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裳着の謎

 2012/07/25(Wed)
 先日賀茂斎院サイトにご質問をいただいたことで、平安前期(10世紀)の裳着事情についてその後も引き続き調査していたら、ちょっとあれっと思うことに遭遇しました。というわけで、斎院と関係があるのかないのか微妙ですが、とりあえず中間報告?です。

 前回の「内親王の裳着年齢」一覧の中にはあげませんでしたが、実は第13代賀茂斎院・韶子内親王の裳着についても記録が残っています。延長2年3月25日に韶子の裳着が行われたということで、改めて確認したらサイトの年表にもちゃんと書いてあったのですが、よくよく見直しておや?と思いました。
 というのも、延長2年当時韶子は何と7歳(!)でして、言うまでもなく「成人式」をするような年齢ではありません。時代が下るにつれて次第に裳着年齢が早まっていく傾向はありますが、それにしても10歳未満での裳着の例は、11世紀になっても見当たらないくらいなのです。
 これはいくら何でも若すぎる、着袴の間違いか何かじゃないの?と思い、さらに調べていったところ、ありがたいことに打ってつけの論文が見つかりました。

 服藤早苗氏の著書『平安王朝の子供たち』の第三章に「平安王朝社会の成女式 加笄から裳着へ」というものがありまして、これがまさに内親王の裳着年齢一覧をばっちり載せてくれているものだったのです。その中で韶子内親王の異常に早い裳着年齢についても触れられており、結論から言えばやはりこれは「着裳」ではなく「着袴」の誤りではないか、ということでした。
 これで「そうか服藤先生も同じお考えなのか」と、私も最初は嬉しく思いました。しかし何度か論文を読み直すうち、段々と何だか違和感を覚えてきたのです。

 そもそも、問題の韶子内親王裳着についての記事の出典は、源高明の『西宮記』です。同じ10世紀の人物が残した史料ですから、かなり信頼性は高いと思うのですが、問題の原文は実はこんな風に書かれていたのです。

 「延長二三廿五、昌子(内)親王於承香殿西廂著裳。天皇結腰有送物。
  御遊宸筆叙品。<三品> 雖不后腹、依先朝恩云々。
  以黄紙書叙品、給上卿、令作位記」

 何と、原文は「韶子」ではなく「昌子」なのです。
 昌子と言えば、韶子から40年後の朱雀天皇の一人娘昌子内親王を真っ先に連想しますが、何故それがここでは「韶子」(の誤り)とされたのかは判りません。(『大日本史料』では「韶子」としています) ただ恐らく、「延長2年3月25日」という年月日から見てそれが醍醐天皇の皇女の誰かであること、そして年齢的に他に該当する人物がいなかったことから、昌子ではなく韶子だと解釈されたのだろうと思われます。

 ところが、ここでひとつ厄介なことに、この「韶子(昌子)」は着裳(着袴?)と同時に三品に叙されているのです。
 服藤氏の研究によれば、10世紀前半の天皇家で、着袴と同時(あるいはそれ以前)の叙品は他に例がないのだそうです。この点について服藤氏は「韶子の母が光孝皇女源和子であることによる特別な叙品とも考えられる」としていますが、それにしては韶子と同母の他の兄弟姉妹が同様の特別待遇を受けた様子はありません。特に同母姉慶子内親王は14歳で裳着をしたことが記録に残っていますから、母源和子が多くの子をもうけるほどの帝寵を受けていたのは事実としても、韶子だけがこうした例外扱いをさるのは(いかに当時現役の斎院といっても)どうも納得がいきません。

 で、何だかしっくりこないなあと思いつつ、改めて『西宮記』の文を読み直していたのですが、そこで再びあれ?と思いました。ここで今度は、朱雀天皇皇女昌子内親王の裳着の様子について、『日本紀略』の文章をご紹介します。

 「応和元年十二月十七日(中略)朱雀院第一皇女昌子内親王於承香殿初笄。
  天皇神筆給。三品位記。又侍臣奏絃管。」

 こちらの「昌子内親王」も、「承香殿」で裳着を行い、「宸筆により三品に叙された」という点で、上記の『西宮記』の記録とぴたり一致しています。
 …ということは、もしかすると『西宮記』の記述は韶子内親王の誤りではなく、文字通り「昌子内親王」の裳着のことだったのではないでしょうか?
 もちろんこの場合、年月日はどう考えても昌子内親王の生まれる前ですから辻褄は合わないのですが、筆者高明(もしくはそれを写した誰か)が何らかの理由で年月日を間違えた可能性もないとは言い切れないのではないでしょうか。この記事を韶子内親王のものと考えた場合、年齢や叙品について当時の他の事例とは明らかに合わない点がある以上、まったくありえないことでもないのではないかと思うのです。

 またもうひとつ、特に気になったのは「雖不后腹、依先朝恩云々」の一文です。
「皇后所生の皇女ではないけれど、(今上の)先帝への深い御恩のため」くらいの意味にとっていいかと思いますが、この「今上」が村上天皇、「先帝」が朱雀天皇と考えれば、実に頷ける表現です。
 そもそも村上天皇の同母兄朱雀天皇は、母后穏子が弟(村上天皇)の即位を望んでいると思って早々と譲位したとも言われ、その後若くして亡くなった不遇な天皇でした。昌子の生母煕子女王は皇族出身で、皇子を産んでいれば立后もあったかもしれませんが、朱雀天皇譲位後に昌子を産んですぐ亡くなっています。
 こうしてわずか3歳で両親を亡くした姪昌子内親王を、村上天皇は後に我が子冷泉天皇の后に迎えるという最高の待遇で庇護しており、それは裳着の時の「宸筆で三品に叙した」という記述からも伺えます。元々この時代、裳着の腰結を父天皇が行った例はないそうですが、昌子の腰結を叔父村上天皇が行ったというのはありうることではないでしょうか。
(※ちなみに他の内親王の裳着の例では、外祖父または尚侍が腰結を行ったものがありますが、961年当時昌子内親王の親族は両親(朱雀天皇・煕子女王)も祖父母(醍醐天皇・中宮穏子・皇太子保明・藤原仁善子)も既に全員亡くなっていました。よって叔父村上天皇は、天皇家家長であると同時に生存する最も近い昌子の親族でもあったわけです)

 というわけで、あくまでも素人の素朴な疑問ながら、こっちの解釈の方が納得がいくんだけどなあと思ったので書いてみました。ただし何しろ日本史の基礎知識については非常に心もとない歴史マニア?の考察ですので、もし異論・反論その他ご意見等あればぜひご教授願います。

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