凄い確率?

 2015/05/16(Sat)
 葵祭から一夜明け、今日は宿変更のため朝一番で移動したのですが、ホテルを出た途端予想外の事態に遭遇しました。
 何と、昨日目の前で逃げられた(笑)双葉タクシーが、まさに狙ったように目の前へやってきたのです!
 まさか昨日に続いてとはさすがに予想外で一瞬目を疑いましたが、昨日逃げられてちょっぴり悔しかっただけに、すぐさま喜び勇んで止めたのは言うまでもありません。ちょうど別行動だった友人を途中で拾って、そのまま急遽予定変更して上賀茂神社へ直行しました。
 というのも、タクシーのレシートを持っていくと乗車記念の特製ステッカーをいただけるということだったので、せっかくだから念願の双葉タクシーでそのまま乗せていってもらおうというわけです(笑)。おかげで新緑も美しい境内の側でばっちり記念撮影を行い、めでたくステッカーもいただいて、もちろん神社にもお礼のお参りをしてきました。色々丁寧に教えてくださった運転手さん、本当にありがとうございました。

双葉タクシー2

双葉タクシー3・記念ステッカー

 なおこの双葉タクシーは、今年の10月31日までの期間限定で運行しているそうです。予約は不可のため、流しでしか乗れないまさに運任せのレアタクシーですが、興味のある方は京都へ行かれた時にこの双葉マークを探してみてくださいね。(ただし正面から見るとちょっとわかりにくいので注意です)

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今日は葵祭

 2015/05/15(Fri)
 本日は下鴨神社にて、初めて社頭の儀に参列してきました。予報では雨が心配だったのですが、蓋を開けてみたら大変いいお天気になってしまい、ちょっと暑さがつらかったです。
 ともあれ、お祭の話はまた後日いたしますが、帰りに思いがけないラッキーがありました。

双葉タクシー

 何と、前回一瞬だけ目撃したあの双葉タクシーに、葵祭の日に出逢えたのです!
 とはいえ、捕まえるのはちょっと無理な場所で乗車はできなかったのですが、しばらく停車していてくれたのでばっちり写真も撮れました。多分秋にはまた琳派展で来ると思うので、機会があれば一度乗ってみたいなあと思います。

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斎宮女御と源氏物語

 2015/05/10(Sun)
 本日、賀茂斎院レポートの改訂版をアップしましたが、再調査の中で伊勢斎宮関連でちょっと気になったことがありました。というわけで、この問題のみ項目を分けて紹介したいと思います。

『源氏物語』に登場する六条御息所・秋好中宮母娘は、実在の人物である斎宮女御徽子女王をモデルにしたと言われています。特に「賢木」での斎宮伊勢下向の場面は、日付が9月16日と明記されており、史実の斎宮規子内親王の下向と同日であることや、また「親添ひて下りたまふ例もことになけれど」としていることから、母六条御息所を徽子女王に、娘の斎宮(秋好)を規子内親王に重ねて書いたものだろうと言われてきました。

 ところが記録を見ると、斎宮規子の初斎院入りは貞元元年(976)2月26日なのに対し、源氏物語の斎宮(秋好)の初斎院入りはさらに大幅に遅れて「この秋入りたまふ」とされており、その後「九月には、やがて野の宮に移ろひたまふべければ」となっています。先行研究ではあまり追及されていなかったことなのですが、何となく引っかかって他に同様の例はないだろうかと調べてみたところ、その結果に驚きました。

 何と、卜定2年目の秋(7~8月)に初斎院入りし、その後9月に野宮入りした斎宮は、『源氏』以前では徽子女王ただ一人だったのです。

 これは単なる偶然ではないのではないかと思い、改めて徽子女王の卜定から群行までの日付を見直してまた気がついたのですが、徽子女王の伊勢下向は偶然にも娘の規子内親王と一日違いの9月15日だったのですね。しかも規子内親王は群行当時29歳でしたが、徽子女王は10歳という年少で、14歳で下向した秋好のイメージに近いのは、女王と言う共通点を考えてもむしろ徽子の方ではないかという気がします。もちろん徽子自身には母が付き添っての下向はありませんでしたし、その点は規子内親王の方が共通点ですが、もしかすると六条御息所と斎宮秋好の母娘下向の場面は、母御息所に女御徽子を、娘斎宮に斎宮徽子のイメージをそれぞれ重ねたものなのではないかと思いました。

 元々秋好は斎宮退下の後に冷泉帝へ入内し、立后までは徽子と同じ「斎宮女御」の通称で呼ばれた人ですから、母六条御息所と同様明らかに徽子がモデルであったろうと思われます。ただこの場合、まず六条御息所が斎宮女御徽子の面影を連想させる人物として登場し、その後そのイメージが娘秋好へシフトしたというのではなく、最初からこの母娘は徽子のイメージを二人に分割して作り出されたということではないでしょうか。レポート改訂にあたって色々調べてみたのですが、意外にもこの問題を指摘した研究は過去になかったようなので、ちょっと面白いかなと思いレポートの最後に付け加えてみました。紫式部が『源氏』執筆にあたってどんな史料を元にしたかはわかりませんが、よほど斎宮女御徽子という人物に深い関心と思い入れがあったのでしょうね。


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再びレポート提出

 2015/05/10(Sun)
 ご無沙汰しておりますこんにちは、早くも既に5月、今週末は葵祭ですね。新緑が美しいこの季節、下鴨さんの糺の森は一年でも一番綺麗で大好きです。

 さて、2月の日記から大分間が空いてしまいましたが、前回ちらっと触れたレポートがようやく完成、何とか葵祭前に滑り込みで間に合いました。この「賀茂斎院から見る『源氏物語』年立論」は、元々2013年に最初に公開したものですが、その後色々修正点等が見つかり、手直しが必要だなと思っていたものです。
 そこへ今年の2月、レポートでも取り上げた賀茂斎院論文の著者でいらっしゃる今井上氏より、新しく「『源氏物語』賀茂斎院劄記:付・歴代賀茂斎院表」を発表されたとのご連絡をいただきました。しかも何と、錚々たる参考論文の中に我が賀茂斎院サイトも紹介していただいたとのことで、これには本当にびっくり仰天です。ちょっと歴史が好きだというだけの素人の趣味のサイトを、まさか研究者の方の学術論文に載せていただけるとは夢にも思わず、本当にいいんだろうかと慌てふためきながらも大感激でした。今井様、改めて心より御礼申し上げます。

 というわけで、そもそも今井氏の前回の論文「『源氏物語』の死角 : 賀茂斎院考」も大変興味深く拝見し、最初のレポートもそれがきっかけで書いたようなものでしたので、今回の新しい論文も早速レポート改訂版にて検証させていただきました。残念ながら私の新説?である「「葵」の斎院卜定と斎宮卜定は別々だったのではないか」という考えには御賛同いただけなかったようですが、当方としてもその後の調査でまた色々新たに考えたことがありましたので、今度はレポートの体裁ももう少し論文らしく、引用文献等についても明記してあります。論文の注というのはどうにも読みにくくて個人的に苦手だったのですけれど、考えてみるとHTMLならリンクで簡単に飛んだり戻ったりもできるので、紙媒体に比べると楽でいいかもしれないと思いました。

 ともあれ、何だかんだで本文はかなり長くなってしまいましたので、ここでは簡単にいくつかの要点のみ触れておきたいと思います。


1.賀茂斎院は天皇譲位では退下しないので、「葵」の斎院交替も桐壺帝譲位によるものではない。
 そもそも天皇譲位で斎院が退下しないというのは、1979年に堀口悟氏が論文で指摘されていることなのですが、何故か『源氏物語』研究では殆ど触れられてこなかったようです。しかしこれを見直せば、従来問題とされてきた年立の疑問点も解決するのでは、というわけで、色々な角度から検証してみました。
 結果、やはり桐壺帝女三宮(「葵」の新斎院)が桐壺帝譲位よりも前に斎院になっていたと考えれば、年立の矛盾点も解消されると思われます。「葵」の御禊は従来言われてきたように二度目の「初斎院御禊」であると考えていいと思われますし(この問題は今井氏が今年の新論文で詳しく検証されています)、天皇譲位で斎院が退下しないのなら斎宮と同時に交替するのはむしろ明らかにおかしいので、作者の意図は「斎宮交替とたまたま近い時期に偶然、斎院も交替した」というものであったと考えます。


2.桐壺帝が「花宴」の年に譲位しなかった(らしい)のは、父一院崩御による諒闇のためではないか。
 これはそもそも千尋の考えではなく、『窯変源氏物語』で橋本治氏が書かれていたものです。『窯変源氏』は橋本氏が独自解釈で原作にない事柄を新たに創作した描写もかなりあって、一院崩御の諒闇もそのひとつなのですが、この考えに従えば「花宴」~「葵」に空白年が挟まれているのも納得がいくのではないか、と考えました。もっともそもそも一院が本当に桐壺帝の父なのかどうか、本文でははっきりしていないのですが、魅力的な仮説ではないかと思います。


3.朝顔姫君は桐壺院崩御の諒闇中に斎院に卜定されているが、一体何故か。
 これは何故か今まで殆ど指摘されていないのですが、よく考えるとかなり重大な問題ではないかと思います。基本的に斎宮・斎院の卜定は諒闇中にされることはなく、通常なら1年の服喪が明けた後に新斎宮・斎院が選ばれるのですが、「賢木」では1年を待たずに桐壺院の姪である朝顔姫君が斎院となっています(注:当時の斎宮は六条御息所の娘の秋好で、桐壺院の娘ではなく、また天皇譲位でもないため退下の必要はなし)。歴史上でもこうした例は女王の斎院以上に少ない珍しいことで、言い換えるならこの時の朝顔斎院の卜定は随分強引だったということではないか、と考えました。


4.朝顔姫君の自邸が桃園宮とされたのは、紫野から近い場所だったからではないか。
 光源氏が須磨から帰京した後、冷泉帝の時代に式部卿宮が亡くなったことで、娘の朝顔姫君も斎院を退下しました。そこで「朝顔」では源氏が早速彼女に再び求愛するわけですが、その時朝顔が戻った邸宅が「桃園宮」であったという話が突然物語に登場し、その理由や準拠を求める先行研究も数多くあります。
 しかし朝顔斎院の卜定は先述の通りそもそも出だしから異例の上、「賢木」で卜定から半年経つか経たないかの秋には既に紫野斎院にいるかのような描写がされています。普通は宮中の初斎院にいるはずなのにおかしいではないか、という指摘はこれまでもあったものの、単なる勘違いかあるいは間違いと知っていて敢えて無視したかではないかと言われてきました。千尋もこれは間違いを承知の上で故意に書いたものだろうと思いますが、ただし後で「朝顔」を書いた時に、実はあれはまだ桃園宮にいる時だったということに変更したのではないかなと思うのです。「賢木」で源氏が滞在していた雲林院と紫野が近いのはよく知られたことですが、紫野と桃園もまた同じくらいに近いので、紫野に近い桃園宮で潔斎中の朝顔斎院に文を贈ったというのであれば、ちょっと苦しくはありますがありうる話ではないでしょうか。


 といった具合で、あくまでも歴史好きの素人が趣味で調べた結果のレポートではありますが、疑問に思った点は一通り調べられたので何とか肩の荷が下りました。とはいえ専門の方から見れば多分色々と問題点はあるでしょうし、明らかにおかしいという点があるようでしたら、ぜひご教示いただきたいと思いますので、よろしくお願いします。


関連過去ログ:
 ・賀茂祭の謎・六 源氏物語の中の斎院
 ・レポート提出
 ・天皇譲位と斎院退下


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