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賀茂祭の謎・参 紫式部の見た御禊

 2012/08/04(Sat)
 前回の「賀茂祭の謎・弐」以降、当時の貴族の日記で御禊の様子を書いたものはないかと探していたのですが、やっぱり順路について詳しく触れたものはないようです。「尋常四月御禊」の記事は多いものの、斎院一代に一度しかない「初度御禊」「初斎院御禊」の二つは当然ながら記録も非常に少ないのですね。特に『小右記』が17代馨子内親王の初斎院御禊(1033年)の前年までしか残っていないのは痛恨の極みでした。残念。
 ところでそういえば伊勢斎宮の群行も、道程を詳しく書いたものは藤原資房の『春記』(時の斎宮は良子内親王)しかないのですよね。資房は上記『小右記』を遺した藤原実資の孫なので思い出したのですが、そこでまたまたあれ?と首を傾げました。
 そもそも紫式部は、「初斎院御禊」を見たことがあるのでしょうか?

 紫式部の生年や『源氏物語』を執筆した正確な年代は不明ですが、『紫式部日記』によれば1008年には既にある程度完成したものが世間にも流布していたようです。また生年は諸説あるものの、大体970年代頃という点ではほぼ一致しています。
 ところが、紫式部の時代の斎院はあの「大斎院」選子内親王です。選子が斎院に卜定されたのは975年、そして初斎院から紫野斎院に入ったのは977年で、仮に紫式部が970年生まれとしても当時数え8歳という幼少の頃の話です。
 その後選子は『源氏物語』が生まれるまで、円融、花山、一条と三代の天皇の賀茂斎院であり続けました。しかもその後もさらに三条、後一条と、合計五代57年もの間彼女が唯一の斎院であったので、当然その間「初度御禊」も「初斎院御禊」も行われることはなかったのです。

 もちろん、紫式部が中宮彰子の元に出仕していた頃も、斎院選子内親王の「尋常四月御禊」は毎年行われていました。これについては『日本紀略』だけでなく『小右記』や『権記』等の日記にも記されていますし、紫式部も『源氏物語』の題材にしたくらいですから、彼女自身も(毎年とまでは行かずとも)何度かは斎院の華やかな行列を一条大路で見物していたことでしょう。
 ただし、それは紫式部が『源氏物語』の中で葵の上と六条御息所の車争いの舞台としたであろう、「初斎院御禊」ではなかったのです。
 ちなみに『源氏物語』成立当時、伊勢斎宮も986年に卜定された恭子女王が既に20年あまり在任中でした。ということは、紫式部や同時代の多くの宮廷人たちは実際に野宮や斎王群行を見たことがなかったのではないか、という指摘がされています。(斎宮歴史博物館紫式部は斎王を見たか?」参照) もちろん野宮や群行の情景描写については、過去の記録や当時実際に見た人からの伝聞を元にしたのでしょうが、紫式部本人にとってはあくまでも想像の域を出ないものであったでしょう。
 けれども斎院御禊については、「尋常四月御禊」であれば当然毎年見る機会がありました。(時々諸般の事情で中止にはなっていますが) ましてそれを物語の題材にするとなれば、「日本紀の御局」とまで仇名された程の作家紫式部なら必ず「取材」もしたはずです。とすれば、いかに延喜式やその他の資料を綿密に調べた上であったとしても、紫式部が実際に「葵」帖を執筆しながらまずその頭に思い描いていたのは、彼女が実際に自分の目で見た「尋常四月御禊」の光景であったのではないでしょうか。その上で「御禊の日、上達部など、数定まりて仕うまつりたまふわざなれど、おぼえことに、容貌ある限り、下襲の色、表の袴の紋、馬鞍までみな調へたり」と、光源氏の晴れ舞台にふさわしく、この時は通常の御禊よりも一段と華麗な行列だったのですよと描き、当時の読者も自分たちが見ていた「尋常四月御禊」の記憶の上にそのイメージを重ねて華やかな王朝絵巻を思い描いたのでしょう。
 なお「尋常四月御禊」には勅使は出ませんが、「初斎院御禊」には特別に勅使4人が随行する決まりで、「葵」帖の光源氏もその一人でした。もちろん祭当日の「路頭の儀」では、内裏を出発した勅使一行が途中で斎院と合流して一条大路を進んだので、あるいはそちらのイメージが強かったかもしれません。(※この勅使一行がどういうルートを通ったかは判りませんでしたが、『賀茂斎院と伊勢斎宮』(斎宮歴史博物館)解説では内裏を出て大宮大路を北上したとあるので、多分最も近い陽明門から出て行ったのでしょう)

 さて前回にもちらっと触れましたが、「尋常四月御禊」の場合の順路は洛北の紫野斎院を出発して鴨川河畔で禊を行い、その後紫野斎院へ帰還するというものでした。記録によれば、紫野斎院の位置は当時の大内裏のほぼ真北、大宮末路(大宮大路の延長の道。一条大路より北)の西側に位置していたらしいことが判っています。時間については明記された史料が見つかりませんでしたが、『源氏物語』にも「日たけゆきて」の一文があるところから、昼過ぎ頃に行列が通っていったと考えていいでしょう。
 賀茂祭当日(路頭の儀)には斎院の行列は大宮末路を南下、一条大路に突き当たったところで勅使一行と合流して東へ進み、賀茂社の下社(現在の下鴨神社)に向かうという順路をとっていました。もちろんこのルートは、一条大路からさらに南下したのでは遠回りになってしまうので、勅使・斎院双方にとって最も短距離かつ単純な順路であったという現実的な理由によるものだったと思われます。
 一方御禊は路頭の儀とは異なり、禊の場所は占いで決めていたので、当然毎回違った場所で行われていました。とは言っても、記録に残る斎院御禊の場所は殆どが一条大路から二条大路の間の鴨川河畔であったそうなので、基本的に二条大路よりも北が御禊の場所であったと考えていいでしょう。(当時の河川事情はよく知りませんが、普通に考えても上流ほど水が清浄でより御禊にふさわしかったはずです) 『賀茂斎院と伊勢斎宮』ではこれについての解説で、「尋常四月御禊が一条大路を通ることから、おそらくは一条大路が鴨川と交わる付近の適所で(御禊を)行うことが多かったと考えられる」と述べています。だとすれば、御禊の行列も一条大路を往復したと考えるのが最も自然ではないかと思いますし、『源氏物語』の車争いの騒動も、紫式部自身は「これから鴨川へ御禊に向かう往路での出来事」として描いたのではないかなと考えます。

 というわけで、今のところ決定打と言えるほどの根拠はないのですが、11世紀初頭までの記録を見る限りでは大体以上のとおりです。これより後の時代の記録にはもっと詳しい情報もあるのかもしれませんが、今回はあくまで『源氏物語』の根拠となった史料を探すということで、西暦1000年頃までに絞って調査しました。
 ところで紫式部の時代に最も近かった16代選子内親王の初斎院御禊ですが、選子が初斎院とした場所は大膳職であったことが『日本紀略』(貞元元年9月22日条)に記録されています。この大膳職は大内裏の東端中程、例の大宮大路沿いの待賢門のすぐ前に位置していました。ここから朱雀門までわざわざ行くのはあまりに遠回りなので、選子内親王の初斎院御禊の行列は恐らく待賢門から出て行ったのでしょうが、そのあと大宮大路を北上して一条大路へ向かったのか、それともまっすぐ東に向かったのかあるいは右折して南下したのか、一体どのルートだったのでしょうね?

 参考リンク:「平安宮大内裏復元図」(「平安京探偵団」様のページです)

 関連過去ログ:
  ・賀茂祭の謎
  ・賀茂祭の謎・弐 行きか帰りか

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