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三宮の娘たち

 2014/03/13(Thu)
 最近、30代賀茂斎院怡子内親王について調べていて、またちょっとおやっと思ったことがありました。

 怡子内親王は「内親王」とされますが、父親は天皇ではなく、後三条天皇の第三皇子輔仁親王(1073-1119)です。
 白河天皇と輔仁親王の父後三条天皇は、始め輔仁の同母兄(つまり白河院の異母弟)実仁親王を白河天皇の皇太子とし、さらに実仁の即位後は弟輔仁を実仁の皇太子とするつもりであったようです。摂関家と折り合いのよくなかった後三条天皇としては、傍系の養女とはいえ摂関家と縁の深い母を持つ白河天皇の血筋には、皇統を継がせたくなかったのかもしれません。
 しかし後三条天皇が思いがけず若くして亡くなり、さらに東宮実仁も15歳で夭折すると、白河天皇は輔仁を東宮にはせず、己の息子堀河天皇を即位させます。白河院としても己の直系に皇位を継がせたいのは当然で、白河院は堀河天皇の死後もさらに幼い孫鳥羽天皇を即位させ、結果的にそれが本格的な院政の始まりとなりました。その意味では、輔仁親王の存在が院政を生み出したとも言えるでしょう。

 そんな専制君主としてのイメージの強い白河院ですが、亡き父院の遺言に逆らってまで立坊を阻んだ異母弟には後ろめたい感情もあったのか、後に輔仁の息子の源有仁(花園左大臣)を猶子として優遇しています。とはいえ、皇族のままとしては将来に禍根を残すと思ったのでしょう、しっかり源氏として臣籍降下させているところはやはり抜け目がないですね。
 しかしながら女子に対してはそこまでの警戒を持つ必要もなかったのか、輔仁の娘の斎院怡子については同じく猶子としただけでなく、内親王宣下までさせていたとの記録があります。また輔仁にはもう一人、伊勢斎宮となった守子という娘もおり、この人もやはり内親王宣下を受けていたとされます。(「女王」とする史料もあり、宣下の年月日も不明ですが、同時代の『中右記部類』ではっきり「内親王」と記しているので信頼していいでしょう)

 さて、この輔仁の二人の娘については、輔仁が亡くなる前後の頃の『長秋記』という日記にその動向が記されています。
『長秋記』の著者である源師時は、生母が源基平の娘、つまり輔仁の母源基子の姉妹で、輔仁の従兄弟にあたる人物でした。さらに妻の源師忠女は輔仁の正室と姉妹だったので、いわゆる相婿でもあったわけです。こうした近しい関係だったために、輔仁失脚の際に気の毒にも巻き添えにされているのですが、おかげで日記にも記録が残っているのはありがたい限りです。


≪系図≫
 源基平―┬―源行宗―――行宗女
     │        *
     │        *―――――怡子(斎院)
     │        *
     ├―源基子―――輔仁親王
     │        *   ┌―源有仁
     │        *―――┤
     │        *   └―守子(斎宮)
     │     ┌―輔仁室
     │ 源師忠―┤
     │     └―師忠女
     │        *
     │        *
     └―基平女―――源師時


 さて、『長秋記』元永2年(1119)11月23日条によれば、病床の輔仁は己の家領の処分(妻子への遺産相続)について師時に相談したらしく、「家領荘園等可奉介[分]三位中将并姫御前也」とあります。「三位中将」は有仁のことで、「姫御前」について名前の記述はありませんが、『大日本史料』ではこの「姫御前」を守子女王・怡子女王としています。
 なおこの「姫御前」については、さらに「就中三位中将姫君事偏所憑汝也、姫君無縁人也、如汝子可思也」とも書かれています。
「そなたの子のように思って(私の死後も仕えてやって)くれ」ということを言っているらしいのは大体理解できるものの、「無縁人」というのがちょっとわかりにくいところです。この場合、父輔仁が死んでも家族はまだいるのだからまったくの天涯孤独ということはないはずなので、恐らく「頼りになる後見を持たない」といった意味でしょうか。
 確かに輔仁が亡くなってしまえば、「姫君」の兄有仁は当時中納言とはいえ弱冠17歳、頼りがいがあるとは言えなかったでしょう。一方祖母源基子はこの頃存命とはいえ、既に71歳という高齢で、こう言っては何ですが余命幾ばくもないのは明らかです。そういう意味では、「姫君」に頼もしい後見がいないというのは確かにその通りでしょう。

 ところがここでちょっと気になることに、有仁・守子兄妹の外祖父である源師忠は当時既に亡くなっていますが、怡子の外祖父である源行宗は健在なのです。
 行宗にとって輔仁は娘婿ですから、当然ながら輔仁の葬儀にも供奉しており、『長秋記』にも名前が出てきます。元々行宗は輔仁の叔父でもあり(姉基子が輔仁の母)、当時としては稀な80歳という長寿を全うしました。
 もっとも当時行宗は兵衛佐で、決して身分高い人物ではなく、その後も長生きしながらついに公卿となることはありませんでした。とはいえ実の祖父が健在であれば心強い後見であったでしょうし、「無縁人」というのはおかしいように思います。

 それで考えたのですが、問題の「姫御前(または姫君)」というのは怡子のことは含まず、守子のことだけを指しているのではないでしょうか?

 既に述べたように守子の外祖父は既に亡く、また母(輔仁室)と兄は健在とはいえ、後見として心強い存在とは思えません。本来ならば恐らく側室の子であったと思われる怡子よりも、正室を母に持つ守子の方が重んじられていたはずですが、頼れる外戚がいないという事実は「無縁人」とまで言われるほどに心細いものだったのでしょうか。
 それにしても、当時輔仁の息子有仁は既に白河院の猶子となっていたはずです。同様に守子・怡子の娘たち二人も白河院猶子とされていたのなら、死の床にある輔仁がここまで心配したというのはどうも納得がいきません。
 ここからはまったくの想像ですが、もし守子・怡子の二人が白河院猶子となったのが事実であったとすれば、それは輔仁の死後のことであったのではないでしょうか。白河院は既に兄有仁は猶子として優遇していましたが、後見の弱い娘に心を残しつつ死んだ弟輔仁が恨みから怨霊となり我が子孫に祟るのを恐れて、守子・怡子ら姉妹に内親王宣下をしたという可能性は充分ありそうに思います。既に述べたように、女子であれば内親王宣下をしても将来己の子孫が皇位を脅かされる心配もないわけですし、さらにその後守子・怡子はそれぞれ斎宮・斎院となっていますから、面倒な相手と結婚する確率も相当低いと思われたでしょう。

 ともあれ、輔仁親王は子供たちの将来を案じながら亡くなり、周囲の人々は悲しみにくれつつ葬儀を行いました。『長秋記』元永2年(1119)12月5日条には、葬送に供奉した顔ぶれについての記録があります。

「中納言殿(有仁)・姫宮(守子?)・母堂(源基子、輔仁の母)・源兵衛佐(行宗)・美濃権守(源忠宗、輔仁の従兄弟)・八郎大夫・今御前<兵衛佐孫也>・仁和寺禅公(信証、輔仁の子)給参服」

 この中で「八郎大夫」と「今御前」という二人については、『大日本史料』にも特に注記等はないので実名はわかりません。ただ「今御前」については恐らく女性で、さらに「兵衛佐孫也」と注があることから、恐らくこれが怡子のことではないかと思われます。
 そもそも『長秋記』の一連の記事の中で、怡子についての記述と思われるのは先述の「姫御前」「姫君」だけです。しかし「姫君」が正室腹の守子のみを指すとすれば、怡子の名はまったく出てきていないことになりますが、これはさすがにおかしくはないでしょうか。
 側室腹(多分)の娘とはいえ、怡子の母親は一介の女房(いわゆる召人)などではなく、血筋から言えば母親は輔仁の従姉妹にあたります。また後に斎院となっているくらいですから、怡子も輔仁の娘の一人として、ある程度は社会的に認知された立場であったと思われます。ましてやこの時の葬送には、異母きょうだいたちはもちろんのこと怡子の外祖父行宗も供奉していたのですから、彼らと共に怡子も加わっていたと見るのは自然なことではないかと考えます。

 ともあれ、この後守子・怡子の二人はそれぞれ斎宮・斎院に卜定されたことで記録が残りましたが、退下した後の消息は殆ど何もわかっていません。守子は1156年に亡くなったとされるものの、3年後の1159年に26年という長い任期を終えて退下した怡子については、その没年すらも不明です。かろうじて『今鏡』に「このごろ六十などにや余り給ふらむ」とあるので、1170年頃には存命だったようですが、恐らく60~70歳頃にひっそりと生涯を終えたと思われます。
 なお『今鏡』には、怡子が斎院であった頃に異母兄有仁が紫野本院を訪れて女房たちと歌を贈答した逸話が残っています。行宗女所生と伝わる輔仁の子は怡子だけですが、外祖父行宗の死後も長く斎院の任にあった怡子にとって、母は違えども兄弟との交流は何よりの慰めだったことでしょう。

 それにしても、上記の素性不明なもう一人「八郎大夫」も気になる所です。
 呼び方からして恐らく男性と思われますし、「八郎」というからには兄弟の多い人物だったのでしょうが、少なくともこの前後の記事にはこの名前はまったく見当たりません。ただ少し後の時代に「小八郎大夫」と呼ばれた片桐景重という人物がいるので、もしかするとその父親か祖父あたりかなとも思いましたが、それ以上はわかりませんでした。葬送に供奉しているくらいですから、それなりには輔仁に近しい人物の一人だったはずですが、一体誰なのでしょうね?


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