醍醐天皇の子どもたち

 2012/09/06(Thu)
 最近賀茂斎院データを見直していて、14代婉子内親王のきょうだいのところで気になることがありました。

『平安時代史事典』等によれば、婉子内親王は醍醐天皇の皇女で、母は更衣藤原鮮子です。また同母のきょうだいには、代明親王(904-937)、12代恭子内親王(902-915)、敏子内親王(生没年不明)、の3人がいます。
 ところで、婉子内親王の生没年は904-969ということになっています。没年月日は記録が残っているので間違いありませんが、生年の904年は同母兄弟である代明親王と同じなのです。
 え、この二人って双子?と始め驚きましたが、二人の親王宣下や元服・裳着の日付を辿っていくと、何だかおかしい。さらに史料によって、婉子内親王を第三皇女としていたりかと思えば第七皇女だったりと、統一性がないのです。これはやっぱり変だというわけで、醍醐天皇の子女について『日本紀略』(以下『紀略』)や『一代要記』(以下『要記』)の記録を洗い出してみました。

【醍醐天皇皇子女の生没年と生母】
(※(源)とあるのは、降下の後に皇族復帰した源氏を表す)
 克明(903-927/9/24)、母源封子
 保明(903/11/30-923/3/21)、母皇后藤原穏子
 代明(904-937/3/29)、母更衣藤原鮮子
 重明(906-954/9/14)、母更衣源昇女
 常明(906-944/11/9)、母女御源和子
 式明(907-967/1/30)、母女御源和子
 有明(910-961/閏3/27)、母女御源和子
 時明(912-927/9/20)、母更衣源周子
 長明(912-953/閏1/17)、母更衣藤原淑姫
 寛明[朱雀](923/7/24-952/8/15)、母皇后藤原穏子
 章明(924-990/9/22)、母更衣藤原桑子
 成明[村上](926/6/2-967/5/25)、母皇后藤原穏子
 源高明(914-982/閏12/16)、母更衣源周子
 (源)兼明(914-987/9/26)、母更衣藤原淑姫
 源自明(917-958/4/17)、母更衣藤原淑姫
 源允明(918-942/7/5)、母源敏相女
 源為明(?-961/6/21)、母更衣藤原伊衡女
 (源)盛明(928?-986/5/8)、母更衣源周子

 勧子(899-?)、母妃為子内親王
 宣子(902-920/閏6/9)、母源封子
 恭子(902-915/11/8)、母更衣藤原鮮子
 慶子(903?-923/2/10)、母女御源和子
 勤子(904?-938/11/5)、母更衣源周子
 婉子(904-969/9/11)、母更衣藤原鮮子
 都子(905-981/10/21)、母更衣源周子
 修子(?-933/2/5)、母更衣満子女王
 敏子(906?-?)、母更衣藤原鮮子
 雅子(910-954/8/29)、母更衣源周子
 普子(910-947/7/11)、母更衣満子女王
 (源)靖子(915-950/10/13)、母源封子
 韶子(918-980/1/18)、母女御源和子
 康子(919?-957/6/6)、母皇后藤原穏子
 斉子(921-936/5/11)、母女御源和子
 英子(921-946/9/16)、母更衣藤原淑姫
 源兼子(915-972/9)、母更衣源周子
 源厳子(916-?)、母不明

 以上、男子18人・女子18人の合計36人でした。(この他、系図では養子にした宇多天皇の皇子2人も含まれますが割愛)

 このうち女子に関しては、末子と思われる英子内親王が第16皇女(『紀略』)・享年21(『要記』)とあり、どうやら「内親王」は16人で間違いないようです。また第1皇女から第3皇女までは、史料により多少違いはあるものの、勧子、宣子、恭子(または宣子と恭子が逆)の3人で確定としてよさそうです。
 問題は第4皇女から第7皇女までで、『紀略』は何故か勤子を第2皇女、慶子を第3皇女としていますが、その前に宣子を第2皇女、恭子を第3皇女と明記しているので、これは明らかに誤りです。加えて慶子内親王は生年の手がかりがまったくないのですが、『紀略』で904年に内親王宣下されていることは判っているので、『要記』に908年宣下とある勤子内親王より恐らく年上であろうと思われます。(もっとも『倭名類聚抄』他当時の歌集などには、勤子を「女四宮」とする記録が多く見られるので、慶子と勤子を取り違えている可能性もあります)

 さて続く2人は、『紀略』では都子内親王を第6皇女、婉子内親王を第7皇女としています。しかし『要記』では婉子を第3皇女とし、共に908年に内親王宣下を受けたものとして、婉子は5才、都子は4才となっているのです。
 婉子が第3皇女というのは上の2人と同じくなしとしても、宣下の年齢は一体どちらが正しいのか頭を抱えてしまいますが、ここで最初の問題、婉子は本当に904年生まれなのかという話に戻ります。
 同母の代明は『醍醐天皇御記』に919年16才で元服したことが記録されているので、904年生まれということにほぼ間違いありません。また他のきょうだいで905年以降の生まれとみられる皇子女はおおむね908年以降に親王宣下を受けており、仮に代明と婉子が双子だったとすれば、婉子が宣下された908年に代明も共に宣下されていないのはむしろ不自然ではないでしょうか。こうした状況から、(記録はありませんが)恐らく代明の親王宣下は905~906年のうちに行われたものと思われます。

【親王宣下の年と年齢一覧】
 克明(903生) 904/11/17宣下(2才)
 保明(903/11/30生) 904/2/10宣下(2才)
 代明(904生) 宣下不明
 重明(906生) 908/5/7宣下(3才)
 常明(906生) 908/4/5宣下(3才)
 式明(907生) 911/11/28宣下(4才)
 有明(910生) 911/11/28宣下(2才)
 時明(912生) 914/11/25宣下(3才)
 長明(912生) 914/11/25宣下(3才)
 寛明[朱雀](923/7/24生) 923/11/17宣下(1才)
 章明(924生) 930/9/29宣下(7才)
 成明[村上](926/6/2生) 926/11/28宣下(1才)

 勧子(899生) 900/12/14宣下(2才)
 宣子(902生) 903/2/17宣下(2才)
 恭子(902生) 903/2/17宣下(2才)
 慶子(903?生 )904/11/17宣下(2才?)
 勤子(904?生) 908/4/5宣下(5才?)<要記:2才>
 都子(905生) 908/4/5宣下(4才)
 婉子(?)
 修子(生年不明)
 敏子(生年不明) 911/11/28宣下<要記:6才>
 雅子(910生) 911/11/28宣下(2才)<要記:3才>
 普子(910生) 911/11/28宣下(2才)
 靖子(915生) 930/9/29宣下(16才)
 韶子(918生) 920/12/17宣下(3才)
 康子(919?生) 920/12/17宣下(2才?)
 斉子(921生) 923/11/18宣下(3才)
 英子(921生) 930/9/29宣下(10才)

 では、仮に婉子内親王の908年宣下が正しかったとして、当時婉子は一体何才だったのでしょうか。
 これについては、『紀略』が第6皇女とする都子内親王(981/10/21没)が享年77とあり、逆算して905年生まれであることが判ります。一方婉子はすぐ下の第7皇女ですから、908年の宣下で最低でも2才以上と考えると少なくとも905年以降でしょう。さらに907年生まれの式明親王が911年に親王宣下を受けているので、婉子は905~906年生まれにほぼ絞り込めるものと考えます。(式明は同母弟有明と共に宣下を受けていますが、910年生まれの有明を母源和子が身篭ったのはどう遡っても909年以降なので、式明は婉子より年下だったと見るのが妥当でしょう)


 なお皇子女の一覧表を見ていて面白いと思ったのが、特に醍醐天皇の寵愛篤かったと思われる妃3人が、ほぼ交代で毎年のように出産していたことでした。女御源和子が5人、更衣藤原鮮子が4人、更衣源周子が5人の子を産んでいて、表に直すとこんな感じです。

【妃たちの出産年】
 902  藤原鮮子 恭子内親王
 903  源和子  慶子内親王
 904  藤原鮮子 代明親王
    源周子  勤子内親王
 905  源周子  都子内親王
 906  源和子  常明親王
 906? 藤原鮮子 婉子内親王
 907  源和子  式明親王
 908? 藤原鮮子 敏子内親王
 910  源和子  有明親王
 910  源周子  雅子内親王
 912  源周子  時明親王
 914  源周子  源高明
 918  源和子  韶子内親王
 921  源和子  斉子内親王

 ちなみにこの間、皇后藤原穏子は903年に皇太子保明親王(当時穏子はまだ女御)が生まれた後、第2子となった康子内親王の誕生は実に16年後の919年です。その後保明が早世したこともあり、923年に朱雀天皇、926年に村上天皇が生まれていますが、こうしてみるとかなりあからさまというか、確かに源氏物語の桐壺帝とちょっと似ているかもしれませんね、醍醐天皇…


 というわけで、最終的に皇子女たちの生まれた順序と生年は、大体以下のとおりではないかという結論に達しました。

【醍醐天皇皇子・皇女の出生順と生年】
 1.克明 903生
 2.保明 903/11/30生
 3.代明 904生
 4.重明 906生(908宣下)
 5.常明 906生(908宣下)
 6.式明 907生(911宣下、有明は同母)
 7.有明 910生(911宣下)
 8.時明 912生(914宣下)
 9.長明 912生(914宣下)
  源高明 914生(920降下)
 10.(源)兼明 914生(920降下,977宣下)
   源自明 917生(920降下)
   源允明 918生(920降下,934元服)
   源為明 919-921?生(923降下,941元服)
 11.(源)盛明 919-922?生(923降下,942元服,967宣下)
 12.寛明[朱雀] 923/7/24生(923宣下)
 13.章明 924生(930宣下)
 14.成明[村上] 926/6/2生(926宣下)

 1.勧子 899生(900宣下)
 2.宣子 902生(903宣下)
 3.恭子 902生(903宣下)
 4.慶子 903?生(904宣下)
 5.勤子 904?生(908宣下、都子は同母)
 6.都子 905生(908宣下)
 7.婉子 905-906?生(908宣下)
 8.修子 907-908?(同母の普子が910生,911宣下)
 9.敏子 907-910?生(911宣下)
 10.雅子 910生(911宣下)
 11.普子 910生(911宣下)
 12.(源)靖子 915生(920降下?,930宣下)
 13.韶子 918生(920宣下)
 14.康子 919?生(920宣下)
 15.斉子 921生(923宣下)
 16.英子 921生(930宣下)

 内親王16人はそれほど混乱がなかったのですが、皇子たちのうち源氏に降下した末の2人と、朱雀天皇以下3人の親王の順序はかなり困りました。というのも、『紀略』では朱雀天皇を第11皇子、村上天皇を第14皇子としており、一方で盛明を醍醐第十五之子としているのです。
 盛明は923年に源氏に降下していたらしいので(『西宮記』では具体的な人名は書かれていないものの、年代から見て盛明と為明以外該当者なし)、少なくとも923年生まれの朱雀天皇よりは年上のはずです。なのに第15子とはこれいかに、と頭を抱えましたが、しばらく頭をひねった末、これはもしかすると源氏・親王を問わず純粋に生まれた順序を言っているのでは、と思いつきました。果たして並べ直してみると、盛明が第15子、朱雀天皇が第16子、村上天皇が第18子で、さらに親王だけなら盛明は第11親王、朱雀天皇は第12親王(『要記』も第12皇子とする)、村上天皇は第14親王となり、完全ではないもののほぼ一致します。(『紀略』はずっと後に編纂された史料なので、源氏に降下した後復帰した2人も年齢順にカウントしたようです)
 ただ『紀略』には盛明の享年が59とあり、これだと928年生まれになってしまうのですが、『紀略』も『要記』より古いとは言えちらほら誤りがあるそうなので、多分これは不正確なのだろうということにしました。もちろんこの二つの史料だけではここまで絞りきれず、大日本史料を片っ端からひっくり返して判る限りの史料を漁りましたが、醍醐天皇の子どもの年齢順がこんなに不明点が多いとは意外でした…

 ところでそういえば、醍醐天皇は歴代の天皇の中では割と名前を知られている方だと思うのですが(もっとも一般的にはまず「道真を左遷した人」というあまり芳しくないイメージでしょうけれど)、それにしては伝記等が殆ど出ていないということにもちょっと驚きました。もしかすると研究書には専門の論文等を収録したものがあるのかもしれませんが、そのうち吉川弘文館で出してくれないかなとちょっと期待しています。

追記:なお天皇の子女に関する資料で一番手っ取り早いのは恐らく『天皇皇族実録』で、醍醐天皇も2007年に発行済なのですが、あいにく我が家の近所にはこれを所蔵している図書館がないのでした。(何しろ大変お高い本なのです) 東京の大学図書館でも学外者が閲覧できるところはあまりなさそうなので、大変残念です…


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