに由来するそうです。確か以前三の丸尚蔵館でも、皇后陛下が大嘗祭でお召しになった(!)というのを見ましたが(ただしこちらは袴のみ淡い桜色でした)、これも一式着用スタイルだったので大変目立っていました。
 しかし何しろ目的が目的だけに、一口に白と言っても華やかな地文も何もない、まったくの真っ白白(というか、正確には多分生糸そのままの生成り色?)です。他の衣裳が花園さながらに色とりどりの華やかさを競っている中では、袴さえも真っ白というのは何だかちょっと地味というか淋しいような印象もありましたが、実は滅多に見られない神々しいお衣裳なわけで、まさかここでまた見られるとは思いませんでした。

 ところで以前もちらっと触れましたが、平安時代で白一色の女房装束が登場する場面と言えば、出産とその後のお祝いの時です。しかもこちらは神事ほど飾りけなしではなく、「紫式部日記」によれば銀糸で刺繍をしたり銀泥で裳に模様を描いたり、それどころか螺鈿(!)で飾りつけをしたりと、白い中にも色々工夫を凝らして華やかさを出していたようなんですね。


  明石女御出産
  2009年4月風俗博物館展示、明石女御出産の祝いの宴での紫の上。
  フラッシュのおかげで衣裳の織文様がよく判る1枚。
  (手前に並ぶ祝いの食膳も、すべて銀器なのに注目!)


 で、後でそんな話を友人としたところ、「それって(滅多に使わないだろうから)使い捨てだったの?」と言われたのです。それまでまったく考えたことがなかったのですが、指摘を受けて私もはたと考え込みました。

 とりあえずぱっと思いつく限りでは、私も「源氏」「紫日記」「栄花物語」に登場する以外は殆ど知りません。ただお馴染み近藤富枝先生は、以前あの頃の喪服について「普段の衣裳を黒く染めて使ったのではないか」という指摘をしていらっしゃいました。その理屈で行くなら、出産祝いの白い衣裳の場合も、その後生地を染め直して普通の衣裳として使うということもやったのではないでしょうか?
 上で触れたような二陪織物ならともかく、地文だけの生地なら衣裳を一度解いてから染め直せばいいわけですし、いつ出番があるか判らないような白装束をそうそう準備していたとも思えません。(もっとも喪服と違って、出産は早くから準備する余裕はあるわけですけれど) それを使い捨てだなんてそんな、今でもオールシルクの服なんていいものは高価なのだし、まして平安時代はごくごく一部の限られた上流階級の人々だけが身に着けることのできた贅沢品ですから、衣裳は無理だとしても何らかの形でリサイクル(笑)はしただろうと思うのですよ。

 ※ちょっと追記:
  喪服の場合は、服喪の期間が明けるとお祓いをして、切って川に捨てた(!)そうです。
  ということは、まさしく使い捨てだったわけですね。
  (しかもこれは衣裳だけでなく、小物や調度に至るまで一式全部だそうです。大変そう…)


 で、そんなことを考えていたら、またもうひとつ気になったことがありました。
「紫日記」は出産祝いの折の女房たちの衣裳について、かなり詳しく描写しているのですが、その中で「釵子(さいし)さして」という一節があります。釵子というのは正装の時に結い上げた前髪につける髪飾りのことで、今でもお雛様がおすべらかしの頭につけている、小さな冠のような金色のあれです。もちろん平安時代でも普通は当然金の釵子を使うのですが、この場合はどうだったんだろう?とまた考え込みました。
 というのも、話戻って例の皇后陛下の白装束を見た時、釵子の類もやっぱり銀だったのです。(!)
 これは初めて見た時とても驚いたのでよく憶えていますが、「紫日記」ではあいにく釵子まで銀製だったかどうかまでは触れていなくて判らないのです。ただ髪をまとめる「元結」が白だとは述べているので、それなら釵子も銀に揃えていてもおかしくなさそうですが、これはそれこそリサイクルできるものではないでしょうねえ。(もっとも衣裳と違って嵩張らないけれど、銀だから時間が経てば黒変して結局駄目になりそう…)


 それにしても、いくら頑張って刺繍だとか銀箔の摺りだとかで飾りつけをしても、紫式部くらいの中級・下級の女房さんたちでは身分柄やはり限界があったと述べられています。逆に言うなら、身分高い人はもっと思い切った贅沢もできたわけで、二陪織物も白地に白の模様では判らないから華やかに銀糸の織なんかをしたのかなあと想像して、そこでふと思い出したものがありました。


   栄花物語1

   栄花物語2


 上の写真は、2009年5月に東京国立博物館で展示されていた、土佐光祐作「栄花物語図屏風」の一部です。しかもこれがまさしく、紫式部が日記に描いた中宮彰子の出産祝いだったのでした。
 一枚目の女性は、茵に座って半ば姿を隠していることや寛いだ袿姿から、中宮彰子本人だろうと思われます。彼女を始め、周りの女房達(それも高貴な上臈)も皆、見ての通り白地に華やかな銀の文様の衣裳を纏っているのですね。
 あいにくこの屏風絵は300年の間に銀が焼けてやや黒ずんでしまっていますが、描かれた当初は眩しい白銀の輝きがさぞかし平安時代の王朝絵巻そのままの美しさだったでしょう。釵子をつけている女房がいないのが残念ですが、土佐光祐もやはり同じような想像をしながら描いたのかなと、ちょっと楽しくなりました。


   栄花物語3
   若宮(後の後一条天皇)を抱く祖父道長(多分)。
   隣では女房が、父一条天皇から贈られた御佩刀(みはかし)を捧げ持つ。

 「宮は、殿抱きたてまつりたまひて、御佩刀、小少将の君、虎の頭、宮の内侍とりて御先に参る。(中略)
  少将の君は、秋の草むら、蝶、鳥などを、白銀して作り輝かしたり」
  (「紫式部日記」より抜粋)


 最後になりましたが、冒頭の説明文の中で「昔は現代のように室内は明るくはなかったけれど、そんな中だから鮮やかな色彩の衣裳が好まれた」というような一文がありました。確かに、今のような節電モードであっても「電気の明かり」がある生活とは異なり、平安時代の寝殿造は昼でも御簾やら几帳やらに取り囲まれて薄暗かったでしょう。伊藤若冲の絵もそうでしたが、そんな弱い自然光や夜の蝋燭の明かりの元だからこそ、あれほど色とりどりの衣裳が発達し愛されたのでしょうね。


 関連過去ログ:続・衣裳から見る源氏物語の世界

 参考リンク:源氏物語の世界(紫式部日記本文・現代語訳あり)

 参考書籍:
  
きもので読む源氏物語きもので読む源氏物語
(2010/05/15)
近藤 富枝

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続・衣裳から見る源氏物語の世界

 2010/07/09(Fri)
 去年「衣裳から見る源氏物語の世界」の中で、近藤富枝氏の著作「服装で楽しむ源氏物語」を紹介しましたが、最近その近藤さんがまた新たに素敵な本を出してくださいました。

  
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(2010/05/15)
近藤 富枝

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 今回はページ数も大幅に増えてグレードアップ、近藤さんが主宰する十二単ショーのこぼれ話なども交えて、親しみやすい文章でさらに丁寧に源氏物語の様々な場面に登場する装束とその意味を読み解いています。ただちょっと惜しいことに、今回はカラー写真や図版などが殆ど掲載されていないため、予備知識のない方には装束の形態などが想像できないのが判りにくいかもしれません。一応巻末に図解はあるのですが、こういう本の場合はなるべく説明の都度図解も添えて、ついでに多少お高くなってもいいのでなるべく綺麗なカラー図版も入れてほしいですね。

 さて今回、テーマの一つとして「光の君の大君姿」というのが取り上げられています。
 絶世の美男として描かれながら、作中ではあまり晴れの姿の装束について詳しく述べられることのない光源氏ですが、その彼がいつになく気合を入れておめかしをした場面の一つに、「花宴」で右大臣家を訪問した時の様子があります。政敵の家へ颯爽と乗り込んでいく、いわば勝負服(笑)の一種でしょうか、光源氏は周囲がかしこまった正装の中でひとり敢えて略式の皇族のみができる「大君姿」という華やかな衣裳を纏い、ゆったりと現れてその美しさで周囲を圧倒したというのですから、想像するだけでもうっとりするような場面なのですよね。
 近藤さんは近頃宇治十帖の紹介をすることが多いそうですが、やはり光源氏が出てこない「源氏物語」は華やかさに欠け所帯じみていけない(笑)ということで、源氏がその生涯でも最高に輝いた日のひとつであるこの場面についても丁寧に解説してくださっています。しかしやはりここで画像がないのは何とも物足りないので、ちょうどただ今風俗博物館にて開催中の展示から、問題の「大君姿の光源氏」を以下にご紹介します。

  光源氏の大君姿
  (直衣布袴(のうしほうこ)姿。直衣:桜かさね(表白、裏紅)
   下襲:葡萄色三重襷文、指貫:葡萄色地白藤折枝文、単:紅地繁菱文)

 原文では「桜の唐(から)の綺(き)の御直衣、葡萄染(えびぞめ)の下襲、裾(しり)いと長く引きて、皆人は袍衣(うへのきぬ)なるに、あざれたる大君姿のなまめきたるにて、いつかれ入りたまへる御さま、げにいと異なり」と述べています。うやうやしく招き入れられる姿の群を抜いた麗しさは、盛りの藤の花も気圧されるばかりというのだから、ここぞとばかり褒めちぎる作者もまた光源氏に夢中なのですね。(笑)
 ともあれ、直衣と指貫はまあ大体予想どおりでしたが、下襲が思ったよりも控えめというか、もっとこう派手やかなものをイメージしていたので、最初この薄地の生地を見た時にはちょっと意外な感じがしました。というのも、例えば有名な「駒競行幸絵巻」(和泉市久保惣記念美術館)での公卿たちの下襲は、皆かなり華やかなのですよ。
 とはいえ紫式部の美意識は一風変わっているというか、ひたすら華麗で派手なものを一番とするわけではなく、光源氏の美貌を褒めたたえるのにも黒の喪服だとか白の普段着だとかの描写にやたらと熱がこもる傾向があるようなので、その中ではかなり華やかな方に入るこの場面も作者としてはこの位のイメージだったのかもしれません。源氏ほどの身分と財産があればいくらでも豪奢にできるしそれも似合ったろうと思うのですが、そういう成金趣味のような派手さはむしろ無粋で、自他共に認める美貌と皇族にしかできない装い、そして思わず気圧される気品と威厳だけで充分だったのでしょうね。

 またもう一つ、源氏物語に登場する婚礼の場面について、肝心の?花嫁の衣裳について作中でまったく触れられていないのを近藤さんは大変残念がっています。言われてみれば確かに覚えがないなと私も初めて気がつきましたが、そもそも今の結婚式とは違って、当時の花嫁は披露宴に姿を見せるどころではなく文字通りの深窓に引きこもっているので、どの道花婿や家族以外には見られないのでした。(とはいえさすがに晴れの儀式ですから、叶う限りの贅を尽くした衣裳であったろうとは思いますが)
 なお平安中期の婚礼で花嫁の衣裳には特に決まりはなかったらしいとのことでしたが、それでふと思い出したのが、最近読んだ論文で見かけた「平安中期頃の女性は、裳着(成人式)で白い装束を着るのが決まりだった」という話です。今でこそ女性が白を纏う極めつけは結婚式の白無垢やウエディングドレスですが、この頃は成人式に白を着るというのが一般的でした。(ただし袴だけはいつも通り紅) 作中では詳しい描写はないものの、紫の上や玉鬘、明石の姫君、女三宮なども裳着では白い衣裳を纏ったのでしょう。実際玉鬘については、秋好中宮から裳着の祝いとして「白き御裳、唐衣、御装束、御髪上の具など」が贈られたとあります。
なお付け加えるともうひとつ、出産の際にも本人や周囲もすべて白の装いに変えるのが習わしで、こちらは袴さえも白一色だったようです。


  明石女御出産
  (明石女御出産の場面より。手前二人は女房、その奥が紫の上)


 ところで前から気になっていたのですが、著者の近藤さんは光源氏のことを略して通称「光」と呼んでいます。こういう呼び方をするのは近藤さんだけではなく、源氏専門の研究者の方々でも論文などで同じように書いているのを見かけるのですが、「光源氏」というのはご存知の通り本名ではありません。そもそもは「光り輝く(ように美しい)源氏の君」という意味の呼び名であって、それを形容詞の部分だけ切り取って名前のように呼ぶのは、私にはどうもしっくりこないのです。
 …とはいえ、よく考えてみると宇治十帖に登場する薫も本来は「薫中将」または「薫大将」の略称で、彼もまた生まれながらに妙なる芳香を漂わせることから「薫る」という形容詞を冠した通称だったのが、いつしか「薫」だけが独立した呼び名として定着してしまったものです。だから「薫」が許されるのなら「光」だって別におかしくないではないか、ということにはなるのですが、やっぱり何だか納得がいかないのですよねえ。

 では最後に、今回のおまけ。

  花橘のかさね
  花橘のかさね。(淡朽葉・より淡い朽葉・白・青・淡青・白)
  4月~5月の季節に着用したもので、淡朽葉(黄色)と青(緑)に白を挟んだ取り合わせが初夏らしく爽やか。
  源氏物語で花橘といえば花散里ですが、花も実も付けた有様のようと言われた明石の君のイメージも?

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匂宮家と具平親王家

 2009/07/04(Sat)
 前回、源氏物語の浮舟についてちょっと考察しましたが、この絡みでもうひとつ気になったことがありました。

 源氏物語よりも少し時代は下りますが、藤原道長の後を継いだ長男・頼通の微妙な家庭事情はその筋では有名な話で、この人は熱愛する正妻・隆姫女王に不運にも子どもがなかったのです。で、自分が子沢山で大成功した父・道長から「何をしてるこの甲斐性なし!」と怒られた(笑)せいかどうか知りませんが、一度は天皇からの「娘を貰ってくれないか」という申込さえ断ったのに、結局よその女性に子どもを産ませてしまうのですね。
 とはいえ、その「よその女性」が奥さんの身内だったことから、話がややこしくなってきます。まず最初が従兄弟にあたる源憲定の娘・対の君で、父の死後頼通夫妻に引き取られて女房になっていたのが、そのうち頼通に目をかけられて男の子を産んだものの、この通房という長男は結局20歳で亡くなってしまいました。
 しかしその後、頼通が新たに寵愛するようになった藤原祇子(進命婦)という人が問題です。彼女は頼通の母倫子に仕える女房で、どうもかなり身分低い人だったらしいのですが、相性が良かったと見えて頼通との関係は結構長く続き、実に五男一女をもうけたのでした。
 で、この祇子の素性なんですが、一応?藤原頼成の娘ということになっています。頼成は隆姫の異母弟ですからやはり身内ですが、母親の身分が低すぎて父・具平親王から認知されずに養子に出されたらしいのです。しかもさらにややこしいことに、「栄花物語」等によると祇子本人も実は具平親王の落胤である、即ち隆姫や頼成の異母妹であるらしいとか言われていて、何だかもうごちゃごちゃですね。


 為平親王女=====具平親王=====?
        |        |
        |        |
        |        |
       隆姫女王     藤原頼成
        ∥        |
        ∥        |
        ∥        |
       藤原頼通=====藤原祇子
       (関白)  | (具平親王落胤?)
             |
      ┌――――――┤
      |      |
     藤原寛子   藤原師実
   (後冷泉皇后)  (関白)

 ともあれ、身分低いにもかかわらず多くの子、特に娘を産んだことで祇子は正式な?妾として認められ、娘の寛子は皇后に、末息子の師実は頼通の後を継いで関白にまで出世します。ただし寛子より先に生まれた息子たちは全員よそへ養子に出されており、これは正妻・隆姫が嫉妬深かったせいだとか、いや既に血筋のいい養子がいたからだとか色々言われていますが、それはひとまず置いておきましょう。

 で、ここであらっと思ったのですが、身分高い貴公子と宮家の姫が結婚して、しかしその後宮家の姫の劣り腹(嫌な言葉ですが)の妹が後から寵愛を奪ってしまったというこの構図、何だか匂宮と中の君、そして浮舟の関係と妙に重なります。幸か不幸か浮舟は子を産むことはありませんでしたが、もし匂宮が浮舟誘拐に成功していたら、遠からずこんな泥沼愛憎劇が展開されるのは必至だったでしょうね。
 考えてみるとそもそも浮舟の母・中将の君もまた、八の宮の北の方の姪でその死後に宮の寵愛を受けた召人であり、今でこそ考えられないような話ですが、当時はよくあることだったらしいです。ちなみに例の道長もまた、奥さん(源倫子)の姪を愛人にしていたことで有名ですが、倫子は逆に「下手によその女性に手を出されるより身内の方がいい」と割り切っていたようです。まあ彼女の場合は既に大勢の子どもをもうけていて、自らも従一位にまでなった押しも押されもしない正妻でしたから、旦那の火遊びのひとつやふたつで今さら目くじら立てることもなかったのでしょう。

 それにしても、具平親王といえば紫式部とも血縁にあたり近しい間柄であったともいわれる人で、源氏物語の夕顔も親王の愛人がモデルだという話もあるそうですが、過去の話ならまだしも未来のことまでこうも重なってくると、一体この作者は何をどこまで見通していたのかとやっぱりちょっと怖くなります。頼通のように子どもを産ませる片端から養子に出したり、かと思えば娘だと手のひらを返したように大切に入内させたりというのもどうかと思いますが、具平親王や八の宮のように認知さえしないというのもあまりに無責任というか、現代の感覚ではやはり「女(と子ども)を何だと思ってるんだ!」と怒りたくもなりますが、逆に言うならそういう時代だったということが「源氏物語」の生まれた一因でもあったのかもしれません。もちろんそうした中でも要領よく生きていった人もいたのでしょうが、多分作者自身はそれができず、その理由も自分自身でよく判っていたのだろうなあと、何となく思いました。

 しかしこうして色々調べてみると、「紫式部日記」に登場した折の若き頼通(当時17歳)の言葉「人はなほ、心ばへこそ難きものなめれ(女性は気だてのいいのが一番だけれど、なかなかそうはいかないものですね)」は何とも意味深というか、彼は祇子のどんなところを愛したのだろうとまた気になります。源氏を始めとする平安物語の男主人公はよく、身分低い愛人のことを「気の置けない可愛い相手」として気に入っていたと描かれていますが、結局のところ対等な人格として認めていなかっただけだとすると、それはそれで悲しい話ですね。

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浮舟と仕立て物

 2009/07/01(Wed)
 以前宿題としました、平安時代の僧侶への禄(被物)の方はその後もなかなか調査が進んでいませんが、その関係でまたちょっと気になったことがあったので、つらつらと書いてみます。

 宇治十帖最後の(つまり源氏物語最後の)ヒロインとして名高い浮舟は、作中でも徹頭徹尾「田舎育ちで教養のない卑しい娘」とされ、そのために薫と匂宮に寵愛される一方でどちらからも人並みの扱いを受けていません。父(八の宮)に認知されなかったのも田舎育ちなのも本人のせいではないのに、身分意識の厳しい時代のこととはいえ読んでいていて本当に気の毒なくらいで、おかげで宇治十帖は(世間では名作とされますけれど)私個人としては色々腹の立つことも多い話なのですが、それはまあ置いておきましょう。
 で、姿こそ異母姉の大君そっくりで髪も美しいけれど、身分低く教養がない上に性格もおっとりしすぎて流されやすいところもよくないとか、ともかく散々な浮舟ですが、珍しく容姿以外でほめられているところがあるのに、最近ふと気がつきました。例の浮舟一周忌の法事のために仕立てられる女装束のエピソードのところで、小野の尼(瀕死の浮舟を助け、娘の生まれ変わりと思ってその後も可愛がっている女性)が浮舟に「これ御覧じ入れよ。ものをいとうつくしうひねらせたまへば(あなたも手伝ってくださいな。着物の仕立てが御上手でいらっしゃるから)」と話しかけているのです。当の浮舟は自分の法事のための衣装というだけで動揺しているので、手も触れずに引っこんでしまうのですが、改めて読み返すうちにこれはちょっと気になるところだなと思いました。

 そもそも浮舟が教養がない、具体的には琴などの音楽の嗜みがないというのは、母親の中将の君が彼女に何とか良縁をと願ってきたにしては、どうも片手落ちな気がします。中将の君は元は上臈女房(八の宮の北の方の姪)という決して低くはない身の上ですし、「東屋」帖の冒頭でも、夫常陸介が自分の子にわざわざ師匠をつけてやっているのを、質のよくない師匠だというので馬鹿にしていたとありますから、中将の君自身もそれなりに音楽の嗜みはあったはずです(何しろ当時の上流階級の必須教養科目ですから)。
 じゃあそれなのに、どうして娘の浮舟には自分で教えるなり師匠をつけるなりしてやらなかったのかと思ったのですが、手近な注釈書等をざっと探してみても、その理由にまで言及した説明はどこにもありません。しかしかつて明石の御方という(鄙には稀な琵琶の天才の)前例があるだけに、田舎育ちというだけで片付けられるのはどうも納得がいかないと首をひねっていたところ、先述の仕立て物のくだりにふと目が止まってあれっと思いました。

 いわゆるお姫様の教養としてはあまり出てきませんが、当時は今のような既製服の存在しない時代ですから、女性にとって装束の仕立てはこれまた必須の家事のひとつであり、特に上流婦人は(以前も触れましたが)夫の装束を調えることが重要な仕事でした。そんなものは侍女に任せればいいだろうと思われそうですが、光源氏の妻たち、特に紫の上と花散里が共に裁縫や染め物にも優れた名手としてたびたび賞賛されており、また明石の御方も直接の描写はありませんが、源氏の夫人として不足のないだけのものは常に調えていたらしいことが伺えます。こうした事情は中流階級にしても同じことで、例の「雨夜の品定め」でも気取った教養なぞをひけらかす軽々しい女より、しっかり家事を任せられる相手の方が結局は妻として連れ添うのに理想的だという話が出てくるのですよね。(…女性としては何やら耳に痛い話ではありますが。苦笑)
 ともあれ教養のなさをあれほど繰り返し辱められ本人も苦にしていた浮舟が、そうした裁縫の類には優れた技術を持っていたのだとしたら、それが母中将の君が彼女に授けたいわば花嫁修業の一環だったのではないでしょうか。元々身分違い故に八の宮に捨てられたことに懲りていた中将の君は、そのため始めは薫からの申し入れにも消極的で左近少将との縁談をまとめようとしていたのですし、中流貴族の北の方を目指す(というのも変ですが)のなら、大して役に立たない教養よりも実を取って手に職をつける(?)方を選んだ可能性も考えられるのではないかな、と思うのです。もっとも作中では浮舟自身が衣装の仕立てをする場面はなく、また衣装の趣味も薫の目にはやや田舎びて(つまりは野暮ったいと)映ったようなので、彼女自らが仕立てたとしてもやはり花散里のようには行かなかったのかもしれませんけれどね。

 そうして改めて正編を振り返ってみると、浮舟に似た境遇にあった玉鬘は同じように田舎びて嗜みにも欠けるところもあったと思われるのに、わずか一年ほどで尚侍として不足のないほど趣味も洗練されて優れた女性に成長したのですから、六条院に迎えられて源氏から受けたこまやかな薫陶がどれほどのものだったかが何となく察せられる気がします。もちろん、養女として玉鬘を引き取った壮年の源氏と、恋人の身代わりに浮舟を迎えとった若い薫では到底一緒にはできませんが、それにしてもこの作者はよくもここまで可哀想に浮舟を書いたものだと、何だかちょっと怖くなりました。それなのに「更級日記」で知られる菅原孝標女などは(恐らく「素敵な男君二人に愛される」というだけで)彼女の物語にうっとりしたというし、その後の物語は薫型の男主人公がもっぱら流行したというのだから、平安時代の姫君たちの趣味は判りません…


参考書籍:
源氏物語と音楽 (IZUMI BOOKS)源氏物語と音楽 (IZUMI BOOKS)
(2007/05)
中川 正美

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 源氏物語に登場する様々な音楽と、そこから見えてくる人間模様や作者の音楽観を鋭く考察した名著。葵の上や紫の上が光源氏と「(音楽を)掻き合わせない女性」というのもどきりとする指摘ですが、浮舟は特に「掻き合わせることを一方的に断ち切られた女性」として語られています。

おまけ:

  仕立て物

 2003年後半風俗博物館展示より、女房たちの日常。
 何かお祝い事に備えて、晴れ着の縫物に勤しんでいるところでしょうか?
(左の女房の装束~袿:赤地萌黄藤丸文、五つ衣:紅の薄様?)

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