旅立ちは普段着で?

 2009/06/03(Wed)
 先日「旅立ちの衣装」で宿題にしていた平安時代の死装束について、ようやく本で確かめることができました。著者いわく、源氏物語などを読んでいてもよく判らないという国文学系の研究者の話をよく聞くそうで、専門の方々でも皆同じような疑問を持つものなんですね。


  
日本喪服史 古代篇―葬送儀礼と装い日本喪服史 古代篇―葬送儀礼と装い
(2002/02)
増田 美子

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 さて問題の死装束ですが、まず結論から言ってしまえば、当時の死装束は今のような特別なものではなく、日常の衣装と殆ど変らないものであったようです(ただし使用済のものではなく、一応新品を葬送のために用意したらしいとのこと)。もっとも文献に記録の残っているもの自体がかなり珍しく、殆どが天皇・上皇・女院などの雲の上の方々ですけれど、ともあれ現在お馴染みの白い経帷子やそれに近いものではなかったらしいということは判りました(ということはあの頃の幽霊も、経帷子着てたりしたら嘘なんですね。笑)。普段着が死装束になるなんて今の感覚で考えると不思議な気がしますが、考えてみると、もっと古代には洋の東西を問わず、高貴な人々は華麗な装飾品に囲まれて葬られていたのだから、それに比べれば平安時代は大分質素になったと言えるのかもしれませんね。

 なお前回触れた後一条天皇の死装束はやはり薄紫の直衣に白い生絹の単重と袴で、これは天皇が亡くなったのが旧暦4月17日という初夏であったことから、季節に合わせてこのような衣装が調えられたということでした。またさらに時代下って、平安末期の皇嘉門院(崇徳天皇皇后・藤原聖子)の葬儀の際にはやはり新しい小袖で亡骸を覆い、その上に日常身に着けていた袈裟を重ねて、さらに新しい袷の袿で全身をすっぽり覆ったそうです。源氏物語の藤壺も出家の身ですから、やはり亡骸には袈裟も一緒に着せかけられて棺に納められ、鳥辺野かどこかで荼毘に付されたのでしょう。
 それにしても、あの時代は今のような火葬場なんてありませんでしたから、遺族たちは野辺送りでそうした衣装などが亡骸と共に燃えていくところも直接最後まで見届けたのでしょうか。源氏物語では具体的な描写は一切ありませんが、桐壺更衣の弔いの場面でも母親が悲しみのあまり錯乱しかける様が描かれていますから、やはりその有様は物語に描けるようなものではなかったことでしょう。

 ところで喪服についてひとつ面白かったのが、昔は白い喪服だったのが途中から黒に変わった理由でした。
 中国では喪服を「錫衰(しゃくさい)」と言い、「錫」は目の細かい白麻の衣のことだったのですが、日本でこの「錫」を金属の「錫(すず)」と誤解してしまったために、錫色即ち黒ずんだ墨染色が日本の喪服にも取り入れられてしまったということらしいのです。何だか笑い話のようですが、ともあれ奈良時代・養老律令の「喪葬令」に天皇の公式の喪服が「錫紵(しゃくじょ、紵は麻布のこと)」と定められ、平安時代には衣服ばかりか調度から何からすべて真っ黒なあの世界が常識となってしまったということでした。…何ともはや、まさに事実は小説より奇なりですね。

 そうそう、やはり前回ちらりと触れた浮舟の法要のために調えられた装束ですが、後で調べてみたらあれはお布施のためのものであろうとのことでした。しかしお布施ったって、通常貴族たちが禄として家臣などに授ける女装束ならまだ使い道もあるでしょうが、お坊さんが女物の衣なんてもらって一体どうするんでしょう? 原文では「女の装束一領」とある以上、略式だとしてもそれなりに本格的な衣装一揃いだろうと思うのですが、供養ならともかくお布施と言うのはやはり納得いかないです。
 というわけで、死装束はひとまず片付きましたが、入れ替わりに次回の宿題も決定してしまいました(笑)。このところ寝殿造についても調査中で忙しいのですが、何か収穫があればまた後日改めて。

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