賀茂祭の謎・伍 源平合戦前夜の御禊

 2012/08/25(Sat)
 以前「賀茂祭の謎・弐 行きか帰りか」にて、『斎王の歴史と文学』(所京子、国書刊行会)に紹介されている「斎王御禊路図」についてちょっと触れましたが、その後改めて目次を確認したところ、思わぬ事実が判明しました。何と、この図は元々別な本から引用されたものだったのです。しかも問題の本『斎王の道』(村井康彦編集、向陽書房、1999)は私も持っているのですが、何しろ内容が殆ど伊勢斎宮に関するものなので、まさかこれが出典だとは思いませんでしたよ…(元々始めに伊勢斎宮について興味を持った頃に購入した本だったので、すっかり忘れていました。苦笑)

 というわけで、「斎王御禊路図」はその『斎王の道』で唯一賀茂斎院について触れた「賀茂祭と斎院」という論文にあったもので、しかも著者は何と朧谷寿先生です。うわー、こんな重要なものを見落としていたなんてと頭を抱えつつ、早速喜んで目を通したのですが、そこでまたまたあれれ??となりました。
「賀茂祭と斎院」によれば、「斎王御禊路図」の元になったのは『左経記』寛仁元年9月21日条の記録だそうです。以下、原文と図解をご覧ください。


斎王禊東河、<二條末、>入野宮、其道、従待賢門出給天、東仁行給天、自東乃洞院大路南仁行給天、自二條大路東仁行給天、御河原祓所、事■[畢?]二條西仁行給天、従東乃洞院大路北仁行給天、従一條大路西仁行給天、御坐野宮(後略)


寛仁元年御禊順路
(※往路が黄緑、復路が黄色で、往路と復路が同一である部分が水色です)


 なるほど、確かに道順はあっているのですが、ここでひとつ大問題勃発。
 この時の斎王は、何と賀茂斎院ではなく「伊勢斎宮」(!)せん子女王(「せん」の字は http://jigen.net/kanji/23269 参照)だったのです。

 えええ、それってそもそも「賀茂斎院」御禊と全然関係ないじゃない!とびっくり、再度論文をじっくり読み直してみましたが、何故よりによって賀茂斎院についての論文の中で伊勢斎宮の野宮入りの御禊路図が載せられたのか、結局判りませんでした。ちなみに御禊路図の前後の文章では、31代斎院式子内親王、34代斎院範子内親王、28代斎院統子内親王(上西門院)の御禊について述べられており、当然どれも斎宮せん子女王の御禊とはまったく関係ありません。しかも式子内親王と統子内親王は、初斎院から紫野本院へ入る「初斎院御禊」の数少ない貴重な記録が残っているのに、何故伊勢斎宮の御禊路図だったんでしょう…

 ともあれ、おかげでこの前の24代令子内親王の後にも、初斎院御禊の道順についての記録があったことが判りました。というわけで、まずは28代統子内親王の初斎院御禊から。

(『中右記』大治4年4月19日条)
今日斎院初入紫野本院給御禊也、<斎王名恂子、新院[鳥羽院]第二女、今上[崇徳天皇]同母弟也、>(中略)
予左少辨相具、於陽明門外乗車、向列見辻、(中略)立一條北堀河西邊、斎王御輿已出給列見大宮辻、前駈人々皆騎馬参集、美作守顕広一人未参(中略)
申時以前事了、世経一條北小路、馳参河原(後略)

『中右記』の著者藤原宗忠(当時権大納言)はこの時上卿、つまり御禊の儀式を取りしきる最高責任者だったので、描写も詳しい貴重な記録です。ただ参列者の説明が多すぎて、逆に御禊路そのものはちょっと判りにくい記録でした。
 朧谷先生の解説によれば、斎院統子内親王(当時の名は恂子。後に改名)の輿は初斎院である一本御書所(内裏の東隣)を出た後、恐らく宗忠と同様に最も近い陽明門を出て大宮大路を北上し、一条大宮の辻まで出たところでいったん止まり、そこで参列者が揃うまで待機していたようです。また見物側の白河院(斎院統子の曾祖父)ならびに鳥羽院・待賢門院(統子の父母)は一条東洞院で行列を待っていたそうなので、これは明らかに往路での見物であり、また少なくとも大宮大路から東洞院大路までは一条大路を東へ進んで鴨川へ向かったのでしょう。(なお「院」から「もう随分待っているのに行列はまだか、早くしろ」と催促があったそうですが、これは多分白河院でしょうね)
 ともあれ行列が鴨川に到着後、宗忠は「一條北小路」(現在の今出川通り辺り?)を経由して河原へ到着したとあり、どうやらこの時の祓所は一条大路よりも北だったようです。何と言っても一條大路は見物客や車でぎっしりだったでしょうから、先を急ぐ宗忠は裏道を抜けて祓所に向かったのでしょうね。(ちなみに帰りの本院へ向かう道順の記録はありませんでした。残念)

 ところで現在放送中の大河ドラマ「平清盛」には、ごく稀にですがこの統子内親王(のちの上西門院)が登場しており、斎院追っかけとしては嬉しいところです。もっとも色々お騒がせだった母君とは違い、かなり影が薄い存在でしかも既に斎院退下後なのが残念ですが、上西門院は平氏と源氏双方と少なからず関連のあった影の重要人物でもあるのですよね。


 さて続いてもうひとつ、今度は恐らく歴代斎院35人でも最も有名な人物でもある、31代斎院式子内親王の初斎院御禊を見てみます。

(『山槐記』永暦2年4月16日条)
今日初斎院<院第三女、母儀三品季子、高倉局是也、>禊東河入御紫野院<所謂一條以北本院也、>日也(中略)
申刻為見物密々立車於西洞院一條邊相待之處(中略)
其路出大膳職北門、待賢門、宮城東大路北行、一條東行也、月出事了帰畢(後略)

 筆者藤原忠親(蔵人頭)はこの前、内裏で「五体不具」つまり死体の一部(!)が見つかった穢れに触れたとのことで、行列には参加しませんでした。二条天皇からは勅命があったそうですがこれも辞退し、けれどもこっそりと(笑)見物には行ったそうです。
 さて問題の行列は、内裏の待賢門から大宮大路を北上し、一条大路を東に向かうという至って単純なルートだったようです。式子内親王の初斎院についての確実な記録は知る限り見当たらないのですが、この記述からしてどうやら大膳職であったと見てよさそうです。忠親は申刻から一条大路で待っていて、日没後にようやく帰りの行列がやってきたということですが、祭りの見物客たちは復路でも随分辛抱強く待っていたのですね。折しもこの日は十六日、東の空には美しい十六夜の月が見えたことでしょう。


式子内親王初斎院御禊順路
(※濃い水色の部分は、忠親が見物していたと思われる辺りです)


 ところで今回の調査の中で、34代斎院範子内親王の御禊の記録(治承4年4月12日)を確認したところ、『玉葉』と『明月記』に「初斎院御禊」という表記があってちょっと驚きました。ただでさえ斎王一代に一度きり、しかも賀茂斎院は天皇が代替わりしても交代しないことが多いために斎宮以上に回数が少ないため、『延喜式』に則ったこの表記を見たのは多分初めてです。(何しろ『日本紀略』にも載っていないので)さらにその後、上記の『山槐記』に式子内親王の例でも4月10日条にやはり「初斎院御禊」と記述があることにも気がつき、やっぱりこれが正式名称だったらしいと判ったのは大収穫でした。

 それにしても、歌人として名高いとはいえ歴史上は影の薄い存在である式子内親王が、初斎院御禊についてこれほどはっきりとした足跡を残していたというのは嬉しい誤算でした。しかも今回年表を見直してまた驚いたのですが、式子が斎院に卜定されたのは平治の乱のわずか一月半前のことだったのですね。父後白河院までもが軟禁されるという非常時、既に潔斎に入っていたと思われる式子の消息は判りませんが、初斎院御禊の華やかな記録から見ても、この頃は身辺も落ち着いていたでしょう。残念ながら斎院在任中と思われる詠歌は殆ど知られていないようですが、退下後に読まれた往時を懐かしむ歌の数々から、戦乱間近い世の片隅でひっそりと静かに生きていたであろう皇女の姿が偲ばれます。


   いつきの昔を思ひ出でて
  ほととぎすその神山の旅枕ほの語らひし空ぞ忘れぬ(新古今集)


 ところで式子内親王の歌集の中に「なほさらばみたらし川に禊せむ」という上の句の歌がありますが、残念なことに下の句は欠落して伝わっていません。古今集や伊勢物語に載る「恋せじとみたらし川にせし禊神はうけずぞなりにけらしも」を本歌取りしたもののようですが、「恋などするまいと禊をしたのに」という本歌に対して「それでは御手洗川で禊をしよう」というやや強い口調にも取れる言葉の後、式子もやはり自分も恋などするまいと歌ったのでしょうか。伊勢斎宮とまで思いを交わしたと言われる業平の歌(?)に対し、自身斎院として幾度も御禊に臨んだ式子が何を思ったのか、今となっては知ることのできないのが惜しまれます。


 関連過去ログ
 ・賀茂祭の謎
 ・賀茂祭の謎・弐 行きか帰りか
 ・賀茂祭の謎・参 紫式部の見た御禊
 ・賀茂祭の謎・四 源氏物語から百年後


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賀茂祭の謎・四 源氏物語から百年後

 2012/08/11(Sat)
 前回の後、歴代斎院の初斎院御禊に関する史料を探していたのですが、24代令子内親王の初斎院御禊の時の記録が見つかりました。
史料は『御二條師通記』寛治5年(1091年)4月15日条で、内裏内の初斎院であった大膳職から出発、鴨川までの道中が以下のように記されています。


御禊日也、五行物忌也、予宿衣参大膳職。(中略)
乗女房了、未刻許寄御輿於南簾、此間無驚[駕?]丁者、于時斎院被揚御髪、有御裳御乗、御共候女房不向前令乗者(中略)
予、民部卿同車見物、大宮大路到列見、更打渡一條西洞院一條邊南方車立、辨外記史下車、渡御車前、殿下御箔被下云々(中略)
次第常如、前駈渡了、殿西洞院自南、到土御門更東折、到左府家給、外門左府下留、予留車、民部卿車下了、烏丸南行一町許、東折参河原、<一條也>


 ここで今一度お断りしておきますが、千尋は漢文日記の読み方についてきちんと勉強したことはまったくありません。特殊な用語さえなければ大体の意味は何となく判る(ような気がする)とは思っていますが、もし間違った解釈がありましたら申し訳ありません。
 それで上記の初斎院御禊の順路ですが、恐らく以下の図の通りに進んだものと思われます。(黄緑の線が御禊行列の進んだ順路を表しています) なお最後の<一條也>がちょっと判りにくかったのですが、『賀茂斎院と伊勢斎宮』(斎宮歴史博物館)の説明を見る限り、御禊の場所そのものは一条大路の先の鴨川沿いだったようです。(ということは川辺に出た後また北上した?)



初斎院御禊順路



 こうして見ると、初斎院を出発し(恐らく待賢門から)内裏を出た行列は大宮大路を北上して一条大路に出ていたようです。しかしそのまま東京極大路まで直進したわけではなく、西洞院大路を南下して土御門大路に到り、そこで東へ曲がった後さらに烏丸小路を一町ほど南下してまた東へ曲がるという具合に、ジグザグに南下と東進を繰り返しながら鴨川へ向かったようですね。
 ただ、これが御禊行列の順路そのままなのか、それとも日記の筆者である藤原師通(道長の曾孫、当時内大臣)が途中で行列から別れて進んだ道を書いたものかがちょっと判らなかったので、もしかすると御禊行列は違う道を行ったかもしれません。ともあれ、大宮大路から一条大路へ進んだところまでは確かなようで、一条大路にたくさんの見物の車が並んでいた様子が伺えます。

 なおこの時の斎院令子内親王の母は関白師実の養女、即ち師通には義理の姉にあたる白河中宮藤原賢子でした。また文中に登場する「左府(左大臣)」は、師通の伯父にあたる源俊房(18代斎院娟子内親王の夫)です。俊房は師通の母麗子と中宮賢子の実父顕房の兄であり、つまり彼にとっても斎院令子は実の姪でした。
 余談ながら文中の「左府家」つまり俊房の邸(土御門第)は、地図中の濃い青で表した部分(左京一条三坊十六町)であったようです。(これについては、土岐陽美氏が「源俊房とその第宅:「土御門」と「堀川」」(『東京大学史料編纂所研究紀要』15, p11-32, 2005)で詳しく考察されています) 俊房は自宅に着いたところで下車したようなので、少なくとも俊房と師通はここまでは同じ順路を進んでいたのでしょう。

 というわけで、紫式部の時代から百年近く後のことではありますが、初めてある程度詳しく判る「初斎院御禊」の順路を記した文章に出会えました。こうした儀式の式次第はそうそう変わるものではないでしょうし、とすればこれを見る限り『源氏物語』での車争いも多分鴨川へ向かう往路での出来事だったと思われます。(少なくともこの頃の読者はそのように理解していたでしょう)
 それにしても、内裏を出発したのが「未刻」ということは早くても午後2時頃で、そこから200人以上の大行列が鴨川に辿りつくまでどのくらいの時間がかかったのかは特に触れられていません。町一つ(地図の水色の四角)を一辺120Mとすると、この順路であれば約2300Mなので、ややゆっくりめに進んで1時間弱くらいでしょうか?

 ちなみに御禊の後の帰り道の様子は以下のとおりですが、東の空に十五夜の満月が昇るのが見えたということは、御禊の終わりはもう随分遅い時間だったのでしょう。また復路はどうやら往路と同じ道を一条大路と大宮大路の交差点まで戻り、そこから北へ進んで紫野斎院に到着したようです。


東山邊望月、于時寄御輿、巻上御簾懸輿、左右立几帳、裏入殿給、予外簾所候也、乗御了、自本路到列見更北折、入御自院南門、殿下(関白・藤原師実)同車、東門入給、北政所(源麗子)前駈下渡南門、入自西門北邊寄御車、御輿入自御簾(後略)

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DVDでも侵略中!

 2012/08/08(Wed)
 このところ真面目なお話が続いたので、ここでちょっと久しぶりに弾けた話題など。

 今月1日、函館市の愉快なCM「ハコダテ観光ガイド・イカール星人襲来中!」が初のDVDになりました。というわけで、予告映像はこちらです。




 今までの映像を再編集、さらに未公開映像もたっぷり盛り込んで、一段とデラックスな内容になっています。一方でかなりローカルネタも多いので、もしかすると地元の函館市民でも判らない人がいるのではないかなと思いつつ、大いに笑わせてもらいました。
 ちなみに予告編でもちらっと登場する新兵器は、「ハマデ式」で検索すると元ネタが判ります。(千尋は知人に関係者がいたことからよく知っていたので、一目見た瞬間爆笑でした) その他の新たな援軍や侵略側のニューキャラも意表をつく面々が揃っていて、函館をご存知の方ほど楽しめること請け合いです。

 というわけで、この機会に以前作ったイカール星人侵略マップもちょっと更新してみました。作中に登場する名所に興味がおありの方は、どれがどこか参考にしてみてください。(そのうちサムネイルもつけようかしら?)



より大きな地図で イカール星人侵略マップ を表示


 それにしてもDVD、最後のオチでまた大爆笑でした。また何という美味しそうな組み合わせを…!


 参考リンク:イカール星人公式サイト


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賀茂祭の謎・参 紫式部の見た御禊

 2012/08/04(Sat)
 前回の「賀茂祭の謎・弐」以降、当時の貴族の日記で御禊の様子を書いたものはないかと探していたのですが、やっぱり順路について詳しく触れたものはないようです。「尋常四月御禊」の記事は多いものの、斎院一代に一度しかない「初度御禊」「初斎院御禊」の二つは当然ながら記録も非常に少ないのですね。特に『小右記』が17代馨子内親王の初斎院御禊(1033年)の前年までしか残っていないのは痛恨の極みでした。残念。
 ところでそういえば伊勢斎宮の群行も、道程を詳しく書いたものは藤原資房の『春記』(時の斎宮は良子内親王)しかないのですよね。資房は上記『小右記』を遺した藤原実資の孫なので思い出したのですが、そこでまたまたあれ?と首を傾げました。
 そもそも紫式部は、「初斎院御禊」を見たことがあるのでしょうか?

 紫式部の生年や『源氏物語』を執筆した正確な年代は不明ですが、『紫式部日記』によれば1008年には既にある程度完成したものが世間にも流布していたようです。また生年は諸説あるものの、大体970年代頃という点ではほぼ一致しています。
 ところが、紫式部の時代の斎院はあの「大斎院」選子内親王です。選子が斎院に卜定されたのは975年、そして初斎院から紫野斎院に入ったのは977年で、仮に紫式部が970年生まれとしても当時数え8歳という幼少の頃の話です。
 その後選子は『源氏物語』が生まれるまで、円融、花山、一条と三代の天皇の賀茂斎院であり続けました。しかもその後もさらに三条、後一条と、合計五代57年もの間彼女が唯一の斎院であったので、当然その間「初度御禊」も「初斎院御禊」も行われることはなかったのです。

 もちろん、紫式部が中宮彰子の元に出仕していた頃も、斎院選子内親王の「尋常四月御禊」は毎年行われていました。これについては『日本紀略』だけでなく『小右記』や『権記』等の日記にも記されていますし、紫式部も『源氏物語』の題材にしたくらいですから、彼女自身も(毎年とまでは行かずとも)何度かは斎院の華やかな行列を一条大路で見物していたことでしょう。
 ただし、それは紫式部が『源氏物語』の中で葵の上と六条御息所の車争いの舞台としたであろう、「初斎院御禊」ではなかったのです。
 ちなみに『源氏物語』成立当時、伊勢斎宮も986年に卜定された恭子女王が既に20年あまり在任中でした。ということは、紫式部や同時代の多くの宮廷人たちは実際に野宮や斎王群行を見たことがなかったのではないか、という指摘がされています。(斎宮歴史博物館紫式部は斎王を見たか?」参照) もちろん野宮や群行の情景描写については、過去の記録や当時実際に見た人からの伝聞を元にしたのでしょうが、紫式部本人にとってはあくまでも想像の域を出ないものであったでしょう。
 けれども斎院御禊については、「尋常四月御禊」であれば当然毎年見る機会がありました。(時々諸般の事情で中止にはなっていますが) ましてそれを物語の題材にするとなれば、「日本紀の御局」とまで仇名された程の作家紫式部なら必ず「取材」もしたはずです。とすれば、いかに延喜式やその他の資料を綿密に調べた上であったとしても、紫式部が実際に「葵」帖を執筆しながらまずその頭に思い描いていたのは、彼女が実際に自分の目で見た「尋常四月御禊」の光景であったのではないでしょうか。その上で「御禊の日、上達部など、数定まりて仕うまつりたまふわざなれど、おぼえことに、容貌ある限り、下襲の色、表の袴の紋、馬鞍までみな調へたり」と、光源氏の晴れ舞台にふさわしく、この時は通常の御禊よりも一段と華麗な行列だったのですよと描き、当時の読者も自分たちが見ていた「尋常四月御禊」の記憶の上にそのイメージを重ねて華やかな王朝絵巻を思い描いたのでしょう。
 なお「尋常四月御禊」には勅使は出ませんが、「初斎院御禊」には特別に勅使4人が随行する決まりで、「葵」帖の光源氏もその一人でした。もちろん祭当日の「路頭の儀」では、内裏を出発した勅使一行が途中で斎院と合流して一条大路を進んだので、あるいはそちらのイメージが強かったかもしれません。(※この勅使一行がどういうルートを通ったかは判りませんでしたが、『賀茂斎院と伊勢斎宮』(斎宮歴史博物館)解説では内裏を出て大宮大路を北上したとあるので、多分最も近い陽明門から出て行ったのでしょう)

 さて前回にもちらっと触れましたが、「尋常四月御禊」の場合の順路は洛北の紫野斎院を出発して鴨川河畔で禊を行い、その後紫野斎院へ帰還するというものでした。記録によれば、紫野斎院の位置は当時の大内裏のほぼ真北、大宮末路(大宮大路の延長の道。一条大路より北)の西側に位置していたらしいことが判っています。時間については明記された史料が見つかりませんでしたが、『源氏物語』にも「日たけゆきて」の一文があるところから、昼過ぎ頃に行列が通っていったと考えていいでしょう。
 賀茂祭当日(路頭の儀)には斎院の行列は大宮末路を南下、一条大路に突き当たったところで勅使一行と合流して東へ進み、賀茂社の下社(現在の下鴨神社)に向かうという順路をとっていました。もちろんこのルートは、一条大路からさらに南下したのでは遠回りになってしまうので、勅使・斎院双方にとって最も短距離かつ単純な順路であったという現実的な理由によるものだったと思われます。
 一方御禊は路頭の儀とは異なり、禊の場所は占いで決めていたので、当然毎回違った場所で行われていました。とは言っても、記録に残る斎院御禊の場所は殆どが一条大路から二条大路の間の鴨川河畔であったそうなので、基本的に二条大路よりも北が御禊の場所であったと考えていいでしょう。(当時の河川事情はよく知りませんが、普通に考えても上流ほど水が清浄でより御禊にふさわしかったはずです) 『賀茂斎院と伊勢斎宮』ではこれについての解説で、「尋常四月御禊が一条大路を通ることから、おそらくは一条大路が鴨川と交わる付近の適所で(御禊を)行うことが多かったと考えられる」と述べています。だとすれば、御禊の行列も一条大路を往復したと考えるのが最も自然ではないかと思いますし、『源氏物語』の車争いの騒動も、紫式部自身は「これから鴨川へ御禊に向かう往路での出来事」として描いたのではないかなと考えます。

 というわけで、今のところ決定打と言えるほどの根拠はないのですが、11世紀初頭までの記録を見る限りでは大体以上のとおりです。これより後の時代の記録にはもっと詳しい情報もあるのかもしれませんが、今回はあくまで『源氏物語』の根拠となった史料を探すということで、西暦1000年頃までに絞って調査しました。
 ところで紫式部の時代に最も近かった16代選子内親王の初斎院御禊ですが、選子が初斎院とした場所は大膳職であったことが『日本紀略』(貞元元年9月22日条)に記録されています。この大膳職は大内裏の東端中程、例の大宮大路沿いの待賢門のすぐ前に位置していました。ここから朱雀門までわざわざ行くのはあまりに遠回りなので、選子内親王の初斎院御禊の行列は恐らく待賢門から出て行ったのでしょうが、そのあと大宮大路を北上して一条大路へ向かったのか、それともまっすぐ東に向かったのかあるいは右折して南下したのか、一体どのルートだったのでしょうね?

 参考リンク:「平安宮大内裏復元図」(「平安京探偵団」様のページです)

 関連過去ログ:
  ・賀茂祭の謎
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