着袴の謎

 2016/05/21(Sat)
 先日賀茂斎院サイトにアップしたレポート第2弾は、タイトルは「延長二年の着裳記事」としていますが、調査してみて着裳だけでなく着袴も大変面白いなと感じました。

 そもそも着袴というのは、今で言えば七五三にあたる幼児の生育儀礼のことで、文字通り子供が初めて袴をはくというものです。現代の皇族は五歳で行う決まりですが、平安時代には数え三歳を迎えた頃に行うものでした。
 この着袴、記録上の初見は10世紀で、着袴を行ったのは醍醐天皇の皇子寛明親王、後に即位し朱雀天皇と呼ばれた人物です。その後朱雀天皇の弟村上天皇の子供たちからちらほら記録が増えていき、平安時代の皇族では合計39人の記録を確認できました。
 ところで古代の成人式である元服や着裳(裳着、始笄とも)の場合、特に元服は正月が最も多かったのですが、着袴は秋から冬、中でも十一月~十二月が多いのです。着袴を扱った論文でこの点を指摘しているものがあり、千尋もはて何故だろうと考えましたが、そこでひとつ思いついたことがありました。
 考えてみると当時は数え年ですから、現代と違って誕生日には関係なく皆一月一日に一歳年を取るということです。しかし一月生まれの子は現代で言うなら満二歳でしょうが、十二月生まれの子だと満一歳ちょっとでしかありません。そもそも着袴は幼児が歩き始める年齢であることから行われた儀礼ではないかと言われていますが、例えば十二月三十一日生まれの子は数え三歳でも実質は満一歳でしかないのですから、いくら何でも無理だと思うのです。
 逆に言うなら、何月生まれの子でも年末であれば皆ほぼ満二歳に達しているわけで、多分それが冬に多く着袴を行った理由ではないでしょうか。ちなみに『源氏物語』の中でも、「薄雲」巻で三月生まれの明石姫君が着袴を行ったのは三歳の冬のことでした。これはそもそも明石から上京しさらに大堰から洛中の二条院へ移るまでに時間がかかったためでもありますが、『源氏』が執筆された当時、着袴が冬に多く行われていたこともこうした描写になった一因かと思われます。

 とはいえ、平安時代後期になると五歳や七歳の着袴も増えてくるのですが、平安末期になって何と、満一歳二ヶ月(数えでは三歳)で着袴を行った人物がいます。高倉天皇の第一皇子言仁親王、即ち後の安徳天皇でした。しかも言仁親王は着袴を行った一月後に即位しており、恐らく即位を急ぐために着袴も早められたのでしょう。
 ところが、実は安徳天皇よりも少し前に、もっと早い即位をした天皇がいます。二条天皇の子、安徳天皇には従兄弟にあたる六条天皇で、何と満七ヶ月(!)という乳児の即位でした。こんな無茶な即位になったのは父二条天皇が当時二十三歳の若さで病に倒れ、譲位の一月後に亡くなってしまったせいなのですが、これは現代に至るまで天皇即位の歴代最年少記録であり、当然と言うべきか即位前に着袴を行った記録はありませんでした。

 しかし千尋が調べた限りでは、六条天皇が着袴を行った記録はその後在位中もまったく見当たらなかったのです。そもそも「天皇元服」は初の幼帝であった清和天皇(九歳で即位)の登場により生まれた儀礼ですが、さすがに「天皇着袴」等という儀礼はそれ以前もその後もなく、何事も先例に則るのが常識であった当時だけに、公卿たちもこれには困り果てたのではないでしょうか。そのせいかどうかは不明ですが、恐らく六条天皇は着袴を行わないまま五歳で譲位(これも天皇譲位の歴代最年少記録)、その後十三歳の幼さで短い生涯を閉じました。『神皇正統記』には「御元服などもなくて」とあり、ということは譲位後に着袴を行った可能性もないではないですが、平清盛の権勢が絶頂へと向かいつつある当時、頼りになる外戚も持たなかった幼い「六条上皇」に、そうした配慮がされたかとなると怪しいところです。譲位後の消息を知る記録が殆どないことから見ても、このあまりに幼い「上皇」は元服どころか着袴も行っていないことさえ世間から忘れられた存在のまま、その儚い一生を終えたのでしょう。気の毒と言えば気の毒な天皇ですが、六条上皇の死の二年後に生まれて三歳で即位、八歳で壇ノ浦に消えた安徳天皇もまた、天皇にまでなりながら歴史に翻弄された短すぎる痛ましい一生で、どちらがより哀れと言えるようなものでもないですよね。

 ところで今回、レポートのメインテーマが着裳と着袴ということで、一番お世話になったのは服藤早苗先生の著作、とりわけ『平安王朝の子どもたち―王権と家・童』(吉川弘文館, 2004)でした。
 元々この本がきっかけで延長二年の着裳記事に本格的に疑問を抱いたようなものであり、レポートでは服藤先生の論文に対して(怖いもの知らずにも)色々異説を唱えたりしていますが、こうした機会を与えていただいたことは本当に感謝の念に堪えません。ご本人に直接お目にかかったことは残念ながらありませんが、この場を借りて御礼申し上げます。
 ところでこの本、千尋が知った時には残念ながら既に絶版となっておりました。ただ幸い近所の図書館が所蔵していたので、必要な個所のコピーを取った後も何度も借りたものですが、何と先日レポートを公開した直後に、この本が今年復刊されていたことを知ったのです(笑)。何という偶然のタイミングかと驚きましたが、これまで古本でいいから何とか手に入れられないかとずっと思ってきただけに、喜び勇んで早速書店に注文しました。多分来週には届くだろうということで、大変楽しみです。

  


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裳着の謎・3 延長二年の着裳記事について

 2016/05/15(Sun)
 ご無沙汰しております、どたばたしているうちに今年もあっという間に葵祭の日になってしまいました。多忙な合間を縫って美術展にもちらほら足を運んでいるのですが、今年もまた賀茂斎院絡みのレポートに追われて、なかなかブログまでは手が回りませんでした。まだやっと5月とはいえ、ラファエル前派とかレオナルドとかボッティチェリとか、素晴らしいものはたくさんあったので、もう少し落ち着いたらまとめられるといいなと思っています。

 さて、ここでも何度か触れたことのある賀茂斎院関連で気になっていたテーマについて、今回やっとある程度まとめることができました。去年改訂版を上げたレポートその1は源氏物語がメインでしたが、今回はぐっと日本史寄りの内容になって、内親王の着裳+着袴がテーマです。賀茂斎院サイトに「延長二年の着裳記事~「不后腹」昌子内親王の三品直叙について~」と題したレポートをアップしましたので、よろしければご覧ください。

 これまでも斎院関連で気になる問題にちらほら出逢ってきましたが、今回もそもそもは13代斎院韶子内親王の着裳?記事が何だかおかしいぞ、というところから始まりました。そこでこのブログでも「裳着の謎」「裳着の謎・2 后腹内親王と成人儀礼」で二度書いたのですが、その内容をさらに煮詰めていったらまたしてもあちこちへ飛び火した挙句、今回も結構な長文になってしまいました…やれやれです。

 ともあれ、史料やら研究書やら論文やらを手当たり次第に読み漁った結果、やっぱりこれは韶子内親王(醍醐天皇皇女)ではなくて原文通り昌子内親王(朱雀天皇皇女)の裳着だったのではないか、という結論に達しました。このこと自体は既に研究者の方が指摘されているのですが、現状ではどうやら少数派らしく、またあまり追及されていない問題のようだったので、もっとこれを補強する根拠がないかなと思って調べてみたのです。韶子内親王が当時既に賀茂斎院に卜定されていて初斎院で潔斎中だったという点は早くから気になっていましたが、調査の結果色々面白いことがわかり、また自分でも新しい発見がいくつかあったりして、小さな問題かと思ったら意外なほど奥深いテーマでした。
 しかし今回特に面倒だったのが「后腹内親王の三品直叙」で、そもそも后腹内親王の定義は一体どういうものなんだ、という基本的かつ案外難しい問題と取っ組み合う羽目になったのは、予想以上に大変でした。おかげで結論はともかくその根拠として挙げたいくつかの点については、自分でもあまり自信を持って断言はできないのが正直なところです(これも毎回言い訳してますが、何しろ大学できちんと専門に勉強したわけではないため、研究者なら常識であろう基礎知識も色々怪しいのです)。一応体裁だけは論文らしくまとめてみたものの、多分色々勘違いや見落とし等もあるかと思いますので、もし気がつかれた点がありましたらどうぞご遠慮なくご指摘願います。

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