スポンサーサイト

 --/--/--(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
カテゴリ :スポンサー広告 トラックバック(-) コメント(-)
タグ :

正妻は誰?

 2011/11/09(Wed)
 このところ抱一さんにかかりきりだったので、ここでちょっと気分を変えて、久しぶりに平安時代の話など。

 かつて「平安時代は一夫多妻制だった」とよく言われましたが、その後研究が進むにつれ、実際はそう単純なものではなかったらしいということが判ってきました。そのため「原則は一夫一婦制、その他の『妻』はすべて妾である」とする説と、「制度としては一夫多妻制だが、その中でも第一夫人としての『正妻』がある」とする説が近年対立しているそうです。
 こうしたテーマは学生の関心も高いそうで、研究書も色々と出ていますが、その中に「王朝摂関期の「妻」たち:平安貴族の愛と結婚」(園明美著,新典社)という本があります。内容はかなり専門的ながら、平易な文章で初心者にも判りやすく、しかもお値段は大変お得(笑)とあって、私の愛読書の一つです。(何しろ普通の学術書は大抵高すぎて手が出ません…)

  
王朝摂関期の「妻」たち―平安貴族の愛と結婚(新典社選書28)王朝摂関期の「妻」たち
平安貴族の愛と結婚
(新典社選書28)

(2010/02/10)
園明美

商品詳細を見る


 この本の著者は「正妻ありの一夫多妻制」派のようで、二つの説の主張とその根拠をそれぞれ取り上げて紹介し、必ずしも筋が通っていないと思われる点についても丁寧に説明してくれています。私も著者のご意見には大方賛成ですが、最近また何となく読み返していて、おやっと思う点がありました。

「一夫一婦制派」による説のひとつに、「儀式婚(=私通によるなし崩しではない、正式な手順を踏んでお披露目をした結婚)により結婚した妻は、そのまま自動的に(いわば早い者勝ちで)唯一の正妻となることが確定する」があります。これが果たして正しいかどうかを検討した箇所で、著者は「院政期の例ではあるが」と前置きした上で、まず藤原忠実の二人の妻・源任子と源師子の例を紹介しています。これは有名な話なので詳細は割愛しますが、この場合先に儀式婚で妻となった任子がいたにもかかわらず、最終的に「北の政所(=正妻)」となったのが師子であったというのはまず問題ないでしょう。

 問題は第二の例、藤原経実の妻・(藤原)公実女についてです。
 この公実女も儀式婚の記録が残っており、『為房卿記』永保2年(1082)4月16日条に、藤原経実と結婚したという記述があります。一方で経実は1097年に別の女性(通俊女)と儀式婚を挙げ、通俊女は1102年頃に経定という息子を産みました。また公実女も1116年に娘(懿子、二条天皇生母)を、1119年に息子(経宗)を産んでおり、これにより公実女と通俊女が、(どちらも儀式婚を挙げたにもかかわらず)同時期に経実の正式な妻であったことは間違いないとしています。
 一見もっともな問題のない説のように思えますが、ここであれ?と思いました。

 公実女が経実と結婚したのが1082年なら、どう若く見積もっても、当時彼女は数え11~13歳くらいにはなっていたはずです。(事実、後で知りましたが記録では12歳とありました) そして娘懿子が生まれたのが1116年ということは、その時母である公実女は実に45歳であった計算になります。現代でも結構な高齢出産と言える年齢で、まして当時としては相当珍しいのではないでしょうか。
 もっとも有名な藤原道長の妻倫子も、末娘を産んだのは43歳の時でしたから、まったくありえないとまでは決め付けられません。とはいえ倫子の場合はそれまでに二男三女を産んだ後のことでもあり、懿子より上の子どもの存在が知られていない公実女の場合、いささか不自然な気がします。(成人前にすべて夭折した可能性もありますが、上記の源任子などはそのために夫忠実とは疎遠になってしまったようです)
 そんなわけで、何だか腑に落ちないなあと思って念のため調べてみたところ、思いがけないことが判りました。

 何と、1082年に経実と結婚した公実女と、懿子・経宗姉弟を産んだ公実女とは、どうやら別人らしいのです。

 おなじみ『平安時代史事典』によると、懿子・経宗の母である公実女は公子という名で、母は藤原光子となっています。つまりはかの待賢門院璋子と同母の姉妹ということで、これにはちょっと驚きました。(ちなみに待賢門院は1101年生まれなので、1116年に懿子を産んだ公実女は待賢門院の姉と見ていいでしょう) また『公卿補任』の経宗のところにも「母従三位公子<公実卿女>」とあるので、公子という名の公実女が経実の妻であったのは間違いないようです。
 一方、1082年に結婚した公実女の方は、その母が「実政女」であったとはっきり記録が残っています。藤原光子の父は隆方ですから、この公実女と公子は異母姉妹の別人だということになりますね。(もっともさすがに同時期に姉妹を妻にしていたとは思えないので、恐らく先の公実女が亡くなった後、異母妹の公子が後妻になったと考えるのが妥当でしょう)
 ただ残念ながら、公子の母が本当に藤原光子であるのかどうかについては、現時点では確実と思われる史料を見つけることはできませんでした。(何しろ『尊卑文脉』を見ても、公実の娘たちは待賢門院すら名前が載っていないのです) 『平安時代史事典』を監修した角田文衞氏はもちろん、ある程度の明確な根拠があってそう記したのでしょうけれど、もうちょっと探してみようと思います。

 ともあれ公子については何年生まれかも不明ですが、『平安時代史事典』では1087年頃かとしています。やはり同母姉妹の実子(鳥羽天皇乳母)に1094年生まれの子があることから、こちらは1079年頃を生年としており、公子より年上であるのは確かでしょう。(ちなみに上記の公実女は1071年生まれ)
 もっとも公子を1087年生まれとすると、1016年に懿子を産んだ時には30歳だったという計算になり、16歳?で出産した姉実子とは随分な差ではあります。彼女もまたそれまでに早くに亡くした子があったのか、それともそもそも経実との結婚自体が遅かったのか、そして何より彼女は姉同様に「儀式婚」を挙げた妻であったのか、まだまだ謎は尽きません…


 ところで余談ですが、『尊卑文脉』によると経実の息子でもうひとり、公実女が産んだとされる子がいます。名前は隆通といいますが、この人は早くに出家してしまったらしく、生没年の記載もないので何年の生まれかも書かれていません。(ただ経宗より先に書かれているので、もしかするとこちらは本当に公子ではない「公実女」が母である可能性も考えられます)
 しかしひとつ引っかかったのが、この隆通の母は「大納言公実女」とあるのに、兄弟である経宗の母は「東宮大夫公実女」とされているのです。調べてみると公実が大納言になったのは1100年、東宮大夫になったのは1103年なので、その辺が関係あるのかもしれませんが素人なので判りませんでした。(笑)

スポンサーサイト
タグ :
コメント












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://ctobisima.blog101.fc2.com/tb.php/317-2ae351c3
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。