スポンサーサイト

 --/--/--(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
カテゴリ :スポンサー広告 トラックバック(-) コメント(-)
タグ :

再びレポート提出

 2015/05/10(Sun)
 ご無沙汰しておりますこんにちは、早くも既に5月、今週末は葵祭ですね。新緑が美しいこの季節、下鴨さんの糺の森は一年でも一番綺麗で大好きです。

 さて、2月の日記から大分間が空いてしまいましたが、前回ちらっと触れたレポートがようやく完成、何とか葵祭前に滑り込みで間に合いました。この「賀茂斎院から見る『源氏物語』年立論」は、元々2013年に最初に公開したものですが、その後色々修正点等が見つかり、手直しが必要だなと思っていたものです。
 そこへ今年の2月、レポートでも取り上げた賀茂斎院論文の著者でいらっしゃる今井上氏より、新しく「『源氏物語』賀茂斎院劄記:付・歴代賀茂斎院表」を発表されたとのご連絡をいただきました。しかも何と、錚々たる参考論文の中に我が賀茂斎院サイトも紹介していただいたとのことで、これには本当にびっくり仰天です。ちょっと歴史が好きだというだけの素人の趣味のサイトを、まさか研究者の方の学術論文に載せていただけるとは夢にも思わず、本当にいいんだろうかと慌てふためきながらも大感激でした。今井様、改めて心より御礼申し上げます。

 というわけで、そもそも今井氏の前回の論文「『源氏物語』の死角 : 賀茂斎院考」も大変興味深く拝見し、最初のレポートもそれがきっかけで書いたようなものでしたので、今回の新しい論文も早速レポート改訂版にて検証させていただきました。残念ながら私の新説?である「「葵」の斎院卜定と斎宮卜定は別々だったのではないか」という考えには御賛同いただけなかったようですが、当方としてもその後の調査でまた色々新たに考えたことがありましたので、今度はレポートの体裁ももう少し論文らしく、引用文献等についても明記してあります。論文の注というのはどうにも読みにくくて個人的に苦手だったのですけれど、考えてみるとHTMLならリンクで簡単に飛んだり戻ったりもできるので、紙媒体に比べると楽でいいかもしれないと思いました。

 ともあれ、何だかんだで本文はかなり長くなってしまいましたので、ここでは簡単にいくつかの要点のみ触れておきたいと思います。


1.賀茂斎院は天皇譲位では退下しないので、「葵」の斎院交替も桐壺帝譲位によるものではない。
 そもそも天皇譲位で斎院が退下しないというのは、1979年に堀口悟氏が論文で指摘されていることなのですが、何故か『源氏物語』研究では殆ど触れられてこなかったようです。しかしこれを見直せば、従来問題とされてきた年立の疑問点も解決するのでは、というわけで、色々な角度から検証してみました。
 結果、やはり桐壺帝女三宮(「葵」の新斎院)が桐壺帝譲位よりも前に斎院になっていたと考えれば、年立の矛盾点も解消されると思われます。「葵」の御禊は従来言われてきたように二度目の「初斎院御禊」であると考えていいと思われますし(この問題は今井氏が今年の新論文で詳しく検証されています)、天皇譲位で斎院が退下しないのなら斎宮と同時に交替するのはむしろ明らかにおかしいので、作者の意図は「斎宮交替とたまたま近い時期に偶然、斎院も交替した」というものであったと考えます。


2.桐壺帝が「花宴」の年に譲位しなかった(らしい)のは、父一院崩御による諒闇のためではないか。
 これはそもそも千尋の考えではなく、『窯変源氏物語』で橋本治氏が書かれていたものです。『窯変源氏』は橋本氏が独自解釈で原作にない事柄を新たに創作した描写もかなりあって、一院崩御の諒闇もそのひとつなのですが、この考えに従えば「花宴」~「葵」に空白年が挟まれているのも納得がいくのではないか、と考えました。もっともそもそも一院が本当に桐壺帝の父なのかどうか、本文でははっきりしていないのですが、魅力的な仮説ではないかと思います。


3.朝顔姫君は桐壺院崩御の諒闇中に斎院に卜定されているが、一体何故か。
 これは何故か今まで殆ど指摘されていないのですが、よく考えるとかなり重大な問題ではないかと思います。基本的に斎宮・斎院の卜定は諒闇中にされることはなく、通常なら1年の服喪が明けた後に新斎宮・斎院が選ばれるのですが、「賢木」では1年を待たずに桐壺院の姪である朝顔姫君が斎院となっています(注:当時の斎宮は六条御息所の娘の秋好で、桐壺院の娘ではなく、また天皇譲位でもないため退下の必要はなし)。歴史上でもこうした例は女王の斎院以上に少ない珍しいことで、言い換えるならこの時の朝顔斎院の卜定は随分強引だったということではないか、と考えました。


4.朝顔姫君の自邸が桃園宮とされたのは、紫野から近い場所だったからではないか。
 光源氏が須磨から帰京した後、冷泉帝の時代に式部卿宮が亡くなったことで、娘の朝顔姫君も斎院を退下しました。そこで「朝顔」では源氏が早速彼女に再び求愛するわけですが、その時朝顔が戻った邸宅が「桃園宮」であったという話が突然物語に登場し、その理由や準拠を求める先行研究も数多くあります。
 しかし朝顔斎院の卜定は先述の通りそもそも出だしから異例の上、「賢木」で卜定から半年経つか経たないかの秋には既に紫野斎院にいるかのような描写がされています。普通は宮中の初斎院にいるはずなのにおかしいではないか、という指摘はこれまでもあったものの、単なる勘違いかあるいは間違いと知っていて敢えて無視したかではないかと言われてきました。千尋もこれは間違いを承知の上で故意に書いたものだろうと思いますが、ただし後で「朝顔」を書いた時に、実はあれはまだ桃園宮にいる時だったということに変更したのではないかなと思うのです。「賢木」で源氏が滞在していた雲林院と紫野が近いのはよく知られたことですが、紫野と桃園もまた同じくらいに近いので、紫野に近い桃園宮で潔斎中の朝顔斎院に文を贈ったというのであれば、ちょっと苦しくはありますがありうる話ではないでしょうか。


 といった具合で、あくまでも歴史好きの素人が趣味で調べた結果のレポートではありますが、疑問に思った点は一通り調べられたので何とか肩の荷が下りました。とはいえ専門の方から見れば多分色々と問題点はあるでしょうし、明らかにおかしいという点があるようでしたら、ぜひご教示いただきたいと思いますので、よろしくお願いします。


関連過去ログ:
 ・賀茂祭の謎・六 源氏物語の中の斎院
 ・レポート提出
 ・天皇譲位と斎院退下


タグ :

賀茂斎院と伊勢斎宮

 2014/11/29(Sat)
 またまたご無沙汰しています、この秋はちょっと仕事が忙しくなってばたばたしており、なかなか落ち着いてゆっくりブログを書く時間が取れませんでした。それでちょっと煮詰まった反動で賀茂斎院サイトの方をちまちま修正していたのですが、こんな時に限ってとんでもないことを思いついてしまうもので、何故か本日突然「そうだ、伊勢斎宮のリストを作ろう!」等と思い立ってしまったのです。
 もっとも実を言えば、以前から伊勢斎宮の一覧も載せたいなとは密かに思っていました。何しろ賀茂斎院というものは、その誕生からして伊勢斎宮なしには存在し得なかった制度であり、伊勢斎宮を賀茂斎院なしに語ることはできてもその逆はあり得ません(いやもちろん、斎院が生まれてからは斎宮とて斎院なしには語れないのですが)。
 というわけで、そもそも千尋自身最初に興味を持ったのは伊勢斎宮の方だったので、実はリストも既に作成済みだったりもするのです。しかし現在のサイトとはちょっと違うフォーマットで作ってしまったもので、手直しが微妙に面倒だったのですよね(苦笑)。
 加えて単に伊勢斎宮のリストというだけなら、本場中の本場である斎宮歴史博物館様を始め、Wikipediaや歴史サイト様などネット上に多数公開されています。それなのに今さら自分が作っても仕方がないかなと思ったのも、何となく二の足を踏んでいた理由でした。

 しかしながら、そもそも拙宅はまがりなりにも「賀茂斎院専門」と銘打ったサイトです。日本史には素人の多分に自己満足的作品とはいえ、どうせ作るなら他にたくさんあるような斎宮一覧表ではなく、「賀茂斎院サイト」ならではの何かしら独自の要素を持つものでなければ、微妙に畑違い?の斎院サイトでわざわざ掲載する意味はあまりありません。
 そこで考えた結果、それじゃあ各斎院ごとに「同時期に斎宮だった人物のリスト」をつけたらどうだろう、と思ったわけです。元々「在任時の天皇」は基礎データとして一通りリストに挙げていましたので、それと同様に在任時の斎宮のリストを追加して、ついでに各斎宮の卜定から退下までのデータもつけてみました。さすがに結構な量でちょっと大変ではありましたが、作ってみるとなかなか楽しく、一人の斎院に対して同時期に何人もの斎宮が交替する例はわかっていましたけれど、逆に斎宮一代に複数の斎院が交替している時期も意外にあり、また同時期の斎宮・斎院の血縁関係も見事なくらいにまちまちなのも面白かったです。中には「いとこ孫の子(=いとこの曾孫)」等というややこしいものもあり、系図に書き出してみないと私自身も混乱してしまいそうでした。(今回ちょっと系図までは手が回らなかったので、またおいおい修正・追加していく予定です)

 ところで今回、これなら独立した伊勢斎宮一覧はうちのサイトには必要ないかなと思ったのですが、最後の方でちょっとそれを考え直す結果になりました。というのも、出来上がった斎宮のデータには、平安末期の潔子内親王だけが入っていないのです。
 これについては既に35代斎院礼子内親王の項で【後鳥羽・土御門朝の斎院卜定事情について】に書きましたが、潔子内親王が斎宮だった1185年から1198年までの間は平氏滅亡後のまだ混乱が続いていた時期でした。しかも当時は斎宮・斎院になれる未婚の内親王・女王が潔子以外に殆ど存在せず、また即位したばかりの後鳥羽天皇も幼少であったため、新たに斎宮・斎院候補となる皇女が生まれるまでに10年もかかってしまったのです。
 というわけで、結局潔子内親王は13年にわたる任期の間、ついに同時期の賀茂斎院を持たずに終わった、嵯峨天皇以降の平安時代では唯一人の斎宮だったのです。最後の頃には姪にあたる昇子内親王と粛子内親王が生まれていましたが、後鳥羽天皇はその在位中に斎院を任じることなく、彼もまた平安時代で唯一、賀茂斎院を持たない天皇として治世を終えたのでした。

 なお後鳥羽の異母兄で非業の死を遂げた安徳天皇は逆に、その短い治世で伊勢斎宮を持つことなく終わったこれも平安時代唯一の天皇でした(ちなみに安徳朝の斎院だった範子内親王は、高倉朝の斎宮功子内親王と任期が重なっていたので、同時期の斎宮を持たなかった斎院は存在しません)。しかし即位後1年足らずで父高倉上皇が崩御し(注・諒闇中1年間は新斎宮・斎院の卜定もできません)、さらにその後平家一門の都落ちという不運が重なった安徳はともかく、何故後鳥羽天皇は自身の皇女が生まれた後も斎院を卜定させようとしなかったのか、理由がわからず気になります。そのくせ息子の土御門天皇の時代には後鳥羽の皇女礼子内親王が賀茂斎院として復活しており(結局彼女が史上最後の斎院となってしまいましたが)、歴史上屈指の動乱期であったとはいえ、この頃の斎王制度は色々奇妙なことが多いのですよね。

 ともあれ、こうして伊勢斎宮と賀茂斎院を両方揃えて改めて見ることで、今まであまり意識しなかったことに色々気付かされました。以前歴代斎院候補一覧を作った時も面白い発見がたくさんありましたが、既に調べ尽くしたつもりのデータからもこうした掘り出し物?が見つかるあたりが油断できないというか、一度始めたらやめられない楽しさでもあります。飛鳥時代から南北朝まで続いた伊勢斎宮に比べれば、わずか400年足らずという歴史の短い賀茂斎院ですけれど、まだまだ開拓の余地はたくさんありそうで嬉しいですね。

関連参考図書:
 
伊勢斎宮と斎王―祈りをささげた皇女たち (塙選書)伊勢斎宮と斎王―祈りをささげた皇女たち (塙選書)
(2004/06)
榎村 寛之

商品詳細を見る

 斎宮入門書として必見の一冊。著者の榎本氏は、斎宮歴史博物館の研究者でいらっしゃいます。

タグ :

大斎院、波乱の幕開け

 2014/07/10(Thu)
 最近賀茂斎院サイトも更新ご無沙汰中ですが、小ネタの在庫はいくつかあるのでぼちぼち調査中です。というわけで、今日はそんな中からちょっと意外な新発見のお話など。

 斎院サイトのトップページに載せている歴代斎院一覧には最初卜定と退下の年月日のみを記載しましたが、去年これに初斎院入りと本院入りの年月日を追加しました。ところがその後色々と調査を進めているうち、16代選子内親王のデータに引っかかるものがあったのです。

 斎院が卜定されてから初斎院に入るまでの期間はその時によってばらばらですが、卜定が年の前半(6月まで)であれば大体年内、後半(7月以降)であれば翌年となるようで、早い例では2か月半、遅い場合でも殆どは丸1年以内に初斎院へ入っています。
 ところが選子内親王の場合、卜定(天延3年(975)6月25日)から初斎院入り(貞元元年(976)9月22日)まで実に1年3ヶ月かかっており、これは初斎院入りの年月日が判明している歴代斎院の中で最も長いのです。はて、これは誰か近親者に不幸でもあって延期になったのかと思い、「大日本史料データベース」で検索をかけてみたところ、この時期はとんでもない時代だったことが判って驚きました。

 まず選子の卜定からわずか5日後の天延3年(975)7月1日、日食が起こっています。しかもこれはただの日食ではなく、何と日本史上初と言われる皆既日食でした。
 最近の日本でも2009年、トカラ列島から奄美大島にかけて皆既日食があったことをご記憶の方も多いかと思います。また2012年にも金環食があり、日本中で大変な盛り上がりでしたね。
 しかし日食の光を浴びるだけでも不吉とされた平安時代のこと、まして真昼(といっても朝8時頃の話ですが)に太陽が真っ黒になって星が見えるという前代未聞のとんでもない天変に、当時の人々が大パニックに陥っただろうことは想像に難くありません。『日本紀略』にはこの時の様子について「日有蝕、(中略)卯辰刻皆虧、如墨色無光、群鳥飛亂、衆星盡見」とあり、震え上がった朝廷は大々的な恩赦や各神社への奉幣を行っています。私も2011年にオーストラリアまで行ったくらいには日食好きの天文好きなので、この日本最初の皆既日食の話は知っていましたが、まさかそれが選子内親王の卜定直後だったとは思わず驚きました。。

 しかも翌天延4年(976)はもっと凄く、まず5月11日に内裏で大火事が起こり、時の円融天皇(18歳)を始め皇后(藤原こう子)・東宮(師貞親王、後の花山天皇)が避難しています。さらにこの騒動も冷めやらぬ6月18日には大地震が平安京を直撃、「其響如雷」という激しい揺れで宮中の八省院・豊楽院を始め東寺・西寺・清水寺や多くの邸宅・人家が倒壊し、大勢の死者(清水寺だけで50人)を出す大惨事になったと記録されています。その後も7月末まで連日のように余震が起こり、そこへ酷い豪雨が追い打ちをかけるという有様で、これらの相次ぐ天変地異や災害に、とうとう7月13日に改元が行われる事態となりました。
 ちなみに選子より少し早く斎宮に卜定された異母姉の規子内親王(斎宮女御徽子女王の娘)は、天延4年2月に宮中(侍従厨)へ初斎院入りしており、5月の火災の後もそのまま留まっていたようです。そもそも斎宮規子の初斎院入りも穢れが続くなどで遅れており、それを待って斎院選子の初斎院入りも進められていたのかもしれませんが、これほどの混乱が続いたのではそれが大幅に遅れたのも無理はありません。

 結局9月21日に斎宮規子が宮中を出て野宮に入り、入れ替わりで翌22日にようやく選子は初斎院(大膳職)に入りました。しかしその翌日の23日、またもとどめのように大きな余震が起こったというのだから、何とも間が悪いと言う他ありません。現代と違って地震の科学的知識に乏しかった当時の事、幸先が悪いと選子自身や周囲の人々も不安に思ったのではないでしょうか。
 とはいえ、幸い余震はこれを最後に落ち着いたようで、円融天皇も安心したのか更に10年近く在位しています。しかし選子がその後56年もの間斎院にあり続けて「大斎院」と呼ばれるようになるとは、当時誰一人想像もしなかったでしょう。

 それにしても不思議なことに、『栄花物語』や『大鏡』ではこれらの日食や地震について殆ど触れていません。当時の人々にとってはさぞかし衝撃的な大事件だったろうと思うのですが、そういえば『枕草子』や『源氏物語』にも地震の話は出てこないのです。確かに紫式部などは下手をすればまだ生まれていない頃の話ですが、ただし『源氏』の「薄雲」帖では太政大臣(葵上の父、光源氏の舅)が亡くなった頃に「天つ空にも、例に違へる月日星の光見え、雲のたたずまひあり」であったという一文がさりげなく入れられています。もしかすると紫式部も、父親や周囲の大人たちからこの皆既日食の話を聞いたことがあったのでしょうか。
 ともあれ、サイトでは斎院絡みの事項のみピンポイントで年表にしていますが、その時代背景ももっとしっかり把握しておかなければならないのだなと、当たり前のことなのですがしみじみ痛感しました。以前「一覧表の功罪」について少し触れましたが、年表も同じなのですね。

 ところで大分前の話ですが、この平安時代の皆既日食については2001年に「平安京の天文博士 安倍晴明」というプラネタリウム番組(板橋区立教育科学館)で取り上げられたことがあります。しかもこの時の星空の映像はしっかり1000年前の星の運行を忠実に再現したものだったそうで、スタッフさんもとてもこだわって製作したと伺いました。内容も夢枕獏氏の『陰陽師』風のミニドラマ仕立てで、なかなか面白いものだったので、できればもう一度見てみたいです。

タグ :

祭りの季節

 2014/05/15(Thu)
 ご無沙汰していますこんにちは、しばらく公私共に多忙でばたばたしているうちに、早くもこの季節となりました。今年の葵祭はそれなりにお天気にも恵まれたのでしょうか、夕方のニュースでも報道されていましたね。
 千尋の葵祭見物体験はちょうど10年前の一度きりで、しかも当時はまだ賀茂斎院にはそれほど興味は持っていなかったので、時間が許せばぜひともまた行きたいです。特にこの季節は糺の森の新緑がとても美しく、12日の御蔭祭もなかなかに素敵なのですよね。

 さて葵祭と言えば斎王代、斎王代と言えば賀茂斎院というわけで、今日は少し前に出版されたお勧め本のご紹介です。

異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今集 (角川選書)異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今集 (角川選書)
(2014/02/22)
田渕 句美子

商品詳細を見る


 サブタイトルでおわかりの通り、この本は歴代賀茂斎院の中で恐らくもっとも有名な31代斎院・式子内親王を取り上げています。著者の田渕氏は『新古今集 後鳥羽院と定家の時代 (角川選書)』でも式子内親王について触れていますが、今回はさらに深く踏み込んで、堂々たる主役として再登場させてくれました。
 この本では近年式子内親王やその家族について新たにわかった研究結果等もかなりたくさん載せられていて、その意味でも貴重ですが、何よりもこれまでの「内気で非社交的な薄倖の皇女」と思われてきた式子内親王のイメージを一新させる内容は大変新鮮で面白いです。式子内親王がとりわけ多く歌った「忍ぶ恋」の和歌は実は題詠であったというのも驚きですし、そもそも「内親王」が職業歌人らと共に歌合わせに参加するというのも当時は異例のことであったというのは、現代人の感覚ではむしろ意外に思われますが、そうした目で見ると当時の式子内親王の存在は今思うよりもずっと大きなものであったのかもしれません。それは前斎院だからというわけではなく、後鳥羽院が歌人として高く評価したことが大きな理由の一つであったらしく、そう思うとちょっと嬉しいですね。

 ところで去年賀茂斎院サイトにアップしたレポートですが、その後色々と調べていて、平安後期の天皇は在位中に崩御した場合でも、建前上は「譲位した後に亡くなった」ことにされたらしい、ということを知って驚きました。これを「如在之儀」と呼ぶそうで、この結果堀河天皇以降の歴代天皇は在位中に崩御しても、儀式としては退位した上皇として亡くなった扱いにされたわけです。ということは、父ではない上皇の崩御では賀茂斎院も退下することはないわけですから、これは斎院絡みでもなかなかに重要な問題なのですね。
 去年の賀茂斎院レポートでは、後冷泉天皇や二条天皇等の崩御で斎院が退下しなかったのは「崩御した天皇が次の天皇の父ではなかった」ためではないかと考察しましたが、どうやら本当の理由はそもそも「天皇崩御とは見なされなかった」ことにあったようです。今のところ25代斎院禛子内親王の項目等で軽く触れていますが、この問題はかなり重要なものですので、いずれ改めてじっくり考察してみたいと思っています。

タグ :

三宮の娘たち

 2014/03/13(Thu)
 最近、30代賀茂斎院怡子内親王について調べていて、またちょっとおやっと思ったことがありました。

 怡子内親王は「内親王」とされますが、父親は天皇ではなく、後三条天皇の第三皇子輔仁親王(1073-1119)です。
 白河天皇と輔仁親王の父後三条天皇は、始め輔仁の同母兄(つまり白河院の異母弟)実仁親王を白河天皇の皇太子とし、さらに実仁の即位後は弟輔仁を実仁の皇太子とするつもりであったようです。摂関家と折り合いのよくなかった後三条天皇としては、傍系の養女とはいえ摂関家と縁の深い母を持つ白河天皇の血筋には、皇統を継がせたくなかったのかもしれません。
 しかし後三条天皇が思いがけず若くして亡くなり、さらに東宮実仁も15歳で夭折すると、白河天皇は輔仁を東宮にはせず、己の息子堀河天皇を即位させます。白河院としても己の直系に皇位を継がせたいのは当然で、白河院は堀河天皇の死後もさらに幼い孫鳥羽天皇を即位させ、結果的にそれが本格的な院政の始まりとなりました。その意味では、輔仁親王の存在が院政を生み出したとも言えるでしょう。

 そんな専制君主としてのイメージの強い白河院ですが、亡き父院の遺言に逆らってまで立坊を阻んだ異母弟には後ろめたい感情もあったのか、後に輔仁の息子の源有仁(花園左大臣)を猶子として優遇しています。とはいえ、皇族のままとしては将来に禍根を残すと思ったのでしょう、しっかり源氏として臣籍降下させているところはやはり抜け目がないですね。
 しかしながら女子に対してはそこまでの警戒を持つ必要もなかったのか、輔仁の娘の斎院怡子については同じく猶子としただけでなく、内親王宣下までさせていたとの記録があります。また輔仁にはもう一人、伊勢斎宮となった守子という娘もおり、この人もやはり内親王宣下を受けていたとされます。(「女王」とする史料もあり、宣下の年月日も不明ですが、同時代の『中右記部類』ではっきり「内親王」と記しているので信頼していいでしょう)

 さて、この輔仁の二人の娘については、輔仁が亡くなる前後の頃の『長秋記』という日記にその動向が記されています。
『長秋記』の著者である源師時は、生母が源基平の娘、つまり輔仁の母源基子の姉妹で、輔仁の従兄弟にあたる人物でした。さらに妻の源師忠女は輔仁の正室と姉妹だったので、いわゆる相婿でもあったわけです。こうした近しい関係だったために、輔仁失脚の際に気の毒にも巻き添えにされているのですが、おかげで日記にも記録が残っているのはありがたい限りです。


≪系図≫
 源基平―┬―源行宗―――行宗女
     │        *
     │        *―――――怡子(斎院)
     │        *
     ├―源基子―――輔仁親王
     │        *   ┌―源有仁
     │        *―――┤
     │        *   └―守子(斎宮)
     │     ┌―輔仁室
     │ 源師忠―┤
     │     └―師忠女
     │        *
     │        *
     └―基平女―――源師時


 さて、『長秋記』元永2年(1119)11月23日条によれば、病床の輔仁は己の家領の処分(妻子への遺産相続)について師時に相談したらしく、「家領荘園等可奉介[分]三位中将并姫御前也」とあります。「三位中将」は有仁のことで、「姫御前」について名前の記述はありませんが、『大日本史料』ではこの「姫御前」を守子女王・怡子女王としています。
 なおこの「姫御前」については、さらに「就中三位中将姫君事偏所憑汝也、姫君無縁人也、如汝子可思也」とも書かれています。
「そなたの子のように思って(私の死後も仕えてやって)くれ」ということを言っているらしいのは大体理解できるものの、「無縁人」というのがちょっとわかりにくいところです。この場合、父輔仁が死んでも家族はまだいるのだからまったくの天涯孤独ということはないはずなので、恐らく「頼りになる後見を持たない」といった意味でしょうか。
 確かに輔仁が亡くなってしまえば、「姫君」の兄有仁は当時中納言とはいえ弱冠17歳、頼りがいがあるとは言えなかったでしょう。一方祖母源基子はこの頃存命とはいえ、既に71歳という高齢で、こう言っては何ですが余命幾ばくもないのは明らかです。そういう意味では、「姫君」に頼もしい後見がいないというのは確かにその通りでしょう。

 ところがここでちょっと気になることに、有仁・守子兄妹の外祖父である源師忠は当時既に亡くなっていますが、怡子の外祖父である源行宗は健在なのです。
 行宗にとって輔仁は娘婿ですから、当然ながら輔仁の葬儀にも供奉しており、『長秋記』にも名前が出てきます。元々行宗は輔仁の叔父でもあり(姉基子が輔仁の母)、当時としては稀な80歳という長寿を全うしました。
 もっとも当時行宗は兵衛佐で、決して身分高い人物ではなく、その後も長生きしながらついに公卿となることはありませんでした。とはいえ実の祖父が健在であれば心強い後見であったでしょうし、「無縁人」というのはおかしいように思います。

 それで考えたのですが、問題の「姫御前(または姫君)」というのは怡子のことは含まず、守子のことだけを指しているのではないでしょうか?

 既に述べたように守子の外祖父は既に亡く、また母(輔仁室)と兄は健在とはいえ、後見として心強い存在とは思えません。本来ならば恐らく側室の子であったと思われる怡子よりも、正室を母に持つ守子の方が重んじられていたはずですが、頼れる外戚がいないという事実は「無縁人」とまで言われるほどに心細いものだったのでしょうか。
 それにしても、当時輔仁の息子有仁は既に白河院の猶子となっていたはずです。同様に守子・怡子の娘たち二人も白河院猶子とされていたのなら、死の床にある輔仁がここまで心配したというのはどうも納得がいきません。
 ここからはまったくの想像ですが、もし守子・怡子の二人が白河院猶子となったのが事実であったとすれば、それは輔仁の死後のことであったのではないでしょうか。白河院は既に兄有仁は猶子として優遇していましたが、後見の弱い娘に心を残しつつ死んだ弟輔仁が恨みから怨霊となり我が子孫に祟るのを恐れて、守子・怡子ら姉妹に内親王宣下をしたという可能性は充分ありそうに思います。既に述べたように、女子であれば内親王宣下をしても将来己の子孫が皇位を脅かされる心配もないわけですし、さらにその後守子・怡子はそれぞれ斎宮・斎院となっていますから、面倒な相手と結婚する確率も相当低いと思われたでしょう。

 ともあれ、輔仁親王は子供たちの将来を案じながら亡くなり、周囲の人々は悲しみにくれつつ葬儀を行いました。『長秋記』元永2年(1119)12月5日条には、葬送に供奉した顔ぶれについての記録があります。

「中納言殿(有仁)・姫宮(守子?)・母堂(源基子、輔仁の母)・源兵衛佐(行宗)・美濃権守(源忠宗、輔仁の従兄弟)・八郎大夫・今御前<兵衛佐孫也>・仁和寺禅公(信証、輔仁の子)給参服」

 この中で「八郎大夫」と「今御前」という二人については、『大日本史料』にも特に注記等はないので実名はわかりません。ただ「今御前」については恐らく女性で、さらに「兵衛佐孫也」と注があることから、恐らくこれが怡子のことではないかと思われます。
 そもそも『長秋記』の一連の記事の中で、怡子についての記述と思われるのは先述の「姫御前」「姫君」だけです。しかし「姫君」が正室腹の守子のみを指すとすれば、怡子の名はまったく出てきていないことになりますが、これはさすがにおかしくはないでしょうか。
 側室腹(多分)の娘とはいえ、怡子の母親は一介の女房(いわゆる召人)などではなく、血筋から言えば母親は輔仁の従姉妹にあたります。また後に斎院となっているくらいですから、怡子も輔仁の娘の一人として、ある程度は社会的に認知された立場であったと思われます。ましてやこの時の葬送には、異母きょうだいたちはもちろんのこと怡子の外祖父行宗も供奉していたのですから、彼らと共に怡子も加わっていたと見るのは自然なことではないかと考えます。

 ともあれ、この後守子・怡子の二人はそれぞれ斎宮・斎院に卜定されたことで記録が残りましたが、退下した後の消息は殆ど何もわかっていません。守子は1156年に亡くなったとされるものの、3年後の1159年に26年という長い任期を終えて退下した怡子については、その没年すらも不明です。かろうじて『今鏡』に「このごろ六十などにや余り給ふらむ」とあるので、1170年頃には存命だったようですが、恐らく60~70歳頃にひっそりと生涯を終えたと思われます。
 なお『今鏡』には、怡子が斎院であった頃に異母兄有仁が紫野本院を訪れて女房たちと歌を贈答した逸話が残っています。行宗女所生と伝わる輔仁の子は怡子だけですが、外祖父行宗の死後も長く斎院の任にあった怡子にとって、母は違えども兄弟との交流は何よりの慰めだったことでしょう。

 それにしても、上記の素性不明なもう一人「八郎大夫」も気になる所です。
 呼び方からして恐らく男性と思われますし、「八郎」というからには兄弟の多い人物だったのでしょうが、少なくともこの前後の記事にはこの名前はまったく見当たりません。ただ少し後の時代に「小八郎大夫」と呼ばれた片桐景重という人物がいるので、もしかするとその父親か祖父あたりかなとも思いましたが、それ以上はわかりませんでした。葬送に供奉しているくらいですから、それなりには輔仁に近しい人物の一人だったはずですが、一体誰なのでしょうね?


タグ :
≪ 前ページへ ≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫ 次ページへ ≫
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。