伊勢斎宮の謎・5 五人姉弟の誕生日

 2014/01/30(Thu)
 最近、31代斎院式子内親王関連の論文を漁っている中で、ちょっと引っかかることがありました。

 賀茂斎院サイトでも触れているとおり、後白河天皇の皇女である式子内親王は、同母の姉二人と弟二人を持つ5人姉弟の真ん中に生まれた人です。生母は高倉三位と呼ばれた閑院流出身の藤原成子で、この女性は待賢門院璋子の姪にして後白河天皇の従姉(1歳年上)でした。
 そして、この5人姉弟の2番目、つまり式子の姉にあたる好子内親王だけが生年不明とされています。しかし、他の4人の生年を改めて確認して、ちょっと驚きました。

 亮子内親王:1147年
 好子内親王:?
 式子内親王:1149年
 守覚法親王:1150年
 以仁王:1151年

 以上のように、長子の亮子内親王が1147年生まれ、末っ子の以仁王が1151年生まれで、この二人の年齢は4歳差です。そして第3子の式子内親王と第4子の守覚法親王の生年も合せて見れば、どう考えても亮子内親王と式子内親王の間に生まれた好子内親王は1148年生まれとしか思えません。(もっとも、亮子・式子どちらかと双子であれば話は別ですが)
 ということは、この5人姉弟、揃って年子だということになります。
 2人か3人かならまだしも5人連続!? と、これにはさすがに驚きました。いかに後白河天皇(当時はまだ雅仁親王でしたが)の寵愛が篤かったとしても、5年間毎年妊娠・出産の繰り返しって、健康に恵まれたタフな女性でもかなり辛いものがありますよねえ。式子内親王の年齢が判明する前は、式子を以仁の妹と見る説が有力だったようですが、これでは無理もないと納得しました。

 そもそも平安時代は女性の産褥死が現代に比べて格段に多く、後宮の皇后・中宮や女御といった高貴な女性でさえ何人もが出産で命を落としています。現に後白河の第一皇子守仁親王(のちの二条天皇)の生母源懿子も、出産後間もなく不幸にも疱瘡(天然痘)で亡くなりました。
 もっとも当時貴族女性の生活スタイルは殆ど引きこもりに近く、そういう意味では逆に身分高い人ほど(食生活はともかく)運動不足で不健康だったかもしれません。それだけに、この高倉三位は平安の貴族女性にしては随分たくましいなあと感心しましたが、そういえば高倉三位の叔母である待賢門院も子だくさんで、しかも7人中4人がこれまた年子なのですよね…凄い家系です。(もっとも同じ閑院流でも、鳥羽天皇の生母は出産で呆気なく亡くなっていますが)

 話戻って、この5人姉弟は残念ながら誕生日まではわかっていません。しかし何しろ5人揃って年子とあれば、どんなに短く見積もっても12ヶ月以上の間隔を置いて生まれていたのではないか、と思い当たりました。
 そこで平安時代の皇族で年子の例を探してみたところ、一条天皇の皇后定子が13ヶ月、同中宮彰子が14ヶ月、後朱雀天皇中宮げん子(げん=女偏に原)が16ヶ月、白河天皇中宮賢子が13ヶ月と、殆どが13ヶ月以上の間隔で出産しています。唯一待賢門院だけが第3子出産後12ヶ月で第4子を産んでいますが、その後の第5子と第6子はそれぞれ14ヶ月離れていますし、やっぱり最低でも13~14ヶ月くらいは間を置かないと、さすがに母体がもたないのでしょうね。(なお外国の例ですが、オーストリアの女帝マリア・テレジアは20年間で16人の子を次々産んでおり、うち3回は13ヶ月間隔という凄い人でした。…脱帽)

 というわけで、高倉三位の場合も第1子(亮子)と第2子(好子)は12~13ヶ月くらいの間隔で生まれたとしても、その後の3人はもう少し間を置いて妊娠・出産したのではないかと思います。仮に長子の亮子を1月生まれ、最後の第5子(以仁)を12月とすれば、好子が3月生まれ、その後第3子(式子)が5月、第4子(守覚)が8月、といったところでしょうか。これだと大体14ヶ月、14ヶ月、15ヶ月、16ヶ月の間隔ということになり、それほど不自然ではありません。(ただしあくまで最大間隔での仮定です、念のため)
 ともあれ、5年間毎年出産だなんて考えただけでもぐったりしそうですが、それほど寵愛された?わりには、後白河即位後の高倉三位はすっかり影の薄い存在となっています。後白河天皇が即位したのは1155年ですが、高倉三位の父藤原季成は当時やっと権中納言だったとはいえ、兄の内大臣実能の孫娘忻子は女御として入内、翌年には中宮として立后しています。季成は皮肉にもその中宮忻子の中宮大夫となっており、一方で季成の娘高倉三位はその呼称の通り従三位に叙されたとはいえ、ついに女御にすらなれませんでした。
 なお中宮忻子は上西門院統子内親王にも引けを取らない美貌であったとされており、また「二代の后」として知られる多子(近衛天皇・二条天皇の后)の姉ですから、大変な美人姉妹だったようです。しかし何故か後白河の寵愛は薄かったらしく、長く同殿することもなく子女にも恵まれませんでした(後白河院が「箱入りお姫様は好みでなかったのでは」という意見もありますが、確かにそうかも…)。


藤原公実──┬―徳大寺実能――徳大寺公能――藤原忻子(後白河中宮)
      |                *
      |                *     ┌―亮子
      |                *     |
      ├―待賢門院璋子――――――――後白河天皇  ├―好子
      |                *     |
      |                *―――――┼―式子
      |                *     |
      └―藤原季成――――――――――藤原成子   ├―守覚
                     (高倉三位)  |
                             └―以仁


 こうして見ると、後白河即位後の高倉三位は、そもそも後宮からも遠ざかっていた(または遠ざけられた)可能性もありそうです。これはまったくの想像ですが、なまじ早くに多くの子をもうけていたことが摂関家や美福門院に警戒され、高倉三位を正式な女御にさせないことでその息子たちの親王宣下を阻んだのかもしれません。
 とはいえこの頃は、天皇の実子であっても皇后所生の皇子女以外の子は親王宣下されないのが慣例でした(法親王と斎宮・斎院のみ例外)。また後白河の後継者は即位当時から長男守仁親王に決められており、それも生母の死後すぐに美福門院の養子とされたことが大きかったようです。その後、二条天皇が即位したことで天皇家の直系が確定され、そこから外れた高倉三位所生の子女たちは皆、皇子・皇女としての晴れがましい運命など望むべくもなかったでしょう。

 その後平滋子(後の建春門院)が寵愛を受けるようになり、他の(恐らくは若く美しい)女房たちも次々後白河の子を身ごもる中、既に30を越えていたいわば糟糠の妻である高倉三位の出る幕はますますなくなっていったと思われます。さらに1165年の父季成死去で有力な後見を失い、娘たちは次々に斎宮・斎院として手元を離れ、息子も寺送りになるなど恵まれた状況とはいえなかった高倉三位にとっては、末っ子の以仁王が悲惨な死を遂げるのを見ることなく亡くなったのがせめてもの救いでしょうか。


 ところで以前にも触れましたが、以仁王の姫宮の一人は八条院猶子となっており、八条院は建久7年(1196)に彼女への内親王宣下を希望しています。これに対して、九条兼実はその日記『玉葉』(建久7年1月12日条)で「父宮非親王其子為親王例問外記、無先規云々」と記しており、更に同月15日には「父非親王之人蒙此宣旨之例未曾有也、加之父宮已刑人被除名了、其子忽預此恩」という具合で、要するに「親王でもなく、まして罪人となった人の子に親王宣下などもっての外」とされ、八条院の要望は却下されました。
 これについては、この頃兼実の孫娘である昇子内親王(後鳥羽天皇皇女、中宮任子所生)も八条院猶子となっており、その莫大な財産の相続を狙っていたという背景もあったようです。とはいえ、少なくとも建前として「皇子といえども親王宣下されていない宮の子は、親王にはなれない」という見解が、八条院の要求を退けるだけの理由となったのでしょう。逆に言えば、もしこの時姫宮が内親王宣下を受けられていたなら、そのことによって斎王候補となりうる可能性もあったかもしれませんが、やはり輔仁親王の娘たちの時のようにはなりませんでした。

 ともあれ、この時病床にあった八条院は回復しましたが、皮肉にもその後姫宮の方が八条院に先だって35歳の若さで亡くなります。八条院はその死を非常に嘆いたといい、これにより八条院の所領は昇子内親王が受け継ぐことになったのですが、何と八条院の他界からわずか半年足らずで17歳の昇子内親王も後を追うように死去してしまいました。結局その後、広大な八条院領は昇子内親王の異母弟順徳天皇が相続し、さらに紆余曲折を経て南北朝の大覚寺統へと受け継がれていくことになります。


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