天平の瑠璃色 第64回正倉院展を前に

 2012/09/29(Sat)
 早いもので、今年の第64回正倉院展奈良国立博物館、2012/10/27-11/12)まで後一ヶ月となりました。
 今年の内容は聖武天皇ゆかりの北倉の宝物が多数出陳されるとのことですが、何と言っても今回最大の目玉はもちろん、18年ぶりの出陳となる「瑠璃坏(るりのつき)」、別名紺瑠璃杯です。恐らく日本人なら誰でも知っているに違いない、歴史の教科書でもおなじみの正倉院を代表する一品ですね。

 何度かここでも話題にしましたとおり、正倉院の宝物の中で私が一番好きで一度は見たいと思ってきた憧れの品が、この瑠璃杯なのです。しかし前回平成6年の出陳の時は情報自体を知らなかったため、その3年後に初めて正倉院展を見に行った時からいつ出るか、いつ出るかと毎年待ち焦がれてきたのでした。一昨年には念願のもうひとつ「螺鈿紫檀五絃琵琶」を一足先に見ることができましたが、この瑠璃坏は15年間まったく音沙汰なしで、生きている内に出会えるのだろうかと何度もひやひやさせられましたよ。(笑)

 ともあれ、首都圏でもそろそろ情報が出始めているようで、先日東京の地下鉄丸の内駅の構内でどーんと大きな掲示されているのを見つけてまた嬉しくなりました。毎回この時期は奈良のホテルを押さえるのが大変ですが、最初のニュースを見た日にすぐさま予約を入れたので、一ヶ月後が楽しみです。

 ところでこの瑠璃杯、レプリカがあったらぜひ欲しいなと前から思っていたのですが、今回たまたま検索で東京ヴァリエ社さんがまさにこの瑠璃杯の複製を製造しているのを知りました。残念ながら現在のところ在庫なしのようですが、今回この正倉院展で久々にお目見えするのですから、多分奈良博のグッズショップにも出ているかも、とちょっと期待しています。
 ただひとつ気になるのですが、他にも正倉院伝来のガラスの器の複製が色々揃っている中で、この瑠璃杯だけが「販売価格はお問い合わせください」となっているのですよね。ガラス研究者として著名な由水常雄先生も以前、やはりこの瑠璃杯等の複製を作成した際に「白瑠璃碗の複製は簡単だったけれども、瑠璃杯は難しかった」と著作で触れていましたが、白瑠璃碗が84,000円ならこの瑠璃杯は一体おいくらなのでしょう…

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賀茂祭の謎・六 源氏物語の中の斎院

 2012/09/22(Sat)
 以前「賀茂祭の謎・参 紫式部の見た御禊」にて、紫式部は「初斎院御禊」を見たことがあったか、という問題提起をしました。その後も気になって『源氏物語』の中の斎院に関する研究書や論文を色々読んでみたのですが、あまり手応えがないなあと思っていた矢先、まさにどんぴしゃりの考察に遭遇して飛び上がりました。

 つい最近出たらしい『国語国文』(81巻8号)掲載の「『源氏物語の死角――賀茂斎院考』」(今井上著)という論文なのですが、冒頭から例の「葵」帖の斎院御禊についての考察で始まったのにまずびっくり。もっとも論点は残念ながら例の車争いではないのですが、この御禊が従来「初斎院御禊(論文では「二度の御禊」としています)」とされてきたのは正しいのか、というところから展開されていって、いや実にスリリングな面白い内容でした。『源氏物語』の年立てについては、千尋もあまり詳しくないので今まで深く追求したことはなかったのですが、あの御禊が斎院の卜定から何年目かというのは『源氏』の世界では大変に重要な要素だったのですね。

 ちなみに現行の多くの注釈書では、斎院の卜定は「花宴」の翌年になされたものと考え、さらにその次の年が「葵」での御禊としているそうです。今井氏も恐らくそれが妥当であろうとしつつも、卜定の翌年に御禊があるのはおかしいのではないかと疑問を呈し、14代斎院婉子内親王の実例を紹介しています。確かに、婉子の卜定は承平元年(931)12月25日で、初斎院入りが承平2年(932)3月16日、そして野宮(紫野本院)入りが承平3年(933)4月12日ですから、卜定の翌々年なのですよね。
 ただし、仮に斎院の卜定を「花宴」と同年にあったものと考えれば、初斎院が翌年、そして本院入りが「葵」の年とするのに矛盾はありません。
 今井氏も紹介しているように、婉子の異母姉である12代宣子内親王も延喜15年(915)7月19日卜定、延喜17年(917)4月16日本院入りしており、また同じく11代恭子内親王も延喜3年(903)2月19日に卜定、延喜5年(905)4月18日に本院入りと、やはり卜定から丸2年前後で本院入り(=「初斎院御禊」)をしています。さらに下って15代尊子内親王、16代選子内親王もやはり卜定から約2年で紫野本院入りしているので、10世紀を通じて卜定から本院入りの期間は皆2年前後だったということですね。

 ただここで今井氏は桐壺帝譲位後の斎宮・斎院の卜定を同時期であると見なし、だとすれば「葵」の前年にあるはずだったという斎宮の宮中入りがあまりにも遅すぎるということで、桐壺帝譲位ならびに斎宮・斎院の卜定を「花宴」と「葵」の間の一年のどこかとしています。しかしそうなると、今度は斎院卜定から初斎院を経て本院入りまで長くても1年3ヶ月しかないことになり、今度はこちらが短すぎるのを疑問とされていました。

 もっともこれについては、私は斎宮・斎院の卜定は別に同時でなくてもいいと思うのです。

 というのも、そもそも天皇一代限りが原則であった斎宮とは異なり、天皇の譲位で斎院が交替した例はとても少ないのです。斎院サイトの年表にも載せていますが、少なくとも9世紀半ばから10世紀末にかけての(恐らく『源氏物語』の参考ともなったであろう)歴代斎院の中で、天皇譲位で退下した斎院は一人もいません。
 これが天皇「崩御」であれば斎院も当然退下となるのですが、何度も述べたように桐壺帝は「葵」の少し前に譲位したのちも健在で、亡くなるのは「葵」翌年の「賢木」でのことです。しかも『源氏』の原文を注意して見ると「そのころ、斎院も下りゐたまひて」とあるだけで、斎院退下の理由が桐壺帝の譲位によるものであるとは書いていないのです。
 それを言うなら、斎宮の方も「まことや、かの六条御息所の御腹の前坊の姫君、斎宮にゐたまひにしかば」としか書いていないだろうと言われそうですが、天皇が代替わりすれば斎宮も交代するのは当たり前の大原則でした。一方、『源氏物語』の時代に現実に存在した斎院は、くどいようですがあの選子内親王です。彼女は当時でさえ既に天皇三代に渡り在任中でしたから、それに慣れた人々にとっては譲位=斎院交替という発想にならない方が当然だったでしょう。(なお「賢木」では当然「斎院は、御服にて下りゐたまひにしかば」と、父院崩御による退下であることを明記しており、次の朝顔斎院も朱雀帝の譲位では退下しませんでした)

 となると、前斎院が何らかの(老齢や疾病等)理由で退下したのがたまたま「世の中かはりて(桐壺帝が朱雀帝に譲位して)後」と同じ頃(正確には少し前)だった、という可能性も考えられるのではないでしょうか。それであれば、まず「花宴」と同年に斎院の退下と新斎院(桐壺帝女三宮)の卜定があり、その翌年に桐壺帝が譲位して新斎宮(六条御息所の娘)が卜定されたと考えてもおかしくはないはずです。

 また今井氏は、13代韶子内親王と14代婉子内親王、そして14代婉子内親王と15代尊子内親王の交替の間の期間が1年以上の長期であることにも着目しています。というのも、こうした実例から新斎院の卜定がすぐに決まらないこともあり、となるとやはり「花宴」~「葵」の間に前斎院退下、新斎院卜定→初斎院→本院入りを済ませるのは無理ではないか、という問題提起に繋がるわけです。
 しかしこの2例のブランクが長かったのはむしろ当然のことで、13代韶子の退下は醍醐天皇の崩御、また14代婉子の退下も恐らくは村上天皇の崩御によるものでした。歴史上で今上天皇か父上皇崩御による斎院退下の後、1年以内に卜定された斎院は4代慧子内親王と18代娟子内親王の2人だけです。逆に8代穆子内親王、9代直子女王、14代婉子内親王、15代尊子内親王、19代禖子内親王、23代斉子女王、 26代官子内親王の7人は皆先帝・上皇の崩御後1年以上経ってからの卜定でした。(もちろん同時期に交替した斎宮も同様です)

 なおここで重要なのは、(実は私も今回調べ直して気がついたのですが)この7例がすべて、新帝にとっても父の死即ち「諒闇」(天皇が父母の喪に服すること)だったことです。今井氏が例として挙げた14代婉子の場合も、崩御した先帝は新帝・朱雀天皇のみならず彼女自身の父帝でもあったのですから、諒闇でなくても娘として父の喪が明けるまでは卜定されるわけにはいかなかったのは当然でしょう。(ちなみに18代娟子の場合、崩御した先帝は新帝・後朱雀天皇(娟子の父)の兄にあたる後一条だったので、諒闇でなかったことが1年経たずに卜定された原因でしょうか?)
 というわけで、桐壺帝女三宮の斎院卜定はそもそも天皇・上皇崩御による交替ではないのは明らかです。(ただし桐壺帝の在位中に、その父と思われる上皇(「紅葉賀」の朱雀院)が崩御した可能性もありますが、この人物は「紅葉賀」でしか登場せず、また史実の醍醐天皇は父宇多天皇より先に亡くなっているのでひとまずなしとします) よって、前斎院が桐壺帝の譲位より以前に何らかの個人的理由で退下したものとすれば、その後年内に新斎院(桐壺帝女三宮)の卜定に至ったと考えられます。

 略年表
  源氏20歳(「花宴」) 4月以降(?)、桐壺帝斎院退下。新斎院(桐壺帝女三宮)卜定
  源氏21歳       新斎院の初斎院入り。桐壺帝譲位、新斎宮(六条御息所の娘)卜定。
  源氏22歳(「葵」)  4月、新斎院の本院入り。秋、新斎宮の初斎院入り。9月、新斎宮の野宮入り
  源氏23歳(「賢木」) 9月、新斎宮の伊勢下向

 なお今井氏も触れていることですが、新斎宮(後の秋好中宮)の卜定から伊勢下向に至る一連の過程は、史実の斎宮規子内親王の例をほぼ忠実になぞったものと言われています。厳密に言えば、規子内親王の場合の初斎院入りは2月のことでしたが、本来975年中に行う予定だったのが穢れやら何やらの連続のために遅れて年を越してしまったという事情があったのは本当でした。ですから「賢木」の「去年内裏に入りたまふべかりしを、さまざま障はることありて」というくだりは、この新斎宮の場合もそうした事情で遅れていたのだとほのめかしたのでしょう。

 規子斎宮略年表
  天延3年(975)2月27日  規子内親王、斎宮卜定
  貞元元年(976)2月26日 規子斎宮、宮中初斎院(侍従厨)入り
       同年9月21日 規子斎宮、野宮入り
  貞元2年(977)9月16日  規子斎宮、伊勢下向。母徽子女王も同行


 少々重箱の隅をつつくような話が続きましたが、とはいえ全体には今井氏の考察はとても興味深いものでした。朝顔斎院が卜定の半年後に既に紫野にいるとした描写(「賢木」)等の矛盾についても、これは作者紫式部自身が賀茂斎院の制度について正確に知らなかったからではないか、という指摘は、まさしく私もついこの前に触れたばかりの点だったので、何というタイミングかと驚きつつ大変嬉しかったです。ちょっと引用させていただきますと、今井氏は「選子があまりにも長期にわたって斎院としてあり続けたことが、逆に、この時代の人々を実際の斎院制度、ことに本院渡御以前のあり方について疎くし、ひいては『源氏物語』における斎院の描かれ方にも、ひとつの限界をもたらす結果になったとは考えられないか」と述べておられて、このくだりなどはまさしく我が意を得たりという感じで感激しましたね。

 なおこれまた少々重箱の隅ですが、紫式部がその生涯で見たかもしれない斎宮卜定に天延3年(975)2月27日の規子内親王を加えるとするなら、同年6月25日の選子内親王の斎院卜定もかろうじて引っかかるのですよね。もっとも当時式部は生まれていたとしても恐らく物ごころつくかつかないかだったでしょうから、彼女が斎院卜定から本院入りまでの過程を自分の目で見たことがなく、もちろん同世代やそれより若い多くの宮廷人たちも同様だったというのはやはり変わりないわけです。今井氏はこれを「一条朝の文学の限界」と呼んでおられましたが、そう思って『源氏』や『枕草子』を読み返すと、また色々見えてくるものがありそうですね。

 ともあれ、先月しばらく調査に熱中した後で一息ついていたところに、またしても意欲を掻き立てられるような素晴らしい論文に遭遇してちょっと興奮してしまいました。(笑) 今井氏のご指摘にもありましたが、この分野はまだまだ未開拓だけに研究のし甲斐もたくさんありそうなのが嬉しいところで、これからもじっくりと長いお付き合いをしていきたいです。


 関連過去ログ
 ・賀茂祭の謎
 ・賀茂祭の謎・弐 行きか帰りか
 ・賀茂祭の謎・参 紫式部の見た御禊
 ・賀茂祭の謎・四 源氏物語から百年後
 ・賀茂祭の謎・伍 源平合戦前夜の御禊

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醍醐天皇の子どもたち

 2012/09/06(Thu)
 最近賀茂斎院データを見直していて、14代婉子内親王のきょうだいのところで気になることがありました。

『平安時代史事典』等によれば、婉子内親王は醍醐天皇の皇女で、母は更衣藤原鮮子です。また同母のきょうだいには、代明親王(904-937)、12代恭子内親王(902-915)、敏子内親王(生没年不明)、の3人がいます。
 ところで、婉子内親王の生没年は904-969ということになっています。没年月日は記録が残っているので間違いありませんが、生年の904年は同母兄弟である代明親王と同じなのです。
 え、この二人って双子?と始め驚きましたが、二人の親王宣下や元服・裳着の日付を辿っていくと、何だかおかしい。さらに史料によって、婉子内親王を第三皇女としていたりかと思えば第七皇女だったりと、統一性がないのです。これはやっぱり変だというわけで、醍醐天皇の子女について『日本紀略』(以下『紀略』)や『一代要記』(以下『要記』)の記録を洗い出してみました。

【醍醐天皇皇子女の生没年と生母】
(※(源)とあるのは、降下の後に皇族復帰した源氏を表す)
 克明(903-927/9/24)、母源封子
 保明(903/11/30-923/3/21)、母皇后藤原穏子
 代明(904-937/3/29)、母更衣藤原鮮子
 重明(906-954/9/14)、母更衣源昇女
 常明(906-944/11/9)、母女御源和子
 式明(907-967/1/30)、母女御源和子
 有明(910-961/閏3/27)、母女御源和子
 時明(912-927/9/20)、母更衣源周子
 長明(912-953/閏1/17)、母更衣藤原淑姫
 寛明[朱雀](923/7/24-952/8/15)、母皇后藤原穏子
 章明(924-990/9/22)、母更衣藤原桑子
 成明[村上](926/6/2-967/5/25)、母皇后藤原穏子
 源高明(914-982/閏12/16)、母更衣源周子
 (源)兼明(914-987/9/26)、母更衣藤原淑姫
 源自明(917-958/4/17)、母更衣藤原淑姫
 源允明(918-942/7/5)、母源敏相女
 源為明(?-961/6/21)、母更衣藤原伊衡女
 (源)盛明(928?-986/5/8)、母更衣源周子

 勧子(899-?)、母妃為子内親王
 宣子(902-920/閏6/9)、母源封子
 恭子(902-915/11/8)、母更衣藤原鮮子
 慶子(903?-923/2/10)、母女御源和子
 勤子(904?-938/11/5)、母更衣源周子
 婉子(904-969/9/11)、母更衣藤原鮮子
 都子(905-981/10/21)、母更衣源周子
 修子(?-933/2/5)、母更衣満子女王
 敏子(906?-?)、母更衣藤原鮮子
 雅子(910-954/8/29)、母更衣源周子
 普子(910-947/7/11)、母更衣満子女王
 (源)靖子(915-950/10/13)、母源封子
 韶子(918-980/1/18)、母女御源和子
 康子(919?-957/6/6)、母皇后藤原穏子
 斉子(921-936/5/11)、母女御源和子
 英子(921-946/9/16)、母更衣藤原淑姫
 源兼子(915-972/9)、母更衣源周子
 源厳子(916-?)、母不明

 以上、男子18人・女子18人の合計36人でした。(この他、系図では養子にした宇多天皇の皇子2人も含まれますが割愛)

 このうち女子に関しては、末子と思われる英子内親王が第16皇女(『紀略』)・享年21(『要記』)とあり、どうやら「内親王」は16人で間違いないようです。また第1皇女から第3皇女までは、史料により多少違いはあるものの、勧子、宣子、恭子(または宣子と恭子が逆)の3人で確定としてよさそうです。
 問題は第4皇女から第7皇女までで、『紀略』は何故か勤子を第2皇女、慶子を第3皇女としていますが、その前に宣子を第2皇女、恭子を第3皇女と明記しているので、これは明らかに誤りです。加えて慶子内親王は生年の手がかりがまったくないのですが、『紀略』で904年に内親王宣下されていることは判っているので、『要記』に908年宣下とある勤子内親王より恐らく年上であろうと思われます。(もっとも『倭名類聚抄』他当時の歌集などには、勤子を「女四宮」とする記録が多く見られるので、慶子と勤子を取り違えている可能性もあります)

 さて続く2人は、『紀略』では都子内親王を第6皇女、婉子内親王を第7皇女としています。しかし『要記』では婉子を第3皇女とし、共に908年に内親王宣下を受けたものとして、婉子は5才、都子は4才となっているのです。
 婉子が第3皇女というのは上の2人と同じくなしとしても、宣下の年齢は一体どちらが正しいのか頭を抱えてしまいますが、ここで最初の問題、婉子は本当に904年生まれなのかという話に戻ります。
 同母の代明は『醍醐天皇御記』に919年16才で元服したことが記録されているので、904年生まれということにほぼ間違いありません。また他のきょうだいで905年以降の生まれとみられる皇子女はおおむね908年以降に親王宣下を受けており、仮に代明と婉子が双子だったとすれば、婉子が宣下された908年に代明も共に宣下されていないのはむしろ不自然ではないでしょうか。こうした状況から、(記録はありませんが)恐らく代明の親王宣下は905~906年のうちに行われたものと思われます。

【親王宣下の年と年齢一覧】
 克明(903生) 904/11/17宣下(2才)
 保明(903/11/30生) 904/2/10宣下(2才)
 代明(904生) 宣下不明
 重明(906生) 908/5/7宣下(3才)
 常明(906生) 908/4/5宣下(3才)
 式明(907生) 911/11/28宣下(4才)
 有明(910生) 911/11/28宣下(2才)
 時明(912生) 914/11/25宣下(3才)
 長明(912生) 914/11/25宣下(3才)
 寛明[朱雀](923/7/24生) 923/11/17宣下(1才)
 章明(924生) 930/9/29宣下(7才)
 成明[村上](926/6/2生) 926/11/28宣下(1才)

 勧子(899生) 900/12/14宣下(2才)
 宣子(902生) 903/2/17宣下(2才)
 恭子(902生) 903/2/17宣下(2才)
 慶子(903?生 )904/11/17宣下(2才?)
 勤子(904?生) 908/4/5宣下(5才?)<要記:2才>
 都子(905生) 908/4/5宣下(4才)
 婉子(?)
 修子(生年不明)
 敏子(生年不明) 911/11/28宣下<要記:6才>
 雅子(910生) 911/11/28宣下(2才)<要記:3才>
 普子(910生) 911/11/28宣下(2才)
 靖子(915生) 930/9/29宣下(16才)
 韶子(918生) 920/12/17宣下(3才)
 康子(919?生) 920/12/17宣下(2才?)
 斉子(921生) 923/11/18宣下(3才)
 英子(921生) 930/9/29宣下(10才)

 では、仮に婉子内親王の908年宣下が正しかったとして、当時婉子は一体何才だったのでしょうか。
 これについては、『紀略』が第6皇女とする都子内親王(981/10/21没)が享年77とあり、逆算して905年生まれであることが判ります。一方婉子はすぐ下の第7皇女ですから、908年の宣下で最低でも2才以上と考えると少なくとも905年以降でしょう。さらに907年生まれの式明親王が911年に親王宣下を受けているので、婉子は905~906年生まれにほぼ絞り込めるものと考えます。(式明は同母弟有明と共に宣下を受けていますが、910年生まれの有明を母源和子が身篭ったのはどう遡っても909年以降なので、式明は婉子より年下だったと見るのが妥当でしょう)


 なお皇子女の一覧表を見ていて面白いと思ったのが、特に醍醐天皇の寵愛篤かったと思われる妃3人が、ほぼ交代で毎年のように出産していたことでした。女御源和子が5人、更衣藤原鮮子が4人、更衣源周子が5人の子を産んでいて、表に直すとこんな感じです。

【妃たちの出産年】
 902  藤原鮮子 恭子内親王
 903  源和子  慶子内親王
 904  藤原鮮子 代明親王
    源周子  勤子内親王
 905  源周子  都子内親王
 906  源和子  常明親王
 906? 藤原鮮子 婉子内親王
 907  源和子  式明親王
 908? 藤原鮮子 敏子内親王
 910  源和子  有明親王
 910  源周子  雅子内親王
 912  源周子  時明親王
 914  源周子  源高明
 918  源和子  韶子内親王
 921  源和子  斉子内親王

 ちなみにこの間、皇后藤原穏子は903年に皇太子保明親王(当時穏子はまだ女御)が生まれた後、第2子となった康子内親王の誕生は実に16年後の919年です。その後保明が早世したこともあり、923年に朱雀天皇、926年に村上天皇が生まれていますが、こうしてみるとかなりあからさまというか、確かに源氏物語の桐壺帝とちょっと似ているかもしれませんね、醍醐天皇…


 というわけで、最終的に皇子女たちの生まれた順序と生年は、大体以下のとおりではないかという結論に達しました。

【醍醐天皇皇子・皇女の出生順と生年】
 1.克明 903生
 2.保明 903/11/30生
 3.代明 904生
 4.重明 906生(908宣下)
 5.常明 906生(908宣下)
 6.式明 907生(911宣下、有明は同母)
 7.有明 910生(911宣下)
 8.時明 912生(914宣下)
 9.長明 912生(914宣下)
  源高明 914生(920降下)
 10.(源)兼明 914生(920降下,977宣下)
   源自明 917生(920降下)
   源允明 918生(920降下,934元服)
   源為明 919-921?生(923降下,941元服)
 11.(源)盛明 919-922?生(923降下,942元服,967宣下)
 12.寛明[朱雀] 923/7/24生(923宣下)
 13.章明 924生(930宣下)
 14.成明[村上] 926/6/2生(926宣下)

 1.勧子 899生(900宣下)
 2.宣子 902生(903宣下)
 3.恭子 902生(903宣下)
 4.慶子 903?生(904宣下)
 5.勤子 904?生(908宣下、都子は同母)
 6.都子 905生(908宣下)
 7.婉子 905-906?生(908宣下)
 8.修子 907-908?(同母の普子が910生,911宣下)
 9.敏子 907-910?生(911宣下)
 10.雅子 910生(911宣下)
 11.普子 910生(911宣下)
 12.(源)靖子 915生(920降下?,930宣下)
 13.韶子 918生(920宣下)
 14.康子 919?生(920宣下)
 15.斉子 921生(923宣下)
 16.英子 921生(930宣下)

 内親王16人はそれほど混乱がなかったのですが、皇子たちのうち源氏に降下した末の2人と、朱雀天皇以下3人の親王の順序はかなり困りました。というのも、『紀略』では朱雀天皇を第11皇子、村上天皇を第14皇子としており、一方で盛明を醍醐第十五之子としているのです。
 盛明は923年に源氏に降下していたらしいので(『西宮記』では具体的な人名は書かれていないものの、年代から見て盛明と為明以外該当者なし)、少なくとも923年生まれの朱雀天皇よりは年上のはずです。なのに第15子とはこれいかに、と頭を抱えましたが、しばらく頭をひねった末、これはもしかすると源氏・親王を問わず純粋に生まれた順序を言っているのでは、と思いつきました。果たして並べ直してみると、盛明が第15子、朱雀天皇が第16子、村上天皇が第18子で、さらに親王だけなら盛明は第11親王、朱雀天皇は第12親王(『要記』も第12皇子とする)、村上天皇は第14親王となり、完全ではないもののほぼ一致します。(『紀略』はずっと後に編纂された史料なので、源氏に降下した後復帰した2人も年齢順にカウントしたようです)
 ただ『紀略』には盛明の享年が59とあり、これだと928年生まれになってしまうのですが、『紀略』も『要記』より古いとは言えちらほら誤りがあるそうなので、多分これは不正確なのだろうということにしました。もちろんこの二つの史料だけではここまで絞りきれず、大日本史料を片っ端からひっくり返して判る限りの史料を漁りましたが、醍醐天皇の子どもの年齢順がこんなに不明点が多いとは意外でした…

 ところでそういえば、醍醐天皇は歴代の天皇の中では割と名前を知られている方だと思うのですが(もっとも一般的にはまず「道真を左遷した人」というあまり芳しくないイメージでしょうけれど)、それにしては伝記等が殆ど出ていないということにもちょっと驚きました。もしかすると研究書には専門の論文等を収録したものがあるのかもしれませんが、そのうち吉川弘文館で出してくれないかなとちょっと期待しています。

追記:なお天皇の子女に関する資料で一番手っ取り早いのは恐らく『天皇皇族実録』で、醍醐天皇も2007年に発行済なのですが、あいにく我が家の近所にはこれを所蔵している図書館がないのでした。(何しろ大変お高い本なのです) 東京の大学図書館でも学外者が閲覧できるところはあまりなさそうなので、大変残念です…


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