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百花繚乱王朝絵巻

 2011/11/26(Sat)
 以前お勧め図書としてここでも紹介したことのある吉岡幸雄氏が、新たにまた素敵な本を出すことになったそうです。今度の『王朝のかさね色辞典』は、平安時代の貴族たちの華麗な衣裳を染め和紙で再現したもので、これまた美しい表紙を見るだけで楽しみでどきどきしますね。
 なおこの本、発売は来月で残念ながらまだAmazonには出ておりませんので、画像は以下の出版社案内ページにてご覧ください。

 ・『王朝のかさね色辞典』(予約受付中)


 ついでに、吉岡氏がこれまでに手がけられた以下2冊も、この機会に改めてご紹介。

  
源氏物語の色辞典源氏物語の色辞典
(2008/11/01)
吉岡 幸雄

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日本の色辞典日本の色辞典  
(2000/06/01)
吉岡 幸雄

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 どちらも素晴らしい本ですが、特に『源氏物語の色辞典』はページをめくるたびにただただ溜息がこぼれる美しさ華やかさに、源氏ファンのみならず平安時代がお好きな方なら心を鷲掴みにされるのは間違いありません。私も「重ね色目」といえばかつては古典の参考書などに掲載されていた小さな見本くらいしか知らず、源氏物語や枕草子の華麗な描写を読んでいても今ひとつ具体的な想像ができなかったのですが、この本はそんなおぼろげなイメージを一新する衝撃的とも言っていい程のものでした。全編フルカラーにつきお値段は少々お高いですが、一度見たら絶対手元に置きたくなること請け合いです!

 参考リンク:「紫のゆかり 吉岡幸雄の色彩界
  ※同サイト内「吉岡幸雄の仕事展「千年紀記念―源氏物語の色」」にて、
   『源氏物語の色辞典』に掲載された作品の一部を見ることができます。


 ところで吉岡氏は染色のお仕事以外にも講演会などで精力的にご活躍ですが、あいにくと京都にお住まいのため、関東まではなかなか出張してきてくださらないのですね。(涙) 特に源氏物語関連の展示は最近ご無沙汰しており、『源氏物語の色辞典』発行の折のような展示会を、ぜひともまた東京でも開催していただきたいものです。
 それともうひとつ『源氏物語の色辞典』に掲載の作品はそれはもう大変に美しいのですが、大半は反物を着物風に重ねるなどしたディスプレイを撮影したもので、実際に装束の形に仕立てた状態の写真はあまり多くはないのです。まあさすがに『源氏』に登場する装束すべてを仕立てるのは殆ど不可能でしょうけれど(そもそも十二単一領仕立てるだけでも、一体おいくらになることやら…)、「絵合」「初音」「若菜」などのように作中でも一際華やかな名場面ではぜひとも本格的な十二単で見てみたいと常々思っているので、今後挑戦してくださることを密かに期待しています。(風俗博物館様でもたくさん見ていますが、やっぱり等身大は迫力が違うんですよ!)

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ただ今実験中

 2011/11/25(Fri)
 そろそろまたブログの模様替えをしようかなと思っていたのですが、本日ふと思い立って、カスタマイズOKのテンプレートを拝借してこんなものを作ってみました。(笑) ホームページのHTMLをいじるのとは大分勝手が違って苦労しましたが、何とかそれらしい格好になったようで一安心です。もう少し慣れてきたら、抱一さんだけでなく他にお気に入りの絵でも試してみたいですね(^^)
 というわけで、季節はちょっとずれていますが、しばらくはこの夏秋草図・夏草バージョンにしてみます。


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輝く瑠璃色 酒井抱一と江戸琳派の全貌(3)

 2011/11/23(Wed)
  
酒井抱一と江戸琳派の全貌酒井抱一と江戸琳派の全貌
(2011/09)
酒井抱一展開催実行委員会

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 今月前半は風邪ですっかり体調を崩してしまい、ぐったりしている内に酒井抱一展も終わってしまいました。(涙) おかげで後半の展示は一回しか行けなかったのが残念ですが、ともあれ遅まきながら今回の見所と感想など。

・「四季花鳥図巻」(東京国立博物館)
 この絵巻は比較的展示や貸出の多い作品の一つで、その意味では特に目新しさはなかったはずなのですが、今回は今までにない照明による効果に一番驚かされました。最高級の顔料を使っているという色の美しいこと、中でも群青の発色がとりわけ素晴らしく、目を凝らすと朝顔や露草の青い花が何ときらきら光っているのです。(!) 確かに日本画の顔料は絵の具それ自体もとても美しいものですが、ああいう古い時代の絵画で顔料の粒子があんなにきらきら輝いているのを見たのは初めてで、本当に驚きました。(ちなみにもちろん、「夏秋草図屏風」の水の流れもやっぱりきらきらしてました)

・「夏秋草図屏風」(東京国立博物館&出光美術館)
 言わずと知れた今回の真打ちで、私にとっても一番好きな抱一作品ですが、今回ついに!抱一追っかけ歴16年にして初めて、本絵と下絵が二つ揃った姿で見ることができました。(スタッフの皆様ありがとうございます!)
一見殆ど違いのない二点ですが、両方同時に並べて見ることで、完成品と下絵の微妙な違いをじっくり観察することができたのは実に貴重な機会だったと思います。特に判りやすいのは舞い上がる紅葉した葉の位置ですが、それ以外にも葉や枝のしなり具合など、結構あちこち変わっているのですね。

・「五節句図」(大倉集古館)
 これも抱一晩年の大和絵の代表作として有名で、ばらばらでなら大倉集古館で見たことがありますが、五幅すべてが一度に揃った姿を見るのはこれまた初めてです。いわゆる「琳派」様式には含まれないこともあり、やはり滅多に拝見できないだけにずっと気にかけていたので、長年の念願が叶って感激でした。(また抱一さんの大和絵は、さすがに上品で大変美しいのです)

・浮世絵各種
 細見美術館さんの「松風村雨図」は既にお馴染みですが、それ以外の作品をこれだけまとまって見たのは大琳派展以来です。(中でも「美人蛍狩図」の出展は本当に久しぶりなんだとか) 改めて見てもなかなかの力作揃いで、これが最も若い頃の作例だというのがまた驚きですが、やはりお父さんやお兄さんと比べても抱一さんの画才は際立っているなと感じました。(でも母方の叔父さんも大変お上手で驚きました)

・ミニ短冊&画帖
 ある意味今回特に人気を集めていたと思われるこの愛らしい二つの小品は、私も思わず目が釘付けになりました。掛け軸や屏風のような大物は庶民には持て余すだけですが、こんな可愛らしい作品ならぜひ欲しいです!

・「十二ヶ月花鳥図屏風」(香雪美術館)
 これは長年画集などで見るたび気になっていた作品で、今回の大回顧展で出てくれたのは大変嬉しかったです。そして画集ではちょっと写りが悪そうに思っていたのですが、実物は非常に保存状態良好で驚きでした。
 …もっとも実を言うと、同じような十二ヶ月花鳥図シリーズの中で、この作品が一番抱一っぽくないような気がしています。解説によるとこのタイプの作例としてはかなり早い可能性があるそうで、だからなのかもしれませんが、5月・6月・11月がどうも引っかかるのですよ。特に5月の燕子花と水鳥の絵、あの光線の描き方は其一に顕著なもので抱一さんは殆どやっていなかったと思うんですけど、どうなんでしょう…?


 さて、今回これだけたくさんの抱一作品を全国から集めていただいて言うのも恐縮なのですが、それでもやはり「非参加で残念だった組」というのも少なからずありました。というわけで、個人的に密かに期待していた数点について、ちょっとだけ触れておきます。

・「山桜に帰雁図」(林原美術館)
 この三幅対の作品はちょっと珍しいタイプの構図で、すっきりと品のある趣に惹かれて気になっていた作品のひとつでした。それで今回も期待をかけていたのですが、何と今年の2月に親会社?の林原が経営破綻してしまったのです。一体美術館はどうなるんだろうと心配していたところ、この秋の美術館ニュースでどうやら存続が決定したというお知らせがありほっとしましたが、そのためかどうか「山桜~」は今回出展とはならずちょっと残念でした。さすがに岡山まではなかなか見に行けそうにないので、何かの機会に貸出してくれることを期待します。

・「水仙図屏風」(逸翁美術館)
 先日の虞美人草でも触れましたが、これまた滅多に会えない幻の作品です。(もっとも所蔵する逸翁美術館では、それなりに出ているようですが) 私の手元にある2005年のチラシは右隻の写真しかないので、いつかもう一度見て今度は左隻もしっかり記憶に焼き付けておきたいのですが、再会はいつになるでしょう…

・「紅白梅図屏風」(出光美術館)「波図屏風」(静嘉堂文庫美術館)
 抱一作の銀屏風の大作として、夏秋草図に次ぎよく知られた二点ですが、実は夏秋草図とこれらを合わせた三点が一堂に会することは大変稀です。なので今回は密かに期待をかけていたのですが、実現せず残念でした。
なお三点の所蔵館では、静嘉堂さんは会場のキャパから考えてちょっと厳しそうな気がするので、出光美術館さんにぜひ頑張ってほしいです。(風神雷神三点揃いもやったんですし!)

・「月に秋草図屏風」
 抱一作品の中でも「夏秋草図屏風」と並んで重要文化財指定を受けているこの金屏風も、何故だか滅多に美術展に出てこない幻に近い作品です。私が実物を見たのも、過去16年で2004年の琳派RIMPA展と2008年の大琳派展の2回きりですし、それに大琳派展の図録に所蔵者が明記されていなかったのもちょっと気になるのでした。2004年時点ではペンタックス所蔵だったのですが、今も変わっていないのかどうかちょっと不安です…


 以上、本当はまだ色々書き足りないのですけれど、あまり時間がたつと細かいことを忘れてしまいそうなので駆け足で報告でした。なお講演会第3回のレポについては、後日また改めてお届けいたします。


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虞美人草の謎 青邨・漱石・抱一

 2011/11/21(Mon)
 11月20日(日)、明治神宮宝物殿で開催中の「和紙に魅せられた画家たち展 近代日本画の挑戦」(2011/10/01-11/27)へ行ってきました。
 テーマは「神宮紙」と呼ばれる特殊な手漉き和紙と、これに関連する日本画を中心としたものですが、今回の千尋のお目当てはただ一つ、前田青邨の「罌粟」です。もうとにかくこの屏風だけを見たかったので、正直言って他の作品は殆ど眼中にありませんでした…ごめんなさい。

  前田青邨「罌粟」
  ※1977年没の青邨はまだ著作権が消滅していないので、代わりに会場入り口のパネルから。


 この「罌粟」の金屏風、最初に出会ったのは多分1998年の「近代日本美術の軌跡 : 日本美術院創立一〇〇周年記念特別展」(東京国立博物館)だったと思います。(ちなみにやはりこの時初めて、長年憧れだった速水御舟の「炎舞」を見て大感激でした) 前田青邨という画家は正直今でもあまりよく知らない人ですけれど、この絵だけは一目見た瞬間、何と言うかどきりとしました。
 80年経っても真新しい輝きを失わない華麗な金箔地の上、右の画面一杯に咲き誇る真っ白な大輪の芥子の群れに対し、左はこれもずらりと並ぶ花の散った芥子坊主で、さらに一部だけなぎ倒されたような場所にそこだけ真っ赤なうつ伏せた芥子が一際鮮烈です。しかもこの芥子はどう見ても立派な阿片芥子(!)で、ただ華やかに美しい植物画というだけではない、これは一体何を表そうとしたのかという疑問と不安を誘うような、独特の迫力というか一種凄味のようなものを感じるのですね。発表された当時の反響の中には、琳派との類似、特に尾形光琳の「燕子花図屏風」の影響を指摘するものもあったとかで、事実青邨は琳派についても色々勉強していたようです。


 さて、ここで話はまたまた酒井抱一へ飛びます。(笑)
 別館の抱一サイトでも紹介していますが、文学作品に登場する抱一を扱ったものとして、最も早い例のひとつに夏目漱石の『虞美人草』があります。少し抱一に詳しい人ならご存知とは思いますが、ここで改めて問題の箇所を引用させていただきましょう。


 逆に立てたのは二枚折の銀屏である。一面に冴え返る月の色の方六尺のなかに、会釈もなく緑青を使って、柔婉(なよやか)なる茎を乱るるばかりに描いた。不規則にぎざぎざを畳む鋸葉を描いた。緑青の尽きる茎の頭には、薄い弁(はなびら)を掌ほどの大さに描いた。茎を弾けば、ひらひらと落つるばかりに軽く描いた。吉野紙を縮まして幾重の襞ひだを、絞りに畳み込んだように描いた。色は赤に描いた。紫に描いた。すべてが銀(しろかね)の中から生える。銀の中に咲く。落つるも銀の中と思わせるほどに描いた。――花は虞美人草である。落款は抱一である。



 何度読んでも実に耽美的な文章ですが、それはさておき、初めてこの文を読んだ時にふっと連想したのが実は青邨の「罌粟」でした。作中では「抱一の銀屏風」とあるのに対して青邨は金屏風、また青邨には紫の芥子は描かれていないなどの違いはありますが、文体から湧き上がってくるイメージはやはり今でも青邨の「罌粟」が一番近いと思っています。何より、抱一さんが単体で芥子だけを描いた屏風などというものに心当たりがありませんでしたし、多分これは漱石の想像上の屏風なのだろうと、何となく思っていました。


  
あじさい日記  あじさい日記

  (2007/10/10)
  渡辺 淳一

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  参考図書(笑):抱一の芥子(「四季花鳥図巻」より)


 ところが最近になって、図書館で偶然、これについてかなり踏み込んで詳しく検証した本に出会いました。

  
「漱石の美術愛」推理ノート「漱石の美術愛」推理ノート
(1998/06)
新関 公子

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 元々著者の新関氏の専門は西洋美術であり、この本は連載で書いていた美術エッセイの中の特に漱石に関するものをまとめたものであるそうです。なのでいわゆる研究論文等とは少々趣が違いますが、それだけに専門書よりも読みやすく親しみが持てました。何より、新関氏も私と同じく「虞美人草の屏風」で青邨の「罌粟」を思い浮かべていたそうで、やっぱり同じことを考える人っていたのねと嬉しかったです。
 それで肝心の「虞美人草の屏風」ですが、結論からいえば、やはり今のところ抱一作の「芥子図屏風」は見つかっていないそうです。ただ宗達派等にはいくつかの作例が知られており、そうであるなら抱一ももしかするとどこかで同じような「芥子図屏風」を描いていたのではないか、ということでした。


  宗達派「芥子図屏風」2
  宗達派「芥子図屏風」1
  宗達派「芥子図屏風」(ボストン美術館所蔵)


 もっとも抱一作品に芥子の花が登場することは非常に少なく、ましてや単体で描かれた例となると、私も殆ど知りません。(雑画帖に一点あるようですが) そもそも尾形光琳に倣ったと思われる「燕子花図屏風」を除けば、抱一の場合一種類の草花だけを屏風絵という大画面に描いた例自体が滅多にないのですよね。(草花でなく樹木なら、桜や梅や柿などがありますが)

 とはいえ、これについては実はもう一点、気になる絵があります。
 燕子花以外で抱一が一種類の草花だけを描いた屏風絵に、もうひとつ「水仙図屏風」というものがあります。大阪の逸翁美術館所蔵ですが、私が知る限り画集等にも掲載されておらず、またネット上でも殆ど見かけないので、恐らく一般ではあまり知られていない作品でしょう。
 私も2005年の展示でたった一回見たきりでなので少々記憶は曖昧ですが、この「水仙図」はやや小ぶりながら立派な六曲一双の、それも「銀屏風」でした。ただ抱一にしてはややタッチが粗い(というか、やけに輪郭が太かった)という印象を受けたものの、白い水仙の花は他の抱一作品にもよく登場するものですし、こんなものもあったんだと素直に思ったのです……が。
 実はこの「水仙図」、構図が青邨の「罌粟」によく似ていたのです。
 左右共に水仙の花がずらりと咲き揃っているところは光琳の「燕子花図」にも似ており、特に右隻はちょうど光琳の左隻を裏返したようにゆるやかな曲線を描いて咲いています。しかし対する左隻の水仙は、一部がまるで強い風でも受けたようになぎ倒されているという、今思えばまさしく「罌粟」の先駆けのような屏風絵でした。

 「抱一が好んで描いた銀地の上に、琳派らしい構図で水仙を描いている。
  左隻に描かれた水仙の一部を倒して描くことで、より優れた構図となっている。
  銀地は、水面でもあり、夜空でもある。その上に浮かび上がった水仙からは、
  芳しい香りが漂ってくるかのような風情を感じさせる」(当時のキャプションより)

 もし青邨がこれを見ていたとしたら、「罌粟」のヒントになったのは光琳よりもむしろこちらではないかしら、と密かに思っています。もともと漱石は「抱一の描いた虞美人草の銀屏風」としているのですから、花は違いますが同じ銀屏風ならモデルとしては最適でしょう。
(もっともこの「水仙図」、何しろ画集にも載らない上に琳派関連の美術展にもまったく姿を見せず、挙句今年の抱一大回顧展にもやっぱり来なかったので、果たしてちゃんと抱一作品として認められているのかちょっと不安だったりもします…苦笑)


 話戻って虞美人草ですが、青邨が「罌粟」を描いたのは昭和5年(1930)、漱石が『虞美人草』を書いたのはそれより20年以上前の明治40年(1907)でした。それで新関氏も「私は青邨が漱石の『虞美人草』からこの作品(罌粟)を発想した、という思いつきを大いに楽しんでいる」と述べており、こういうところは厳密な研究とは違う自由な楽しさがあって面白かったです。
 また画集等の写真では、左右の白い芥子の花も芥子坊主も殆ど平行と言っていい単調な並び方に見えるのが、屏風として六曲一双に立てると、ずらりと並んだ芥子が驚くほどリズミカルな印象を与える姿に一変します。今回久しぶりに実物を見たことで、元々の絵が踊るような光琳の燕子花や鈴木其一の朝顔とはまた違う、屏風絵ならではの立体の効果に改めて感動しました。

 ちなみにこの芥子の花、一体いくつ描かれているんだろうとちょっと数えてみたところ、右の白い芥子が大体170~180、左の芥子坊主がおよそ190前後でした。(!) さらにその他にも葉に紛れるように描かれた蕾がいくつもあって、よくまあこんなにたくさん描いたものです。(※ボストンの宗達派ではせいぜい80なので、実に倍以上です)
 特に白い花の方は、ところどころ薄い黄味がかった色や淡緑なども使っているものの、殆どが純白の顔料(胡粉?)を塗り重ねた厚みだけで表していて、花びら一枚一枚の筋までもまったくの白だけで描いていました。しかもよくよく見ると、満開の花の中に散りかけの花やこれから開こうとする蕾も紛れていて、決して単一ではないのですね。
 また漱石いうところの「鋸葉」も、たらし込みや濃淡は控えめながら実に丁寧にみっしりと書き込まれており、このあたりは琳派というよりむしろウィリアム・モリスの壁紙を連想させます。それでいて全体の繊細で瀟洒な雰囲気はやはり江戸琳派と共通するものを感じさせ、しかもはっとするような意表を突く構図のモダンさは、其一あたりが見たら「その手があったか!」と悔しがりそうだなとも思うのでした。(笑)

 なお夏目漱石は大正5年(1916)に亡くなっており、残念ながら青邨の「罌粟」を見ることはできませんでした。もし漱石が長生きしてあの絵を見たなら、一体どんな感想を持ったか、ぜひ聞いてみたかったです。


  
すぐわかる琳派の美術すぐわかる琳派の美術
(2004/08)
仲町 啓子

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  この本でも、青邨の「罌粟」は第4章「琳派の伝統と再生」の最後を飾る作品として紹介されています。


追記:
 ところでこの「罌粟」、1978年の別冊アサヒグラフでは永青文庫所蔵とあり、事実今回見た時にも枠に「細川家」と書いた紙が貼ってありました。ところが上記「すぐわかる琳派の美術」(2004発行)ではただ個人蔵とあり、そして現在は光記念館…30年の間に、一体何があったんでしょう…?


さらに補足:
 後で調べてみたところ、青邨の描いた芥子はどうやら「ソムニフェルム種」という品種が一番近いようです。ちなみに東京では東京都薬用植物園で栽培しており、私も一度見てみたいと思っているのですが、一般公開は平日のみなのでなかなか機会が作れずにいるのでした。来年こそはぜひ…!

参考リンク:栽培が禁止されているケシ東京都薬用植物園

  ソムニフェルム種
  ソムニフェルム種(Wikipedia提供)


さらに追加:
 上記調査の後、11/27にもう一度見に行って気がついたこと。
 右の白い芥子は一重の花ですが、左の紅い芥子はカーネーションのような深いぎざぎざの花びらなどから見て、どうやら八重咲きのようです。白と赤、花と実という対比に加えて、一重と八重という違いまであったことにまた驚きました。

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正妻は誰?

 2011/11/09(Wed)
 このところ抱一さんにかかりきりだったので、ここでちょっと気分を変えて、久しぶりに平安時代の話など。

 かつて「平安時代は一夫多妻制だった」とよく言われましたが、その後研究が進むにつれ、実際はそう単純なものではなかったらしいということが判ってきました。そのため「原則は一夫一婦制、その他の『妻』はすべて妾である」とする説と、「制度としては一夫多妻制だが、その中でも第一夫人としての『正妻』がある」とする説が近年対立しているそうです。
 こうしたテーマは学生の関心も高いそうで、研究書も色々と出ていますが、その中に「王朝摂関期の「妻」たち:平安貴族の愛と結婚」(園明美著,新典社)という本があります。内容はかなり専門的ながら、平易な文章で初心者にも判りやすく、しかもお値段は大変お得(笑)とあって、私の愛読書の一つです。(何しろ普通の学術書は大抵高すぎて手が出ません…)

  
王朝摂関期の「妻」たち―平安貴族の愛と結婚(新典社選書28)王朝摂関期の「妻」たち
平安貴族の愛と結婚
(新典社選書28)

(2010/02/10)
園明美

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 この本の著者は「正妻ありの一夫多妻制」派のようで、二つの説の主張とその根拠をそれぞれ取り上げて紹介し、必ずしも筋が通っていないと思われる点についても丁寧に説明してくれています。私も著者のご意見には大方賛成ですが、最近また何となく読み返していて、おやっと思う点がありました。

「一夫一婦制派」による説のひとつに、「儀式婚(=私通によるなし崩しではない、正式な手順を踏んでお披露目をした結婚)により結婚した妻は、そのまま自動的に(いわば早い者勝ちで)唯一の正妻となることが確定する」があります。これが果たして正しいかどうかを検討した箇所で、著者は「院政期の例ではあるが」と前置きした上で、まず藤原忠実の二人の妻・源任子と源師子の例を紹介しています。これは有名な話なので詳細は割愛しますが、この場合先に儀式婚で妻となった任子がいたにもかかわらず、最終的に「北の政所(=正妻)」となったのが師子であったというのはまず問題ないでしょう。

 問題は第二の例、藤原経実の妻・(藤原)公実女についてです。
 この公実女も儀式婚の記録が残っており、『為房卿記』永保2年(1082)4月16日条に、藤原経実と結婚したという記述があります。一方で経実は1097年に別の女性(通俊女)と儀式婚を挙げ、通俊女は1102年頃に経定という息子を産みました。また公実女も1116年に娘(懿子、二条天皇生母)を、1119年に息子(経宗)を産んでおり、これにより公実女と通俊女が、(どちらも儀式婚を挙げたにもかかわらず)同時期に経実の正式な妻であったことは間違いないとしています。
 一見もっともな問題のない説のように思えますが、ここであれ?と思いました。

 公実女が経実と結婚したのが1082年なら、どう若く見積もっても、当時彼女は数え11~13歳くらいにはなっていたはずです。(事実、後で知りましたが記録では12歳とありました) そして娘懿子が生まれたのが1116年ということは、その時母である公実女は実に45歳であった計算になります。現代でも結構な高齢出産と言える年齢で、まして当時としては相当珍しいのではないでしょうか。
 もっとも有名な藤原道長の妻倫子も、末娘を産んだのは43歳の時でしたから、まったくありえないとまでは決め付けられません。とはいえ倫子の場合はそれまでに二男三女を産んだ後のことでもあり、懿子より上の子どもの存在が知られていない公実女の場合、いささか不自然な気がします。(成人前にすべて夭折した可能性もありますが、上記の源任子などはそのために夫忠実とは疎遠になってしまったようです)
 そんなわけで、何だか腑に落ちないなあと思って念のため調べてみたところ、思いがけないことが判りました。

 何と、1082年に経実と結婚した公実女と、懿子・経宗姉弟を産んだ公実女とは、どうやら別人らしいのです。

 おなじみ『平安時代史事典』によると、懿子・経宗の母である公実女は公子という名で、母は藤原光子となっています。つまりはかの待賢門院璋子と同母の姉妹ということで、これにはちょっと驚きました。(ちなみに待賢門院は1101年生まれなので、1116年に懿子を産んだ公実女は待賢門院の姉と見ていいでしょう) また『公卿補任』の経宗のところにも「母従三位公子<公実卿女>」とあるので、公子という名の公実女が経実の妻であったのは間違いないようです。
 一方、1082年に結婚した公実女の方は、その母が「実政女」であったとはっきり記録が残っています。藤原光子の父は隆方ですから、この公実女と公子は異母姉妹の別人だということになりますね。(もっともさすがに同時期に姉妹を妻にしていたとは思えないので、恐らく先の公実女が亡くなった後、異母妹の公子が後妻になったと考えるのが妥当でしょう)
 ただ残念ながら、公子の母が本当に藤原光子であるのかどうかについては、現時点では確実と思われる史料を見つけることはできませんでした。(何しろ『尊卑文脉』を見ても、公実の娘たちは待賢門院すら名前が載っていないのです) 『平安時代史事典』を監修した角田文衞氏はもちろん、ある程度の明確な根拠があってそう記したのでしょうけれど、もうちょっと探してみようと思います。

 ともあれ公子については何年生まれかも不明ですが、『平安時代史事典』では1087年頃かとしています。やはり同母姉妹の実子(鳥羽天皇乳母)に1094年生まれの子があることから、こちらは1079年頃を生年としており、公子より年上であるのは確かでしょう。(ちなみに上記の公実女は1071年生まれ)
 もっとも公子を1087年生まれとすると、1016年に懿子を産んだ時には30歳だったという計算になり、16歳?で出産した姉実子とは随分な差ではあります。彼女もまたそれまでに早くに亡くした子があったのか、それともそもそも経実との結婚自体が遅かったのか、そして何より彼女は姉同様に「儀式婚」を挙げた妻であったのか、まだまだ謎は尽きません…


 ところで余談ですが、『尊卑文脉』によると経実の息子でもうひとり、公実女が産んだとされる子がいます。名前は隆通といいますが、この人は早くに出家してしまったらしく、生没年の記載もないので何年の生まれかも書かれていません。(ただ経宗より先に書かれているので、もしかするとこちらは本当に公子ではない「公実女」が母である可能性も考えられます)
 しかしひとつ引っかかったのが、この隆通の母は「大納言公実女」とあるのに、兄弟である経宗の母は「東宮大夫公実女」とされているのです。調べてみると公実が大納言になったのは1100年、東宮大夫になったのは1103年なので、その辺が関係あるのかもしれませんが素人なので判りませんでした。(笑)

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