伊勢斎宮の謎・3 お父さんは誰?

 2013/08/30(Fri)
 ご無沙汰していますこんにちは、ここ一月ほどの猛暑は本当に凄いものがありましたね。特に西日本は一際凄かったようですが、よせばいいのに(笑)千尋は8/17-8/19の三日間、久しぶりに京都へ行ってきました。
 そもそも北国育ちの千尋にとって、真夏の猛暑真っ只中の京都などというのは正直言って絶対行きたくないもののひとつで、おかげで祇園祭も行ったことはありません。しかし今回はたまたま関西で用事があり、珍しくも月曜まで滞在ということになったので、せっかくだから土日には行けないところへ行ってこようと決断したのです。
 というわけで、連日36度を越す暑さに本気で死にそうになりながらも、初めて本格的な?賀茂斎院関連のスポット巡りをしてきました。

 今回は以前作っておいたGoogleMapが大変役に立ち、念願の伝・式子内親王墓所を始め、上西門院統子内親王・嘉陽門院礼子内親王の墓所も初めてお参りできました。上賀茂神社にも何年かぶりで参拝、本殿拝観にも参加させていただくなど、大変充実したツアーで我ながら大満足でした。
 中でも最後に訪れた下鴨神社では、境内のみたらし池に何と屋根つきベンチが設けられていて、冷たく湧き水に手足を浸すと実に爽快で気持ちよかったです。おかげさまで身も心もすっきり、暑さと疲れも吹き飛ぶ素敵な禊になりました。この賀茂斎院巡りの成果は早速、サイトに写真アップや交通手段の追加を更新しましたので、一度行ってみたいという方はぜひ参考になさってください。

補記:
 上西門院陵と嘉陽門院陵は花園駅を挟んで徒歩10分程度でしたが、細い裏道を抜けていくので地図がないとわかりにくいので要注意です。なお一度にまとめて訪問する際は、先に高台にある上西門院陵へ行く方が、次の嘉陽門院陵への道が下りになるのでちょっと楽です。(千尋はルートの都合上逆をやってしまい、迷子にはなりませんでしたが暑さでよろよろでした…)


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上賀茂神社境内の立砂


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高倉宮趾石碑(31代斎院・式子内親王と弟以仁王の邸宅)




 さて、本日の本題はこれまた久しぶりに伊勢斎宮です(もちろん斎院にも関係してきます)。
 以前にも触れましたが、斎宮喜子内親王は本当に堀河天皇の娘なのか、という疑問について、その後新たに気がついたことがありました。

 まず堀河天皇は1107年7月19日に崩御のため、娘である喜子内親王の生年は1108年以前と推測されます。となると自動的に、1151年(仁平元年)の卜定で喜子は44歳以上であり、斎王卜定の年齢としては異例に遅かったことになります(他の斎宮・斎院は殆ど30歳以下で卜定)。
 そこでもしかすると、喜子内親王の父は堀河天皇ではなかったのではないか、と考えて調べたところ、同時代の史料で『台記』と『本朝世紀』があり、『台記』(仁平元年3月2日条)には「故堀川院女」とあるが、『本朝世紀』では父天皇の名前を一切書いていなかったというところまでが前回の報告でした。

 ところがうっかりしていましたが、院政期の皇族の系譜については『今鏡』にもかなり細かい情報が載っていたのです。
 巻8「腹々の御子」によれば、「また前の斎宮も、堀河の院の御娘と聞え給ふ。まだこの頃もおはするなるべし」とあります。堀河天皇の皇女で斎宮になったのは喜子内親王だけ(そもそも存在の確実な皇女は2人しかいない)なので、この「前の斎宮」は喜子と見て間違いないでしょう。なお『今鏡』が成立した1170年頃存命とあることから、堀河皇女であれば当時60歳以上ということになりますが、残念ながら年齢についての記載はありませんでした。
 またもうひとつ、『帝系図』では27代斎院ソウ子(ソウ=りっしんべんに宗)の生母を記載せず、喜子の生母を康資王女(1126没)としています。一方『今鏡』では「女宮は大宮の斎院(悰子)と聞え給ふおはしき。やがてかの大宮の女房の生みたてまつれりけるとなむ」とあり、喜子の生母については触れていませんでした。

 というわけで、どうやら『今鏡』の頃には喜子内親王は存命で、少なくとも当時一般には堀河皇女であると思われていたようです。しかしくどいですが40過ぎで卜定というのがやはりどうにも納得がいかなかったので、もう一度『本朝世紀』で喜子内親王に触れた部分を読み返してみると、卜定の際の喜子の邸宅について「左馬頭隆季朝臣宅」とあったのが目にとまりました。
 左馬頭藤原隆季は、鳥羽院の寵臣藤原家保の孫(家保の長男家成の子)です。この家保の妻で家成の母にあたるのが、かつて堀河天皇に仕えてその皇子(大僧正寛暁、1103-1159)を産んだ典侍・藤原宗子でした(つまり『讃岐典侍日記』作者の同僚ですね)。となると、宗子の孫・隆季の邸宅に堀河天皇の遺児がいたというのは十分ありうる話で、もしかすると藤原宗子が喜子内親王の母であった可能性も考えられます(もっともそれならそうと記録が残っていそうなので、やはり生母は不明と見た方が妥当でしょうか)。
 とはいえ、何故1151年(仁平元年)の卜定の時まで喜子が宣下も受けず放置されていたかは、やはり疑問が残ります。というのも、1151年当時近衛天皇には未婚の姉妹(鳥羽天皇の娘)が3人いた上に、天皇の異母兄である雅仁親王(後の後白河天皇)にも既に3人の娘が生まれていました。この時は斎宮のみの卜定だったため、賀茂斎院サイトの候補者一覧には入っていませんが、以下の通りです。


【1151年存命で未婚の内親王・女王】

 鳥羽院皇女
  ・ショウ子内親王  1137年生・15歳(後の八条院、1157年出家。ショウ=日偏に章)
  ・シュ子内親王 1141年生・11歳(後の二条中宮・高松院、1156年入内。シュ=女偏に朱)
  ・頌子内親王  1145年生・7歳

 雅仁親王王女
  ・亮子女王   1147年生・5歳
  ・好子女王   1148年生?・4歳?
  ・式子女王   1149年生・3歳


 このうち八条院ショウ子内親王と高松院シュ子内親王は近衛天皇の同母姉妹、つまり美福門院所生で父鳥羽院の寵愛も篤い皇女たちでしたから、当然斎宮にするなどもっての外だったでしょう。また異母妹の頌子内親王は、実は1141年(永治元年)父鳥羽院が出家した後に誕生した皇女でした。このため後に1169年の斎院選定では、仏事を忌む斎院には憚りありとして一度卜定を避けられており、当然1151年も最初から候補外だったと思われます。
 というわけで、鳥羽院の皇女3人が候補外なのはわかりますが、雅仁親王の娘3人は両親共に健在で、年齢的にもやや幼いとはいえ問題はなく、明らかに斎宮候補であったはずです。しかし何故か、結局堀河皇女の喜子が斎宮に卜定されました。
 そして4年後の1155年、近衛天皇崩御により喜子内親王は退下、後白河天皇の即位と共に卜定されたのは長女の亮子内親王でした。ただしこの時内親王宣下を受けたのは亮子一人であり、妹の好子・式子は宣下を受けていません(好子は1158年の斎宮卜定で、また式子は1159年の斎院卜定でそれぞれ宣下)。生母高倉三位がついに女御にさえならなかったことを見ても、この三姉妹は斎宮・斎院にならなければ、宣下を受けることもなかったと思われます。

 さてここで、1151年の候補であった4人の中で卜定された喜子と、卜定されなかった亮子・好子・式子ら三姉妹の最大の違いは何かと言えば、当然「天皇の娘」であったか否かです。本来卜定の条件は斎宮も斎院も「内親王未嫁者(未婚の内親王)」であり、その上で「若無内親王者(もし内親王がいない場合は)」女王を選ぶことになっているのですから、天皇の娘である喜子が優先されたのは当然と言えば当然です。
 とはいえ元々斎宮は斎院に比べて女王が選ばれた例が多く、特に平安中期はそれが顕著でした。12世紀前半の守子女王以降は女王斎宮の例はなくなったとはいえ、それは親王宣下を受ける皇子が激減した結果女王も殆ど出なくなったためで、女王卜定を避けたのが理由ではありません。しかし近衛天皇の時には姉妹はともかく、姪にあたる女王も3人もいたのに、わざわざ一世代前の叔母にあたる堀河天皇の娘、それも40過ぎという高齢の皇女を引っ張り出してきたのは一体何故だったのか、ますますわからなくなってしまいました。

 少し後の話になりますが、1155年の後白河天皇の即位は、異母弟近衛天皇が急死した当時でさえ誰もがまったく予測しなかった想定外の事態でした。これもそもそもは後白河天皇の息子守仁(二条天皇)が本命であったのですが、その守仁が皇位継承者として浮上してきたのも、1153年に近衛天皇が病になったのがきっかけとされています(奇しくもこれは喜子斎宮群行の直前でした)。よって1151年の時点では、いくら守仁が美福門院の養子であったとはいえ、その異母妹である亮子たち3人がいずれ「(後白河)天皇の娘」または「(二条)天皇の姉妹」になることを前提に卜定を先送りしたとは考えられません。1150年に元服した近衛天皇は当時は健在であり、元服の年に皇后藤原多子(左大臣藤原頼長養女)・中宮藤原呈子(関白藤原忠通養女)の懐妊が待ち望まれている状況でした(もっとも近衛天皇はまだ数え13歳でしたが)。

 というわけで、やはり当時どうしても「喜子でなければならなかった」という程の理由は思いつきません。何度も繰り返しますが、既に40歳を越えた喜子は斎宮候補としてはむしろ不適格(と言っては大変失礼ですが)で、通常の卜定であれば真っ先に除外されたはずです。にもかかわらず、敢えて喜子が卜定されたということは、他に何らかの理由があって「仕方がないので(重ね重ね失礼ですが)喜子しか選べなかった」ということにならないでしょうか。
 もしそうだとすれば、それは恐らく「雅仁親王の王女であってはいけなかった」結果、消去法で喜子が最後に残ったということになります。その理由はわかりませんが、強いて想像するなら近衛天皇の周囲、ずばり言って天皇の母美福門院が「待賢門院の孫娘にあたる皇女を、近衛天皇の斎宮にさせたくなかった」のでは、なんていうのはどうでしょう。
 というのも、亮子・好子・式子の母高倉三位(藤原成子)は待賢門院の姪で、閑院流出身の女性です。後白河天皇の母は待賢門院で、後白河天皇と高倉三位はいとこ同士にあたりますから、その間に生まれた亮子たち三姉妹は父母両方から閑院流の血を濃く引いているということになるわけです。
 美福門院にとっていかに息子のためとはいえ、娘を斎宮にするのはやはり親として気が進まなかったでしょうけれど、待賢門院を失脚に追い込んだ立場としては、わが子近衛天皇が病弱なのは亡き待賢門院の祟りではないかと恐れたというのはありそうな話です(後年近衛天皇が亡くなった時にも、左大臣頼長の呪詛のせいだと吹き込まれて本気にしていたようですし)。それだけに、この上さらに待賢門院の幼い孫娘までも伊勢へ追いやるようなことは避けたかったのかも…なんて、さすがにちょっと穿ちすぎでしょうか?

 ともあれ、近衛天皇の崩御・後白河天皇の即位で正真正銘「天皇の娘」となった亮子・好子・式子の3人は、以後次々と斎宮・斎院に卜定されていきます。後白河院には皇后・中宮所生の皇女がなかったこともあり、丹後局が産んだ覲子内親王(宣陽門院)を除く皇女5人は全員が斎宮・斎院となりました。
 しかし次の世代では、二条天皇は皇女一人(32代斎院ゼン子。ゼンは人偏+善)を残して早世し、六条天皇はわずか5歳で譲位(!)、高倉天皇も8歳で即位したためになかなか皇女が生まれず、とうとう人員不足で一時は斎宮・斎院共に不在という事態に陥ってしまっています。それというのも、後白河院の皇子たちは二条天皇・高倉天皇の二人以外は殆ど出家させられてしまい、斎王となる娘を持たなかったのも一因でした。
 なお唯一出家を逃れた以仁王だけは、二人の娘がいたようです(うち一人は八条院養女)。しかし以仁王はご存知の通り、1180年に挙兵した結果謀反人として皇族の籍を剥奪された末に亡くなっています。いくら皇族の血を引くとはいえ、そんな謀反人の娘では斎王候補として認められなかったのでしょう(諸史料には「姫宮」とありますが、父が皇族の籍を剥奪された以上は娘も正式に「女王」として認知されていたとは考えにくいですし、後に八条院が養女への内親王宣下を希望した際にも却下されています)。

 ところで家系を辿っていて驚いたのですが、喜子内親王に邸宅を提供していた藤原隆季は、冷泉隆房の父親なのですね。隆房といえば、平家物語で有名な小督局との恋愛関係が真っ先に連想されますが、その小督局は34代斎院範子内親王の母となった女性です。もっとも1148年生まれの隆房には、1151年の喜子斎宮卜定の頃の記憶はなかったでしょうが、こんなところで繋がりがあるとは思いませんでした。
 またもう一つ、別件で『皇代暦(歴代皇紀)』という史料を調べていたら、堀河天皇の娘は「皇女一人 ソウ子 為斎院」となっていたのです。「一人」と明記しているからには書き忘れというわけでもなさそうですし、一方で近衛天皇の斎宮喜子の項目には、名前しか書かれていないのです。まったく本当に、喜子内親王は一体誰の娘だったんでしょう…?

 関連過去ログ:伊勢斎宮の謎

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帰ってきた江戸絵画 ファインバーグ・コレクション展

 2013/08/03(Sat)
 当ブログは御覧の通り至ってのんびり更新ですが、時々過去の記事に拍手をいただくことがあります。多分検索か何かで見つけてたまたま来て下さった方でしょうか、思いもよらないかなり前の記事にたまにいただくとちょっと驚きますが、何がしか感じるものがあっていただけたのかな、と思うと私も嬉しいです。拍手くださった皆様、ありがとうございました。

 さて、本日は遅まきながら江戸東京博物館にて開催されました「ファインバーグ・コレクション展 江戸絵画の奇跡」(2013/5/21-7/15)の感想です。もちろん、私の事ですからお目当ては例によって酒井抱一で、前期・後期の2回たっぷり堪能してきました。
 目下日本で特に有名なアメリカの日本美術コレクターは、現在東北でも大人気のプライス夫妻でしょうが、バークコレクションやギッターコレクション、ファインバーグコレクションも知る人ぞ知るで、私も抱一さん絡みで早くから気にかけていました。それが2006年にバーク・プライスと連続で里帰り展があり、ギッターコレクションも運よく台風被害を免れて2010年に来日し、残るはファインバーグコレクションだけだったので、それがやっと実現したのは本当に嬉しかったです。ただ抱一さんに関して言えば、2008年の大琳派展で一足先に「十二ヶ月花鳥図」が里帰りを果たしていましたが、今回改めて「ファインバーグコレクション」の中のひとつとして見ることができて、また違った感慨がありました。

 ところでこの美術展、抱一作品の美しさに見とれたのはもちろんなのですが、おかしかったことが二つあります。まずひとつは、谷文晁作の掛け軸作品「秋夜名月図」でした。
 題の通り満月に薄のシルエットを描いたシンプルな墨絵で、それだけなら地味ながら落ち着いた雰囲気のいい絵だったのですが、画面右側にどーんと捺された落款に仰天。計ってみたわけではありませんが、これが一辺が30センチ近くはあろうかという実に巨大な落款だったのです。
 なまじ本体が墨絵だけに朱の落款が一層強烈で、その存在感に一瞬呆然としましたが、よく見ると「文晁図画」(多分)と読み取れて、思わず吹き出してしまいました。日本画は今までかなりたくさん見てきたつもりですが、あそこまで巨大な落款を見たのは初めてです。普通落款なんて絵の隅っこにつつましく捺すものだと思っていたのですが、文晁さんは一体何を考えてあんな巨大な落款にしたんでしょう…(そして先日、サントリーの「谷文晁展」でも再び巨大な落款に遭遇して笑いましたが、その話はまた後日)

 そしてもうひとつ、今回は琳派コーナーから始まり浮世絵で締めくくりでした。この点もちょっと変わった構成だなと思いましたが、最後の浮世絵コーナーはそれほど興味がないのでさらっと流しながら見ていたら、何とその中に突然抱一の「遊女立姿図」が! うっかり通り過ぎかけて「ええ!?」と驚き慌てて立ち止まりましたが、歌川派の肉筆浮世絵と一緒に並べられた抱一さんの遊女は周りと比べてもまったく違和感がなく、これは正直ちょっとやられたなあと思いました。黒を基調にした着物にちらりと覗く赤をアクセントに効かせた華やかな遊女絵で、若い頃は他にももっと色々あんな絵を描いていたのでしょうね。

 ところで冒頭の琳派コーナーにあった「十二ヶ月花鳥図」ですが、今回改めて見てやっぱり、どうも一部は抱一さんぽくないような…と感じました。
 一見した印象はいかにも抱一らしいのですが、桜の幹の構図がちょっと変わっていたり、朝顔の白い部分の描き方がリアルだったり、他ではあまり見ない糸瓜があったりと、ところどころに微妙な違和感があるのです。特に十月の栴檀の実をくわえたカケス、珍しくてとても可愛いのですが、あのセンスは其一っぽさを感じるのは私だけでしょうか?(ちょっと細見美術館の「朴に尾長鳥図」を思い出させるのです)

 ともあれ、ファインバーグコレクション展は現在MIHO MUSEUMで開催中、その後10月に鳥取県立美術館へも巡回します。関西の皆様も、この機会にぜひ見に行ってみてください。

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