賀茂祭の謎・六 源氏物語の中の斎院

 2012/09/22(Sat)
 以前「賀茂祭の謎・参 紫式部の見た御禊」にて、紫式部は「初斎院御禊」を見たことがあったか、という問題提起をしました。その後も気になって『源氏物語』の中の斎院に関する研究書や論文を色々読んでみたのですが、あまり手応えがないなあと思っていた矢先、まさにどんぴしゃりの考察に遭遇して飛び上がりました。

 つい最近出たらしい『国語国文』(81巻8号)掲載の「『源氏物語の死角――賀茂斎院考』」(今井上著)という論文なのですが、冒頭から例の「葵」帖の斎院御禊についての考察で始まったのにまずびっくり。もっとも論点は残念ながら例の車争いではないのですが、この御禊が従来「初斎院御禊(論文では「二度の御禊」としています)」とされてきたのは正しいのか、というところから展開されていって、いや実にスリリングな面白い内容でした。『源氏物語』の年立てについては、千尋もあまり詳しくないので今まで深く追求したことはなかったのですが、あの御禊が斎院の卜定から何年目かというのは『源氏』の世界では大変に重要な要素だったのですね。

 ちなみに現行の多くの注釈書では、斎院の卜定は「花宴」の翌年になされたものと考え、さらにその次の年が「葵」での御禊としているそうです。今井氏も恐らくそれが妥当であろうとしつつも、卜定の翌年に御禊があるのはおかしいのではないかと疑問を呈し、14代斎院婉子内親王の実例を紹介しています。確かに、婉子の卜定は承平元年(931)12月25日で、初斎院入りが承平2年(932)3月16日、そして野宮(紫野本院)入りが承平3年(933)4月12日ですから、卜定の翌々年なのですよね。
 ただし、仮に斎院の卜定を「花宴」と同年にあったものと考えれば、初斎院が翌年、そして本院入りが「葵」の年とするのに矛盾はありません。
 今井氏も紹介しているように、婉子の異母姉である12代宣子内親王も延喜15年(915)7月19日卜定、延喜17年(917)4月16日本院入りしており、また同じく11代恭子内親王も延喜3年(903)2月19日に卜定、延喜5年(905)4月18日に本院入りと、やはり卜定から丸2年前後で本院入り(=「初斎院御禊」)をしています。さらに下って15代尊子内親王、16代選子内親王もやはり卜定から約2年で紫野本院入りしているので、10世紀を通じて卜定から本院入りの期間は皆2年前後だったということですね。

 ただここで今井氏は桐壺帝譲位後の斎宮・斎院の卜定を同時期であると見なし、だとすれば「葵」の前年にあるはずだったという斎宮の宮中入りがあまりにも遅すぎるということで、桐壺帝譲位ならびに斎宮・斎院の卜定を「花宴」と「葵」の間の一年のどこかとしています。しかしそうなると、今度は斎院卜定から初斎院を経て本院入りまで長くても1年3ヶ月しかないことになり、今度はこちらが短すぎるのを疑問とされていました。

 もっともこれについては、私は斎宮・斎院の卜定は別に同時でなくてもいいと思うのです。

 というのも、そもそも天皇一代限りが原則であった斎宮とは異なり、天皇の譲位で斎院が交替した例はとても少ないのです。斎院サイトの年表にも載せていますが、少なくとも9世紀半ばから10世紀末にかけての(恐らく『源氏物語』の参考ともなったであろう)歴代斎院の中で、天皇譲位で退下した斎院は一人もいません。
 これが天皇「崩御」であれば斎院も当然退下となるのですが、何度も述べたように桐壺帝は「葵」の少し前に譲位したのちも健在で、亡くなるのは「葵」翌年の「賢木」でのことです。しかも『源氏』の原文を注意して見ると「そのころ、斎院も下りゐたまひて」とあるだけで、斎院退下の理由が桐壺帝の譲位によるものであるとは書いていないのです。
 それを言うなら、斎宮の方も「まことや、かの六条御息所の御腹の前坊の姫君、斎宮にゐたまひにしかば」としか書いていないだろうと言われそうですが、天皇が代替わりすれば斎宮も交代するのは当たり前の大原則でした。一方、『源氏物語』の時代に現実に存在した斎院は、くどいようですがあの選子内親王です。彼女は当時でさえ既に天皇三代に渡り在任中でしたから、それに慣れた人々にとっては譲位=斎院交替という発想にならない方が当然だったでしょう。(なお「賢木」では当然「斎院は、御服にて下りゐたまひにしかば」と、父院崩御による退下であることを明記しており、次の朝顔斎院も朱雀帝の譲位では退下しませんでした)

 となると、前斎院が何らかの(老齢や疾病等)理由で退下したのがたまたま「世の中かはりて(桐壺帝が朱雀帝に譲位して)後」と同じ頃(正確には少し前)だった、という可能性も考えられるのではないでしょうか。それであれば、まず「花宴」と同年に斎院の退下と新斎院(桐壺帝女三宮)の卜定があり、その翌年に桐壺帝が譲位して新斎宮(六条御息所の娘)が卜定されたと考えてもおかしくはないはずです。

 また今井氏は、13代韶子内親王と14代婉子内親王、そして14代婉子内親王と15代尊子内親王の交替の間の期間が1年以上の長期であることにも着目しています。というのも、こうした実例から新斎院の卜定がすぐに決まらないこともあり、となるとやはり「花宴」~「葵」の間に前斎院退下、新斎院卜定→初斎院→本院入りを済ませるのは無理ではないか、という問題提起に繋がるわけです。
 しかしこの2例のブランクが長かったのはむしろ当然のことで、13代韶子の退下は醍醐天皇の崩御、また14代婉子の退下も恐らくは村上天皇の崩御によるものでした。歴史上で今上天皇か父上皇崩御による斎院退下の後、1年以内に卜定された斎院は4代慧子内親王と18代娟子内親王の2人だけです。逆に8代穆子内親王、9代直子女王、14代婉子内親王、15代尊子内親王、19代禖子内親王、23代斉子女王、 26代官子内親王の7人は皆先帝・上皇の崩御後1年以上経ってからの卜定でした。(もちろん同時期に交替した斎宮も同様です)

 なおここで重要なのは、(実は私も今回調べ直して気がついたのですが)この7例がすべて、新帝にとっても父の死即ち「諒闇」(天皇が父母の喪に服すること)だったことです。今井氏が例として挙げた14代婉子の場合も、崩御した先帝は新帝・朱雀天皇のみならず彼女自身の父帝でもあったのですから、諒闇でなくても娘として父の喪が明けるまでは卜定されるわけにはいかなかったのは当然でしょう。(ちなみに18代娟子の場合、崩御した先帝は新帝・後朱雀天皇(娟子の父)の兄にあたる後一条だったので、諒闇でなかったことが1年経たずに卜定された原因でしょうか?)
 というわけで、桐壺帝女三宮の斎院卜定はそもそも天皇・上皇崩御による交替ではないのは明らかです。(ただし桐壺帝の在位中に、その父と思われる上皇(「紅葉賀」の朱雀院)が崩御した可能性もありますが、この人物は「紅葉賀」でしか登場せず、また史実の醍醐天皇は父宇多天皇より先に亡くなっているのでひとまずなしとします) よって、前斎院が桐壺帝の譲位より以前に何らかの個人的理由で退下したものとすれば、その後年内に新斎院(桐壺帝女三宮)の卜定に至ったと考えられます。

 略年表
  源氏20歳(「花宴」) 4月以降(?)、桐壺帝斎院退下。新斎院(桐壺帝女三宮)卜定
  源氏21歳       新斎院の初斎院入り。桐壺帝譲位、新斎宮(六条御息所の娘)卜定。
  源氏22歳(「葵」)  4月、新斎院の本院入り。秋、新斎宮の初斎院入り。9月、新斎宮の野宮入り
  源氏23歳(「賢木」) 9月、新斎宮の伊勢下向

 なお今井氏も触れていることですが、新斎宮(後の秋好中宮)の卜定から伊勢下向に至る一連の過程は、史実の斎宮規子内親王の例をほぼ忠実になぞったものと言われています。厳密に言えば、規子内親王の場合の初斎院入りは2月のことでしたが、本来975年中に行う予定だったのが穢れやら何やらの連続のために遅れて年を越してしまったという事情があったのは本当でした。ですから「賢木」の「去年内裏に入りたまふべかりしを、さまざま障はることありて」というくだりは、この新斎宮の場合もそうした事情で遅れていたのだとほのめかしたのでしょう。

 規子斎宮略年表
  天延3年(975)2月27日  規子内親王、斎宮卜定
  貞元元年(976)2月26日 規子斎宮、宮中初斎院(侍従厨)入り
       同年9月21日 規子斎宮、野宮入り
  貞元2年(977)9月16日  規子斎宮、伊勢下向。母徽子女王も同行


 少々重箱の隅をつつくような話が続きましたが、とはいえ全体には今井氏の考察はとても興味深いものでした。朝顔斎院が卜定の半年後に既に紫野にいるとした描写(「賢木」)等の矛盾についても、これは作者紫式部自身が賀茂斎院の制度について正確に知らなかったからではないか、という指摘は、まさしく私もついこの前に触れたばかりの点だったので、何というタイミングかと驚きつつ大変嬉しかったです。ちょっと引用させていただきますと、今井氏は「選子があまりにも長期にわたって斎院としてあり続けたことが、逆に、この時代の人々を実際の斎院制度、ことに本院渡御以前のあり方について疎くし、ひいては『源氏物語』における斎院の描かれ方にも、ひとつの限界をもたらす結果になったとは考えられないか」と述べておられて、このくだりなどはまさしく我が意を得たりという感じで感激しましたね。

 なおこれまた少々重箱の隅ですが、紫式部がその生涯で見たかもしれない斎宮卜定に天延3年(975)2月27日の規子内親王を加えるとするなら、同年6月25日の選子内親王の斎院卜定もかろうじて引っかかるのですよね。もっとも当時式部は生まれていたとしても恐らく物ごころつくかつかないかだったでしょうから、彼女が斎院卜定から本院入りまでの過程を自分の目で見たことがなく、もちろん同世代やそれより若い多くの宮廷人たちも同様だったというのはやはり変わりないわけです。今井氏はこれを「一条朝の文学の限界」と呼んでおられましたが、そう思って『源氏』や『枕草子』を読み返すと、また色々見えてくるものがありそうですね。

 ともあれ、先月しばらく調査に熱中した後で一息ついていたところに、またしても意欲を掻き立てられるような素晴らしい論文に遭遇してちょっと興奮してしまいました。(笑) 今井氏のご指摘にもありましたが、この分野はまだまだ未開拓だけに研究のし甲斐もたくさんありそうなのが嬉しいところで、これからもじっくりと長いお付き合いをしていきたいです。


 関連過去ログ
 ・賀茂祭の謎
 ・賀茂祭の謎・弐 行きか帰りか
 ・賀茂祭の謎・参 紫式部の見た御禊
 ・賀茂祭の謎・四 源氏物語から百年後
 ・賀茂祭の謎・伍 源平合戦前夜の御禊

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