裳着の謎・2 后腹内親王と成人儀礼

 2014/09/22(Mon)
 以前「裳着の謎」と題して、第13代斎院韶子内親王の裳着(「着裳」「著裳」とも言います)についての記事を取り上げたことがありますが、最近色々調べ直してみてまた面白いことがわかってきました。

 まず、問題の記事の原文をもう一度見てみます。

 「延長二三廿五、昌子(内)親王於承香殿西廂著裳。天皇結腰有送物。
  御遊宸筆叙品。<三品> 雖不后腹、依先朝恩云々。
  以黄紙書叙品、給上卿、令作位記」(『西宮記』)

 延長2年(924)というと、醍醐天皇の時代です。当時醍醐後宮で、承香殿にいた妃は女御源和子でした。
 和子には娘が3人いますが、長女慶子内親王は延喜16年(916)11月27日に14歳で裳着を行ったことがわかっており、ここでは該当しません。一方次女韶子は延喜18年(918)生まれ、三女斉子は延喜21年(921)生まれです。この2人の年齢から見て、『大日本史料』では延長2年(924)当時7歳で既に斎院となっていた韶子の記事であろうとされたのでしょう。
 しかし前回も述べた通り、7歳での裳着というのも年齢的にかなり無理のある話です(※11世紀になっても、皇女でさえ10歳未満での裳着の記録は見当たりません)。

 となるとこれは服藤早苗氏の説(『平安王朝の子どもたち』他参照)にもあるように、裳着ではなく袴着(「着袴」とも言います」)の間違いである可能性が考えられます。

 ただ、服籐氏は「依先朝恩」から和子が光孝天皇皇女で宇多天皇の姉妹であることを根拠にあげておられますが、これも正直ちょっと疑問です。何しろ和子が産んだ皇子女は合計6人もいるというのに、その中で韶子1人だけがこれほどの特別待遇を受ける理由としては、やはり納得がいきません。
 また醍醐天皇の皇女の中でただ一人皇后穏子所生である康子内親王は、韶子と共に延喜20年(920)12月17日に同時に内親王宣下を受けており、その後承平3年(933)に15歳前後で裳着と同時にやはり三品に直叙されています。上記の記事が韶子のものだとすれば、妹とはいえ格上の后腹内親王である康子以上の大変な特別扱いだったことになり、やはりどうも不自然です。

 ところで服籐氏は『平安王朝の子どもたち』第3章「平安王朝社会の成女式」の中で、「とりわけ后腹(きさきばら・きさいばら)の場合は、着裳と同時に三品に叙される慣例だった」としています。始めは私もそういうものかと単純に思ったのですが、色々変だと感じて改めて調べてみたところ、この「后腹」が意外な曲者でした。
 そもそも平安時代は桓武天皇から醍醐天皇までの間、「皇后が産んだ内親王」というのは実は非常に少ないのです。この点は浅尾広良氏が「后腹内親王藤壼の入内:皇統の血の高貴性と「妃の宮」」(『大阪大谷国文』(37)、CiNii全文あり)で既に指摘されていることでしたが、これは品位等も合せてもうちょっと突っ込んで調べてみる必要があるのではないかと感じました。

 というわけで、具体的に平安初期の「后腹内親王」を以下に挙げてみました(※光仁天皇皇女の酒人内親王(母:皇后井上内親王)は、三品に叙された理由が父天皇即位に伴うものであるのがほぼ確実なため、ここでは除きます)。

 桓武天皇皇女(皇后:藤原乙牟漏)
  ・高志内親王~801年11月9日加笄、804年1月5日三品。
 嵯峨天皇皇女(皇后:橘嘉智子)
  ・正子内親王~淳和天皇皇后。記録なし。
  ・秀子内親王~無品。
  ・芳子内親王~記録なし。
  ・繁子内親王~無品。

 なお親王では、嵯峨天皇皇子で皇后嘉智子の次男である秀良親王が元服と同時に三品直叙されています(『類聚国史』天長9年2月11日)。
 しかし淳和天皇の皇后正子内親王(嘉智子の長女)に娘はなく、息子たちも元服と同時の三品直叙はありません(基貞親王は844年に18歳で三品に直叙されていますが、正月7日の紫宸殿における宴の席であることから明らかに元服と直接の関係はなく、また嵯峨天皇の皇子たちが14~16歳で元服していることからも、この三品直叙は元服後しばらく経ってからのことだったと思われます)。

 そしてその後、在位中に「皇后」を持った天皇は何と、醍醐天皇まで1人も存在しなかったのです(!)。

 意外なようですが、仁明天皇の即位から醍醐天皇の中宮藤原穏子が立后するまでの90年間は、天皇に「皇后」という正妃がいないという一風変わった時代だったのです。「后」と称された人物はいたものの、「五条后」藤原順子(仁明天皇妃)、「染殿后」藤原明子(文徳天皇妃)、「二条后」藤原高子(清和天皇妃)は皆、夫帝の在位中は皇后になることなく、所生の皇子が即位したことで「母后」となった女性たちなのでした。
 こんな具合ですから、「皇后」がいなければ当然「后腹内親王」も生まれるわけがありません。また上記の桓武天皇・嵯峨天皇の皇后が産んだ娘たちを見ても、成人と同時期に三品に叙された人物はいなかったようですから、桓武~嵯峨の頃はまだ「后腹の親王・内親王は成人と同時期に三品となる」という慣例まではなかったものと考えていいでしょう。
(注:色々な学説や意見はあるかと思いますが、ここでは「后腹」の「后」の定義を単純に「夫帝が在位中に立后した皇后」としています。従って上にあげた3人のような、夫帝の退位後または死後に、息子の即位によって「皇太夫人」「皇太后」になった「后」は含みません)

 さて、「皇太夫人」「皇太后」が出てきたところで、天皇在位中の皇后ではないもののそれに準じる「后」の皇女たちについても簡単に触れておきます。

 文徳天皇皇女
 ・儀子内親王(母:藤原明子。6代斎院)~869年2月9日初笄、同月11日三品。
  父文徳天皇は858年没。母明子は858年皇太夫人、864年皇太后。

 清和天皇皇女
 ・敦子内親王(873年以前生。母:女御藤原高子。7代斎院)~無品。
  父清和天皇は880年没。母高子は877年皇太夫人、882年皇太后。
 ※同母兄弟貞保親王は882年、元服と同時に三品直叙。

 光孝天皇皇女(母:女御班子女王)
 ・忠子内親王~884年臣籍降下、891年内親王宣下。三品。
 ・簡子内親王~884年臣籍降下、891年内親王宣下。無品。
 ・綏子内親王~884年臣籍降下、891年内親王宣下。陽成院妃。三品。
 ・為子内親王~884年臣籍降下、891年内親王宣下。醍醐天皇妃。897年7月3日入内、同月25日三品直叙。
  父光孝天皇は887年没。母班子は887年11月17日皇太夫人、897年7月26日皇太后。

 宇多天皇皇女
 ・均子内親王(890生、910没。母:女御藤原温子)~無品。
  父宇多天皇は897年譲位。母温子は897年7月26日皇太夫人(皇后)。

 こうして見ると、儀子内親王は成人直後に三品となっているので、「后腹内親王は成人と同時に三品とする」に準ずる例であるように思われます。
 ところが、儀子内親王と同じく敦子内親王と均子内親王も母は皇太夫人または皇太后で、年齢的にも恐らく母が「后」となった後に成人したにもかかわらず、生涯無品でした。もちろん、成人に伴っての三品直叙もなかったわけです。
 ということは、宇多天皇の頃まではまだ、儀子内親王の例がその後の「后腹内親王」の成人儀礼に引き継がれる慣例とはなっていなかったと見ていいと思われます(これはまったくの推測ですが、儀子内親王の場合は后腹内親王としてというより、むしろ清和天皇の唯一の同母きょうだいとしての直叙だったのではないでしょうか?)。
 また光孝天皇皇女の場合は、父天皇が即位したにもかかわらず一度臣籍降下し、同母兄弟宇多天皇の即位後にやっと皇族復帰したという非常に変則的なケースでした。そもそも宇多天皇の即位自体が異例のことであり、その姉妹たちにしても、(いかに母が皇族出身の皇太夫人とはいえ)仮にも「元源氏」の皇女がそうたやすく「后腹内親王」として当時の人々に受けとめられたかどうか、少々疑問です。
 ちなみに浅尾広良氏の上記論文では為子内親王を「后腹内親王」としており、母が皇族であることからその血筋の高貴さゆえに醍醐に入内させたものと推察しています。実際、わざわざ皇女出身の皇妃に限定される「妃(ひ)」としているあたりに宇多天皇のこだわりが伺えますが、一方で為子内親王は内親王宣下後も入内まで無品でした。また諸研究でも臣籍から急遽即位した宇多天皇の王権の弱さが指摘されるように、宇多の姉妹たちも単純に「后腹内親王」として参考にできるケースではないと思われます(なお宇多天皇は為子の早世後も息子醍醐天皇に皇統の血を引く妃を娶せようとこだわったようで、そもそも問題となった韶子内親王の母源和子も、宇多天皇と為子の異母姉妹でした)。

 ともあれこれらの先例を総合すると、名実共に「着裳と同時期に三品に叙された最初の后腹内親王」は、醍醐天皇と中宮藤原穏子の娘である康子内親王であった可能性が高いと思われます(ちなみに康子の同母兄である皇太子保明親王は、穏子の立后前に亡くなったので「后腹親王」ではありませんでした)。
 康子以前で最も近い宇多天皇の時代、「后腹」と言えそうな皇女は均子内親王1人ですが、均子は無品であることがわかっているので明らかに前例ではありません。よってもし康子が「后腹内親王裳着による三品」の初例ならば、康子より早い韶子の裳着(?)にあたって「雖不后腹」などという但し書きがつくのは、当然辻褄が合わないことになります。
 こうした点からも、康子内親王の時に后腹内親王の裳着=三品直叙という慣例が定まり、その後昌子内親王裳着の時に上記の記事が書かれたのではないかと思われます。浅井氏も上記論文で「〈后腹〉を聖別する価値観は、醍醐朝ごろから出来上がったものと考えられる」と述べておられ、為子内親王についての見解は多少疑問に感じる点もありますが、「后腹」という概念が定着していった過程を考える上で、この頃がひとつの分岐点であった可能性は高いのではないでしょうか。

補足:康子の次に后腹内親王が成人儀礼を行ったのは、965年8月27日の村上天皇皇女輔子内親王の始笄でしたが、この時は『日本紀略』の記事には品位についての記載はありません(この点は服籐氏が既に指摘されています)。ただし同日に1歳上の同母兄為平親王が元服・三品となっており、3年後の968年12月28日には同母妹の資子内親王が加笄、翌年1月5日に三品とされています。輔子自身も『日本紀略』992年3月3日条の薨伝で「前斎宮二品輔子内親王」とあるので、記録はないものの始笄の頃に三品になっていた可能性はありうるでしょう。


 ところで『貞信公記』延長3年2月24日条には、「従内有召、依八九親王(時明、長明)又公主等(普子内親王)加元服事也」という記事があります。
 これもあくまで想像ですが、この日付と内容から見て、もしかすると「延長3年2月25日」に普子内親王の裳着の記事があり、『西宮記』はまずそれを書こうとして「延長3年2月」を「延長2年3月」としてしまい、記事の内容も次に入れるつもりだった昌子内親王の記事(以下参照)を誤って写してしまったのではないでしょうか。写本の誤りはよくあることとはいえ、「韶子」を「昌子」に書き間違えるというのは字の形状から見てもやはり無理がある話で、それよりは「三年二月」を「二年三月」としてしまう方がまだありそうな気がします(ついでに言えば、「昌子親王着裳」の記事の次は何故か成平親王(村上天皇)と藤原安子の婚礼に関する記事で、内親王着裳または着袴とは全然関係がなく、やっぱりこの前後の記述はちょっと変だと思います)。

 というわけで、朱雀天皇皇女「昌子内親王」の着裳(ここでは初笄)記事をもう一度見てみます。

 「応和元年十二月十七日(中略)朱雀院第一皇女昌子内親王於承香殿初笄。
  天皇神筆給。三品位記。又侍臣奏絃管。」(『日本紀略』)

 ここには「雖不后腹、依先朝恩云々」のくだりはありませんが、最近発行された栗本賀世子氏の『平安朝物語の後宮空間―宇津保物語から源氏物語へ』(武蔵野書院)によると、「先朝」という言葉は故人のイメージが強いそうです。となると、この「先朝」=故朱雀院と考えれば矛盾がなく、やはり韶子の記事とするより昌子の記事と考える方が適当かと思われます。

 なお、今回引っかかった「后腹」という言葉、改めて調べてみたら六国史や日本紀略には使われていませんでした(『扶桑略記』には欽明天皇の記事で出てきますが、実際にその時代この言葉が使われたわけではないでしょう)。『西宮記』に記載があり、また物語では『宇津保物語』『源氏物語』に使われているところから見て、多分10世紀後半あたりに定着していったのではないかと思われます。
 今回は『万葉集』『古今和歌集』以外の歌集の詞書等は調べていませんが、「后腹」がいつから使われるようになった言葉なのかという問題はとても面白そうだと感じました。しかし「后腹」の定義について考えるということは、そもそも「后」とは一体何ぞや、という問題にも繋がるわけで、ただの日本史好きな素人にはちょっと荷が重い課題かもしれませんねえ(こうやってまた新たな宿題が増えて行くのです…笑)。

※ちなみに浅尾氏の論文によると、岡村幸子氏の「皇后制の変質:皇嗣決定と関連して」(『古代文化』48(9),1996)でもやはり「『西宮記』頃から「后腹」という言葉が使われ始めた」と指摘しているそうです。これは残念ながら知りませんでしたが、大変面白そうなので今後論文を手に入れたらまた追加報告するかもしれません。

 最後に、この昌子内親王の裳着については、実はもう一点非常に気になっていることがあります。これまた大変面白い問題なのですが、ちょっとまだ調査結果がまとまらないので、後日また改めて。


追記:
 最近ぽつぽつと拍手をいただく中で、何故か「一覧表の功罪」が地味に人気なようで、ちょっと驚いています。あの時はまだ「斎院候補一覧」はできていなかったので、リンクも張っていないのですが、もし興味をもってくださった方がおいででしたら賀茂斎院サイトの方もぜひ見てやってくださいね。

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琳派イヤーカウントダウン

 2014/09/06(Sat)
 本日のネットニュースで、来年の琳派イヤーに京都国立博物館で琳派展を開催予定との記事を発見、例によって飛び上がりました。以前ちらっと報告した「琳派400年記念祭」公式サイトにはまだ情報は出ていないようですが、産経新聞によると、まず1月に京都劇場で記念祭のオープニング式典が開催されるそうです。ちなみに某所からちょっと凄そうな噂も耳にしておりますが、残念ながらまだ裏が取れていませんので、確定しましたら改めてご報告させていただきます。

 ところで琳派と言えば、今年の春に東京国立博物館で久しぶりの俵屋宗達作「風神雷神図屏風」がお目見えしましたが、今月23日から山種美術館で「輝ける金と銀 琳派から加山又造まで」がスタートします。今回のチラシは金が酒井抱一の「秋草鶉図屏風」、銀が加山画伯の「華扇屏風」で、その他にも光悦・宗達の短冊や速水御舟の「名樹散椿」も登場するそうですから、その名の通り大変華やかな世界になりそうですね。
 それにしても、思えば「金と銀」をメインテーマにした美術展というと、1999年に東京国立博物館で開催された「金と銀 かがやきの日本美術」以来の気がします。何しろあれは平成館開館記念特别展(!)で、見た目も中身も大変にゴージャスな物凄い美術展でした。さすがにあれには及ばないまでも、山種美術館の琳派コレクションも見るたびに溜息が出る逸品揃いですので、今回はどんな切り口になるか大変楽しみです。

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