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伊勢斎宮の謎・4 お母さんは誰?

 2013/10/19(Sat)
 前回、斎宮喜子内親王について父親は誰なのだろう、と書きましたが、今度はその逆で「母親のわからない斎宮」の話です。

 院政期から大分遡って、藤原道長が権勢を誇った時代の少し後、後冷泉天皇朝の斎宮で嘉子内親王という人がいました。
 この人は内親王とは言っても、実の父親は東宮を辞退した小一条院敦明親王で、本来なら皇孫の二世女王です。ただ小一条院の子女には祖父三条天皇の養子として宣下を受けた王子・王女が何人かいて、嘉子内親王もその一人でした。
 とはいえこの嘉子内親王、困ったことに生没年も不明なら、斎宮でありながら生母さえも不明瞭なのです。
 皇室の系図に関する史料といえば『尊卑文脈』『一代要記』『本朝皇胤紹運録』あたりが主なところですが、このいずれにも生母の名はありません。かろうじて『帝王系図』(前田家本)に「母同敦賢(藤原頼宗女)」、『伊勢斎宮部類』に「母備前守源長経女」とあるものの、研究書等を見ても、藤原延子(左大臣顕光の娘)または藤原寛子(道長の娘)を母としているものもあり、はっきりしないのですね。
 で、これはちょっと史料を一度洗い直してみようと思いまして、小一条院の子女の一覧を作ってみました。


《小一条院(敦明親王)の子女一覧》

母:藤原延子[堀河女御](寛仁3年(1019)4月10日没)
・敦貞親王
  長和3年(1014)10月6日生
  寛仁3年(1019)3月4日宣下
  康平4年(1061)2月8日没
・女子(栄子内親王?)
  長和4年(1015)12月11日生
  没年不明
・敦昌親王
  生年不明
  長元2年(1029)6月7日宣下
  没年不明

母:藤原寛子[高松殿女御](万寿2年(1025)7月9日没)
・ケン子内親王(藤原信家室)
  寛仁2年(1018)12月9日生
  寛仁3年(1019)3月4日宣下
  承徳元年(1097)12月28日没
・王子
  寛仁3年(1019)12月6日生
  寛仁4年(1020)6月9日没
・王子
  寛仁4年(1020)閏12月18日生・没
・敦元親王
  治安3年(1023)生
  長元2年(1029)6月7日宣下
  長元5年(1032)7月14日没

母:藤原頼宗女[院の上]
・源基平
  万寿3年(1026)生
  永承元年(1046)従三位
  康平7年(1064)5月15日没
・敦賢親王
  長暦3年(1039)生
  天喜元年(1053)12月宣下(『十三代要略』)
  承暦元年(1077)8月17日没

母不明:
・嘉子内親王(斎宮)
  生年不明
  永承元年(1046)3月10日卜定
  永承6年(1051)1月退下
  没年不明

母:源政隆女[瑠璃女御](寛治3年(1089)4月12日没)
・源信宗
  生年不明
  長久元年(1040)11月4日昇殿
  承保元年(1074)6月30日没
・女王(信子?)
  生年不明(1051以前)
  没年不明
  (治暦4年(1068)後三条天皇・延久4年(1072)白河天皇即位式のけん帳女王か?)
・斉子女王(斎院)
  生年不明(1051以前)
  承保元年(1074)12月8日卜定
  寛治3年(1089)4月12日退下


 以上、生年月日がはっきりしているのは主に『御堂関白記』『小右記』等に記載のあるもので、生年のみの人物は死去した時等の史料に記載された年齢から逆算しています。なお小一条院は永承6年(1051)1月8日に死去しているので、生年不明の子女も1051年までには生まれたものと見なしました。


 さて、この頃の同時代史料として貴族の日記等とは別に見逃せないのが『栄花物語』(以下略して『栄花』)です。
 巻32「謌合」では、小一条院の娘は延子所生の「女一所」、寛子所生の「女宮一所」、そして頼宗女所生の「男、女あまた」がいたとあります。またその他、源政隆女(瑠璃女御)にもやはり「男、女あまた」いたとされます。
 しかし源政隆女は「瑠璃女御」と呼ばれてこそいたものの、元々父は受領で本人も寛子に仕えていた女房であり、正式に結婚した妻ではなかったようです。そしてその子供たちも、やはり生母の身分が低かったためか、上記一覧のとおり親王宣下を受けていません(『一代要記』では堀河天皇の斎院を「斉子内親王」と表記していますが、白河天皇の斎院は「斉子女王」としているので、「内親王」は恐らく誤記でしょう)。
 ということは、内親王宣下を受けた(らしい)嘉子の生母が源政隆女である可能性は低いと考えられます。また『伊勢斎宮部類』にあった「備前守源長経女」もやはり受領層出身なので、源政隆女と同様に嘉子の母ではないと思われます。

 よって、嘉子が「内親王」であったのが間違いでないとすれば、その母は小一条院と正式に結婚した藤原延子・藤原寛子・藤原頼宗女の中の誰かに絞られてきます。では、この三人の内誰が嘉子の生母だったのでしょう?


・藤原延子[堀河女御]
 小一条院の最初の妃。父は左大臣藤原顕光。(同母姉元子は一条天皇女御、のち源頼定室)
『小右記』のおかげで、第1子(長男敦貞)と第2子(長女)が年子であったことがわかっています。しかも長女の誕生は1015年12月ですから、第3子である敦昌が1016年12月~1019年の生まれであることはほぼ間違いありません。
 さらに1017年11月に小一条院は藤原寛子と結婚しており、『栄花』によれば以後延子とは殆ど没交渉になってしまい、事実上捨てられた延子は心痛から病に伏した末に亡くなったということです。『小右記』も「心労云々」と記しており、恐らく敦昌誕生以後の懐妊・出産はなかったでしょう。

・藤原寛子[高松殿女御]
 言うまでもなく道長の娘。ただし母は源高明の娘・明子で、上東門院彰子や頼通の異母妹。(※同名の後冷泉天皇皇后は頼通の娘で、小一条院妃の姪にあたります)
 この人は第1子であるケン子内親王(ケン=人偏+「環」の旁)の生年月日がはっきりしており(『御堂関白記』『小右記』)、『栄花』の「女宮一所」はこのケン子を指すと思われます。しかもケン子は後に道長の孫信家(教通長男)と結婚しており、斎宮になった嘉子内親王と混同される余地はありません。
 もっともこの人も第1子から第3子までが年子で、敦元親王誕生の前後にもう一人か二人、王女が生まれていた可能性もあります。ただし寛子所生の王女を「一所」とする『栄花』を信頼するなら、嘉子が寛子所生である可能性は低いと思われます。

・藤原頼宗女[院の上]
 道長の孫娘。父頼宗は上に挙げた寛子の同母兄。叔母寛子の没後、小一条院の妃となった。
 この人は先に述べた通り、『栄花』で「男、女あまた」子があったとされています。事実、源基平は『公卿補任』『本朝皇胤紹運録』に、また敦賢親王も『本朝皇胤紹運録』『十三代要略』に、それぞれ母が頼宗女であるとの記載があります(注:『続群書類従』所収『十三代要略』では「母頼定公女」ですが、この頃存在した「(源)頼定」の娘が小一条院の妃になったとの記録は他になく、恐らく「頼宗公」の誤字でしょう)。
 しかし『尊卑文脈』『一代要記』『本朝皇胤紹運録』では、頼宗女に娘がいたとの記録はありません。ただし『帝王系図』の三条天皇の子女の項目に、「敦賢親王 実小一条子、母右大臣藤頼宗女」「嘉子内親王 母同敦賢」と記載されています。


 ところで、延子所生の長女は内親王宣下の時期が不明で、『小右記』等にも名前がありません。そのため、この名前不明の王女を嘉子内親王ではないかとする説もあります。
 しかしそうすると、嘉子が斎宮に卜定された1046年当時、1015年生まれであれば32歳ということになります。前回の堀河天皇皇女?喜子内親王の40代疑惑ほど無茶ではありませんが、それでもこれ以前に30を過ぎて斎宮・斎院に卜定された例は確認されず、やはりちょっと苦しい気がします(ただし当時他に候補となる「内親王」は後朱雀皇女祐子しかいなかったので、年齢のことを置いても実際には嘉子以外に選択の余地はあまりなかったと思われます)。
 また『帝王系図』『本朝皇胤紹運録』は、三条天皇の子女の項目に嘉子・栄子双方の名前が記載されています。これを見る限り、嘉子と栄子の二人が別人であったと認識されていたのは間違いなく、しかも『帝王系図』は栄子について「母同敦貞」と付記があり、二人を異母姉妹としています。

 というわけで、嘉子内親王の母は唯一『帝王系図』の記載にあり、また『栄花』の記述とも一致する藤原頼宗女であるとするのが、最も矛盾がないと思われます。


 それにしても、嘉子内親王の母を「頼宗女」と明記した史料が一応存在するのに、何故「頼宗女母説」が見当たらないのか、ちょっと不思議です。とりあえず調べてみた範囲では、主な資料に掲載された「嘉子内親王の母」についての記述は以下の通りでした。

 ・『平安時代史事典』~「藤原道長の娘」(=寛子)
 ・『歴史のなかの皇女たち』~「藤原寛子」
 ・『続斎宮志』~「母は不明であるが、あるいは藤原道長女の寛子であったかも知れない」

 なお論文では、永田和也氏の「敦明親王とその子供たち」(『日本古代の国家と祭儀』雄山閣出版,1996)で嘉子の生母は(内親王宣下を受けていることから見て)延子・寛子・頼宗女のいずれかであったことは間違いないとしています(ただし延子の可能性は低いとも付け加えています)。また林陸朗氏の「賜姓源氏の成立事情」(『上代政治社会の研究』吉川弘文館,1969)や、倉田実氏の「養子になった皇子たち 小一条院の場合」(『王朝摂関期の養女たち』翰林書房,2004)では、嘉子の生母は明らかでないとして深く触れていません。

 とはいえこれも無理のない話で、何しろこの嘉子内親王、最も貴重な情報源となる斎宮卜定の時の逸話が『栄花』にまったく出てこないのです。
 嘉子内親王は後冷泉天皇の斎宮として卜定されましたが、『栄花』では何故か一代飛ばして次の敬子女王と混同されてしまっています。確かに『栄花』にはちらほら間違った記事があることも知られていますが、それにしても嘉子は生母の情報が殆どないことといい、何だか陰の薄い存在なのですよね(ちなみに頼宗女は結婚前の逸話がちらほら『栄花』に出てくるのですが、後になると後朱雀天皇女御となった妹延子(頼宗次女)の話題ばかりで、長女である小一条院妃は殆ど登場しません)。
 しかしながら上に挙げた『帝王系図』(前田家本)は、『大日本史料』の三条天皇崩御の項目にしっかり引用されており、『続群書類従』(第五輯上)にも『皇胤系図』として載せられています(ただし敦賢親王の名前が「淳賢」でしたが、原本の誤字かどうかは不明)。『伊勢斎宮部類』説は江戸時代成立の史料だけに見向きもされていないのはわかるとしても、鎌倉時代(伏見天皇の頃)成立らしいこの『帝王系図』の記述が無視?されてしまったのは、『栄花』の記事が間違いと思いこまれた結果見過ごされてしまったのでしょうか。

 ともあれ、嘉子内親王の母が頼宗女だとすれば、年齢的に見て頼宗女の第1子と思われる源基平の妹であることはほぼ間違いないありません。となると、基平と双子でない限り、嘉子の生年の上限は1027年と見ていいでしょう。
 また嘉子は永承3年(1048)9月8日の群行の際に月事の記録があることから、当時最低でも10歳以上とすれば、逆算して1039年までには生まれていたはずです。さらにもう一人の同母兄弟である敦賢親王が1039年生まれですから、こちらも双子でなければ1038年以前の生まれということになります(実際にはもう少し年長だったかもしれません)。
 というわけで、嘉子内親王の生年は1027年から1038年の間で、1046年に卜定された当時は9~20歳くらいだったと思われます。これは他の卜定の例と比較しても矛盾のない年齢で、当時祖父頼宗は54歳でまだ健在でしたし、恐らく母頼宗女も存命だったでしょう(なお頼宗女の没年はWikipediaでは1062年とありますが、『平安時代史事典』には頼宗女の項目がなく、『大日本史料』『栄花』等でも確認できませんでした)。

 ところで嘉子の群行の際、長奉送使(斎宮を伊勢へ送り届ける勅使)をつとめたのは頼宗の異母弟教通の息子、つまり頼宗の甥である信長(27歳)です。嘉子が頼宗女の子なら母のいとこにあたるわけで、近親者が長奉送使に選ばれたというのは前例もあるので納得がいきます。
 ちなみに長奉送使は中納言または参議の中から一人選ばれるのですが、この年の公卿補任を見ると、中納言に頼宗長男の兼頼(35歳)、また参議にその弟の四男能長(27歳、叔父能信の養子)がいるのですよね。この二人は嘉子の叔父ですから、血縁としては彼らの方が近いはずなのが気になりますが、ともあれ道長の孫でもある信長が長奉送使を勤めているのは、嘉子内親王も同じ血縁に連なる人物であったからではないかな、とも思えます。

※余談ながら嘉子の2代前の斎宮セン子女王(セン=女偏+専)の際、頼宗の同母弟能信が長奉送使をつとめていますが、これはセン子が頼通の妻隆姫の妹であった縁からかと思われます。一方で次の斎宮であった良子内親王は、母が道長の孫娘である禎子内親王であったにもかかわらず、長奉送使は小野宮流の藤原資平(実資の養子)で、ちょっと気になるところです。

 それにしても、斎宮については過去既に一通りの基礎研究はされていると思っていたのが、改めて見直すと意外にもこうした疑問点が出てくるのが面白いところです。実はこの他にももう一人気になる斎宮がいるのですが、それについてはまた後日。


【付記】
 頼宗女について調べている最中、『小右記』にちょっと気になる記事を見つけました。以下、長元3年(1030)5月4日条の原文からの引用です。(■は文字不明な部分です)

 呪詛小一条院御息所之法師皇延・法師弟子護忠今日捕搦、
 於河原科▲(禾偏にノ+友)、以御息所飯令食、
 即為資朝臣為使所行也、院■為資車■労渡坐、
 波[彼?]呪詛召人瑠璃★(示偏に午または朱?)者、

 ここでいう「小一条院御息所」は間違いなく当時の小一条院正室である頼宗女のことです。また最後の「召人瑠璃」というのは、瑠璃女御と呼ばれた源政隆女のことでしょう。
 この記事はどうやら、御息所(頼宗女)と召人瑠璃に絡む呪詛のことで、法師皇延とその弟子が呪詛の嫌疑で捕らえられて罰せられたようです。こんな女性週刊誌的話題まで書き留めているあたり、筆まめで地獄耳(多分)な実資の面目躍如という感じですが、「大日本史料総合データベース」では「小一条院敦明御息所藤原頼宗ノ女名闕ク、ヲ呪詛セル法師等ヲ捕フ」とあり、御息所(頼宗女)が法師に呪詛された、としています。「小一条院御息所之法師皇延」で切りたくなりますが、この場合は「小一条院御息所を呪詛した」法師、と読むようです。

 ここで「召人」とあるのを見る限り、源政隆女は当時小一条院の寵愛を受ける女房の一人として、世間にも認識されていたようです。また源政隆女の産んだ源信宗は、長久元年(1040)に侍従として昇殿を許されたとの記録があり、この時点で元服済なのは間違いないですから、少なくとも1030年以前の生まれであったでしょう(仮に1030年生まれなら数え11歳ですが、元服即昇殿とは限りません。後の源有仁も13歳で元服・17歳で昇殿していますから、信宗の場合も昇殿の時15~20歳くらいでしょうか)。元々源政隆女は小一条院の妃であった寛子に仕える女房でしたから、1025年に寛子が死去した後から寵愛を受けるようになったと考えるのが自然です(何しろ寛子はあの道長の娘だけに、小一条院としても間違っても粗略にはできなかったでしょう)。
 しかし身分低い(と言っては失礼ですが)女房の身で小一条院の寵愛を受けたばかりか、何人も子を産んで「女御」と渾名されるほどに寵遇された源政隆女が、正室頼宗女を呪詛したというのは何だかちょっとしっくりきません。頼通の正室隆姫が妾たちを嫉妬したというのは有名な話ですけれど、これでは逆ですよね。
 ともかくこの漢文は何だか難しく、特に「以御息所飯令食、即為資朝臣為使所行也」の意味がよくわかりませんが、何にせよ色々と気になる逸話で『栄花』に採用されなかったのが実に残念です。

 それにしても、小一条院の最初の妃延子も、寛子との結婚で打ち捨てられた後に父親が呪詛したとか死後に父娘で寛子を祟り殺したとか言われていますし、何だか小一条院の周辺ではこんな怖い話が妙に目立ちますね。もっとも瑠璃女御自身は小一条院の死後もそれなりに長生きしており、娘の斉子女王が斎院になったおかげで没年月日もわかっているのですが、その後の斉子女王の消息は残念ながら不明です。


参考リンク:
・「京都大学附属図書館所蔵 平松文庫」(1巻。画像閲覧可。三条天皇の子に嘉子・栄子の名あり)
・「早稲田大学図書館所蔵 『本朝皇胤紹運録』」(p60。PDF閲覧可。画像が重いので注意)

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