抱一イヤーの新聞記事

 2011/10/28(Fri)
 昨日触れた酒井抱一ファンサイト(笑)の件で、最近また何か目新しい情報はないかと思い検索してみたところ、新聞記事やネットニュースがいくつかヒットしました。
 今年始めに朝日新聞(2/23)で「酒井抱一、秘めやか銀の美」を見つけていいなと思っていましたが、毎日新聞夕刊(10/13)で高階秀爾氏による「銀の詩人 酒井抱一」と題した千葉市美術館の「酒井抱一と江戸琳派の全貌」紹介があったのには少し驚きました。以下、「夏秋草図屏風」を紹介するくだりからちょっと引用させていただきます。

 「天上界の神々は人間世界とは別のいわば抽象的存在だが、雨に打たれ風に吹かれる地上の草花は、そこにこめられた清涼感、あるいはかすかな寂寥感とともに、見る者の心情に直接訴えかける。しかも表の明るい金に対して、裏は全面銀地である。そこに抑制された叙情性が漂う。抱一はたしかに銀の世界の詩人なのである」

 この「銀の世界の詩人」という言葉、いい響きですねえ。江戸時代であれば俳人と呼んだのでしょうが、なるほど現代であればむしろ詩人と呼ぶ方がしっくりくるかもしれません。
 なお高階先生はどちらかと言えば西洋美術がご専門のようですが、実は以前、玉蟲敏子氏が『酒井抱一筆 夏秋草図屏風――追憶の銀色』でサントリー学芸賞を受賞された際に選評を寄せています。そして今回久しぶりに抱一関連でお名前を見て、もしかすると個人的にも抱一に興味がおありなのかな、と嬉しくなりました。

参考リンク:『酒井抱一筆 夏秋草図屏風――追憶の銀色』選評(サントリー学芸賞公式サイトより)


 また一方、日本経済新聞のサイトにも「風流公子の憧れの軌跡」とサブタイトルをつけた抱一展の紹介がありましたが、こちらは冒頭の一文で吹き出しました。

 「次男坊は、つらいねえ。「酒井抱一と江戸琳派の全貌」展(千葉市美術館)を見て、思い浮かんだのは、そんな言葉である」

 …これを書いた記者さんは絶対、先日の小林館長の講演を聞いていないに違いありません。(笑)
 確かにまあ、非常事態に備えて仮養子になったと思ったら、途端に甥が生まれてあっさりお役御免ではちょっと失礼じゃないかと言いたくなるかもしれません。しかしそうは言っても、お金に困らず毎日楽しく遊んで暮らして気の合う友達も大勢いて、おまけに好きな絵の才能にまで恵まれて大成功したなんて、そりゃあ小林館長でなくても羨ましくもなろうというものです。
 もちろん玉蟲氏が指摘されるような、酒井家との確執?やそこから来る鬱屈もそれなりにはあったでしょうけれど、若くして責任重大な殿様稼業を負わされて挙句に四十に満たない若さで亡くなったお兄さん(宗雅)を見ると、それ以上に奔放だった次男坊の抱一さんがお殿様になっていたらさぞかし窮屈な思いをしただろうことは想像に難くありません。しかも抱一さんの場合、酒井家が駄目でも他の大名家からの養子申込も選び放題だったのですから、それを全部断ったということはやっぱり殿様なんかやりたくなかったんでしょう。

 またもうひとつ、抱一の画業を「自分探しの軌跡」と表現したのは面白いと思いました。ただそうだとしても抱一さんの場合、「絵と俳諧」というジャンルは20代の青年期に早くも確立され、それは生涯を通して変わっていません。しかもお兄さんや叔父さんのようにお行儀のいい絵で満足していればともかく、大名家の子息でありながら浮世絵に夢中になったりして、家庭問題のことがなくても元々かなりやんちゃな人だったのではないでしょうか。
 そんな具合で抱一さんの場合、若い頃から既に確固として譲れない己を自覚していたように感じます。だからむしろ、探していたのだとすればそういう自分がありのまま自然体でいられるところの方だったのではないかなと、ふと思いました。逆に画業の上での方向性で悪戦苦闘したとするなら、それは抱一さんよりも弟子の鈴木其一の方のような気もします。(だから後で「爆発しちゃった」とか言われるんですよ…)

 とはいえ、丸谷才一氏の「個人の才もあろうし、時代の性格もあろうが、とにかく、日本の歴史のなかでこれほどおっとりとめでたく、風雅に遊ぶ自由を得た人はいない」(『日本の色』)という言葉に代表される抱一評は、実は次男坊としてそれなりの苦労もあったということが判ってきても多分変わらないのでしょう。
 …あんまり恵まれ過ぎた人生というのもある意味辛いですね、抱一さん。(苦笑)

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麗しき花実 酒井抱一と根岸の里

 2011/10/27(Thu)
 朝日新聞で連載していた時代小説『麗しき花実』(乙川優三郎、朝日新聞出版)に、酒井抱一が登場するという話を前にしましたが、その後きちんと紹介しないままうっかり忘れていました。というわけで、せっかく目下「酒井抱一と江戸琳派の全貌」展を開催中でもありますし、この機会に改めて。(以下少々突っ込んで内容に触れますので、ネタバレの駄目な方はご注意ください)

  
麗しき花実麗しき花実
(2010/03/05)
乙川 優三郎

商品詳細を見る


 主人公・理野は松江から江戸へやってきた蒔絵師の女性で、原羊遊斎に弟子入りし、何と雨華庵のお隣の寮に住むことになります。おお、何と羨ましいシチュエーション!と最初は思ったのですが、しかしお隣さんでも(私にとって)肝心の抱一上人様は滅多に作中には登場しなくて、むしろ弟子の鈴木其一の方が重要な役どころを占めています。他にも抱一が弟子に何かと代作をさせているあたりの描写などから察するに、多分作者自身が其一をご贔屓なんでしょう。

 もっともこの「代作」という観念についても、そもそも当時の人々に今で言う「芸術家」と同じような認識があったのかどうかについては、ちょっと違うんではなかろうかと思います。何しろ抱一さんにこき使われた(笑)其一自身も後年同様に自分の弟子に自分の代作させていたそうですし、売れっ子絵師であればあるほど、現代の画家のように100%本人が絵を描くのはむしろ稀だったのかもしれません。この点は玉蟲敏子氏も『都市のなかの絵―酒井抱一の絵事とその遺響』第5章で詳しく検証しておられますが、しかし抱一さんの場合、厄介なことに代作を頼んだご本人の手紙がばっちり残ってしまっているのですよね。(笑) おかげで一部?の其一ファンにはあまり心証がよろしくないのでしょうが、物的証拠を残すのはさすがにまずいですよ、抱一さん…(苦笑)

 話戻って、そんな具合に主人公の印象も今ひとつの抱一さんですが、ある時主人公が「夏秋草図屏風」の下絵を目にする場面ではさすがに彼女も圧倒されます。ここは作中でも珍しく(笑)抱一が最大級に絶賛されているので、長くなりますが引用させていただきましょう。


「これは抱一が最も苦しみ、おそらく最も充たされた揮毫でしょう。下絵なので本絵ほどの迫力はありませんが、激しい風雨が見えるかどうか、さあ御覧じろ」
 妙華尼が茶碗を除けて下絵を開くのを理野も手伝った。一枚が二枚折屏風一隻にあたる下絵は広げると大きい。むろん表装はしていない。現れたのは紙継ぎをした粗紙の大画面に淡彩で描かれた秋草の姿態で、強風に吹き立てられる葛や倒れそうな尾花がまず目に飛び込んでくる。青い葛の先端は吹き上がり、その上方には千切れ飛ぶ蔦紅葉が描かれ、下方には藤袴が横たわる。薄に絡む蔦紅葉は淡彩のために沈んでいるし、下絵なので彩色よりも描線が目立つが、風は生々しい濃さで画面を吹き抜けている。目にした瞬間から抵抗をあきらめ、息を呑むとはこういうことであった。
 草花の絵にここまで深く危うい世界を見るのははじめてだったので、理野は圧倒されて黙っていた。何か抱一という画家に対して抱いていた不信感までが一気に吹き飛ばされる心地がした。晩夏に見た杜若の金屏風とは比較にならない厳しさがそこにはあって、人目を喜ばす装飾的な工夫よりも写実が重く出ている。教養ある遊蕩児の繊細な感覚は見えても、甘えは感じられない。(中略)

「本絵は鮮やかに色変わりして、どこか吉原を感じさせます、わたくしの思いすごしでしょうか」
 と妙華尼が言った。銀地に濃彩で表した本絵はさぞかし繊婉であろう。表の金地に対して裏の銀地は調和というより、光琳と抱一、雅と余情、元禄と文政という差異の象徴のような気がする。下絵の筆は伸びやかで画家の充実ぶりを思わせた。
 それは夏艸雨も同じであった。二曲一双の右隻にあたる下絵には、驟雨に打ち萎れる夏草と潦(にわたずみ)が描かれている。雷雨のあとのほっとして物悲しい情緒は秀逸で、雷神が空想の産物なら、地上の草花は現実である。しなだれる青薄に絡みついて生き延びた昼顔、その葉陰に白百合がうなだれ、過酷な恵みのときを振り返る中で、気丈にも岩菲(がんぴ)と女郎花が上を向きはじめている。上部の広い空白に流れる潦は薄藍でおとなしいが、本絵では鮮明に色づいて画面を引き締めるはずであった。
 あまりに新しく完成されているので、このさき抱一はこの絵を超えるものを描くであろうかと理野は思った。蒔絵の下絵にはない生命力と悲哀に満ちた絵は彼女の目を弄んで放さなかった。抱一が光琳に肉薄したかどうかは分からないが、明らかに百図の光琳画とは違う。これこそ彼の才能だろう。彼女はその感性に共鳴している自分に驚きながら、茫然と立ちつくした。複雑な画意が見えてくるほど肌が粟立ち、唇も震えて、何か言えば儚く壊れてしまいそうであった。




 私は元々江戸時代は守備範囲外なため、江戸時代が舞台の時代小説も殆ど読んだこともないのですが、この『麗しき花実』は少し読み始めただけで圧倒されました。私自身、酒井抱一は比較的その生涯や周辺についても詳しい資料が多く残っている人とあってそれなりに色々資料を読んだり調べたりしてきましたが、作中には現存する蒔絵や抱一作品のみならず、雨華庵や根岸の里の様子も実にきちんと正確に書きこまれているのです。これはさぞかし時間をかけて綿密な下調べをされたろうというのがよく判り、それでいて描写はさらりと自然で、プロの作家さんが書くとこうなるのか…と思わず唸りました。
 ただ惜しかったのは、巻頭の口絵にその抱一作品が紹介されていなかったことでした。他はともかく真打「夏秋草図屏風」と、作中で実は其一作だとされた(私もそう思ってますが。笑)「青楓朱楓図屏風」の2点くらいは、江戸琳派を知らない読者のためにも掲載してほしかったです。特に「夏秋草図」は上記の描写だけでも美しいですが、実物を知っているかどうかで受ける感動も絶対違いますよ!


 なお作中に、主人公が其一に連れられて「笹乃雪」という豆腐屋へ行く場面がありますが、この「笹乃雪」は今でも鴬谷駅前で営業しています。実は千尋も先日の抱一巡りの最後に久しぶりで行きまして、名物の餡かけ豆富(笹乃雪ではこの字を使います)もしっかりいただいてきました。懐石料理なのでちょっとお高いですが、雨華庵跡から巡回バス1本で行けるお手頃な場所でお勧めです。

 ・笹乃雪公式サイト

  笹乃雪・入口
  笹乃雪・入口。

  餡かけ豆富
  名物の餡かけ豆富。必ず二碗と決まっています(^^)


 さて最後に、ちょっとひとつ宣伝です。

 私が抱一にはまったのは今から10年以上昔になりますが、その頃ネット上には抱一に関するまとまった情報は殆どありませんでした。それで悔しくなった千尋、じゃあいっそ私が抱一のファンサイトを作ってやろう!と厚かましくも思い立ち、2002年頃にささやかなHPを立ち上げたのです。その後美術展で新しい作品に出会い、情報が増えるたびにぽつぽつと書き足し、ひっそりとながら長年運営しているうちに検索にもヒットするようになってきて、恐らく世界で唯一の酒井抱一サイトだろう(笑)というのが密かな自慢でした。
 ところが最近になって、サイトを置いていたプロバイダがサービスを終了したため、それに伴って引越しせざるを得なくなってしまいました。またちょうど抱一生誕250年という記念の年に当たったのもある意味裏目に出まして、今や「酒井抱一」や「江戸琳派」で検索をかけても、世界初?の我が抱一サイトは全然ヒットしません。ここにきてようやく抱一が脚光を浴びるようになったのに、今まで頑張って集めたデータが埋もれたままなのは何だか悔しいので、ちょうどいい折でもあるし改めて正式にここでお披露目しようと決意しました。
 というわけで、正確な開設日は既に本人も忘れましたが(笑)、↓こんなサイトです。


 ・銀色の夢 銀色の追憶 ~江戸琳派の画家、酒井抱一を追う~


 名前は見ての通り、酒井抱一研究第一人者でいらっしゃる玉蟲敏子先生の著作からヒントを得ております。入口の少々気取った言い回しが今となっては恥ずかしいですが、初めてサイトを作った頃の初々しい気合が篭った思い出深いものでもあり、敢えてそのまま残しました。
 一方肝心の内容は、何しろ素人ファンの追っかけサイトですので、研究といえるほど大層なものはありません。その代わりデータ収集には力を入れまして、特に作品一覧やリンク集については、今のところ抱一関連でこれだけのデータをまとめたものは多分他にはないだろうと自負しています。(琳派の画集シリーズは結構ありますが、酒井抱一一本に絞って拾い上げてくるのは結構大変でした) ただ今回の抱一展で初めて見たものや新しく存在を知ったものはまだ一覧に加えていませんが、千葉展の会期が終了後に一挙更新できればと思っていますので、もう少々お待ち下さい。

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雨華庵ご案内 酒井抱一と江戸琳派の全貌(2)

 2011/10/26(Wed)
 2011/10/16(日)、千葉市美術館にて開催中の「酒井抱一と江戸琳派の全貌」第1週講演会「酒井抱一の雅俗」へ行ってきました。今回の講師は、千葉市美術館館長の小林忠氏です。
 小林館長は『酒井抱一と江戸琳派の美学 日本の美術 (No.463)』の著者で、また「江戸琳派」という言葉の名付け親でもあられるそうです。(これは初めて知りました) さらに「もっと知りたい尾形光琳」の著者・仲町啓子氏は後輩、細見美術館の岡野智子氏と千葉市美術館の松尾知子氏は教え子とのことで、実に錚々たる顔ぶれの琳派ネットワークの要でいらっしゃるのですね。
 そんな方ですから、もちろん小林館長ご自身も抱一が大好きで、やはり抱一ファンだった先代の細見氏ともご友人だったそうです。そこまでは当然予想の範囲だったのですが、冒頭でいきなり「私はもし生まれ変われるなら、抱一になりたいんです」とおっしゃったのにはちょっと驚きました。
 はて、抱一ファンだという研究者は他にもいるけれど「抱一になりたい」とは何事?と首を傾げていると、続けて曰く
「皆さん、姫路城ですよ。世界遺産の、あの美しい白鷺城ですよ」
 はあ、でも藩主にならなかった抱一さんは殆どお国入りしてないですけどねえ、とやはり心の中で思っていると、
「姫路十五万石というのは、大大名なんですよ。その次男坊、これがいいんですねえ」
 …この辺で何となく話が見えてきたなと思いましたが(笑)、案の定続けて小林館長がおっしゃるには、名門譜代大名家に生まれて蝶よ花よと育てられ、しかも跡取りでない気楽な次男坊でやりたい放題。まあお兄さんの仮養子は取り消されたけれど、出家して窮屈な武家の身分から解放され、しかもその後も藩から毎年優に一億数千万円(!)のお手当をいただいて、お気に入りの遊女を身請けして好きな絵も存分に描いて、と滔々と並べ立て、最後に力を込めた「何て羨ましい人なんでしょう!」の一言で場内爆笑でした。…まったく、これだから男性は…(笑)
 ともあれ、実は出家後のお手当の具体的な金額については私も今まできちんと知らなかったので、一億数千万という金額には仰天しました。今風に言うならまさしく超セレブというか、一般庶民の感覚とはかけ離れたレベルの話で、これにはちょっと呆然。以前姫路展の際、細見館長が「日本三大放蕩息子の一人」(爆笑)とおっしゃったそうですが、確かにこれはそう言われても仕方ないかも…と大変納得してしまった千尋でした。(ちなみに後の二人は尾形光琳と伊藤若冲だそうです。笑)

 なおこれもよく知られた話ですが、お兄さんの仮養子が解消になった後、抱一さんは他の大名家から随分と「うちに養子に来てくれませんか」と申し込まれています。今回の美術展でも関連作の多かった土井利厚もそのうちの一人で、だから本人さえその気があれば一国一城の主になれたはずなのですが、何故か抱一さんはどのお話もお断りしてしまったのでした。(ちなみに土井さんは古河八万石) 『名門酒井家の二男坊』であることに本人なりのこだわりがあったのか、あるいは単に面倒な殿さま稼業なんて御免だったのかは不明ですが、どちらかといえば後者のような気がします…(笑)
 そうそうもうひとつ、今回調べて初めて知りましたが、この土井さんは「雪華図説」で有名な土井利位の養父にあたる人だったのですね。抱一下絵の贅沢な蒔絵を好んだという利厚と『雪の殿様』利位に、まさかそんな繋がりがあったとは驚きでした。

 ところでここで、年収一億数千万(千石五十人扶持)て一体どのくらいなんだろうと思い、ちょっと簡単な計算をしてみました。
 抱一さんが毎日のように吉原通いをしていたのは有名な話ですが、一方月に六回弟子に絵のお稽古をしていたそうなので、仮にその稽古日には吉原へは行かない(笑)と仮定します。で、365-(6×12)=293で、切りよく大体300日とすると、1日30万円×300日=9千万円で、その他身の回りの出費や絵の顔料代(しつこいようですが、抱一さんの使った絵具は大変上質の高価なものでした)等々も考えれば、大体いい線行ってるんじゃないでしょうか。
 というわけで、なるほどそのくらいかと一瞬納得はしましたが、これはもうお坊ちゃんなどという域もはるかに飛び越えているではないかと再び頭を抱えてしまいました。それでなくても抱一さんは小鸞女史を身請けした時にも相当な金額を出したはずで、日常生活ではそれほど?贅沢をしていなかったにしても、やっぱりとんでもない話です…

 なお余談ながら、一番弟子の鈴木其一は元町人出身ながら、酒井家の家臣である鈴木家へ婿養子に入ったことで大出世しました。年収は百五十人扶持、現代に換算すれば何と三千万円(!)というのですから、抱一がいかに目をかけていたかがこれひとつでも伺えます。そりゃあ多少代作にこき使われても仕方ないわ(笑)と思いましたが、其一ファンの皆様、いかがでしょう?


 さて話戻って、今回の講演で個人的に一番面白かったのが、抱一の後半生の住まいであった「雨華庵」についての解説でした。
 以前もちらっと触れましたが、この雨華庵については、抱一晩年の弟子の一人田中抱二が後年見取り図を書き残しています。しかし少々読みにくくて判らないところもあったのですが、今回丁寧に説明していただいて大変助かりました。この見取り図は「酒井抱一 (別冊太陽)」巻頭に大きな写真がありますので、興味のある方はぜひご覧ください。


  雨華庵見取り図
  田中抱二「雨華庵図」(紙本着色、個人蔵)


 まず右端に「雨花抱一尊師乃住居并(ならび)庭之図」と題し、「屋根不残(のこらず)茅フキ」とあります。当時の根岸一帯は田舎の隠居住まいのような暮らしを好んで居を構えた文人たちが多かったそうですが、「茅フキ」の言葉がそんな佇まいを彷彿とさせますね。
 ついでその下に、「明治十六未とし(ひつじ年) 秋夜ふと思ひ出て 七十二翁抱二図之」とあります。
 明治十六年(1883)のある秋の夜に当時72歳の抱二が、若き日に通った師匠抱一の住まいを遠い記憶を頼りに書いた、ということです。抱一が亡くなったのは68歳でしたから、既に亡き師匠の年も越えた我が身をふと省みて、自らの画業の出発点となった雨華庵を書き残しておこうと思ったのかもしれません。(注:雨華庵は慶応元年(1865)に火災で焼失したため、既にありませんでした)

 さて間取りは以前も触れたとおり、「画所(えどころ)」「茶間(?)」「座敷」「仏間」の四部屋、そして台所や庭に突き出た茶室などが書かれています。抱一亡き後、弔問に訪れた時の姫路藩主がその粗末さに驚いたという話をどこかで読んだ覚えがありますが、小林館長によるとこの画所だけでも二十畳くらいの広さだったそうですから、質素ではあってもけっして小さな家というわけではなかったようです。
 また「稽古日一六」とあり、これは今のような一週間の曜日がなかった当時、絵の稽古は一と六のつく日に行われていたという意味だそうです。右下隅に「上人様 御座所」とあるのが、抱一の座った場所ですね。

 一方庭ですが、こちらはどんな植物が植えられていたのかが、右上に大変詳しく書かれています。

  植木 大樹 赤松、かしは(柏)、ぬるて(白膠木)、にしき、あちさい(紫陽花)
     大樹 梅、ひのき(檜)、さゝさんか(山茶花)
     艸(草) はき(萩)、すゝき(薄)、女郎花、なてしこ(撫子)、かるかや、其外(そのほか)種々
  (画所前庭) 赤松斗(ばか)り
  (池) 魚 ヒ鯉(緋鯉)、金魚

 注目は庭の草が秋草ばかりであることで、たまたま抱二が秋の夜に思い出して書いたからでもないのでしょうが、抱一が好んで描いた秋草図の世界が目の前に浮かんでくるようです。座敷の縁側には「ヒサシアリ」と書かれており、稽古のない日のつれづれには縁側に腰を下ろして、庭の草花やそこに集う鳥、虫などの写生に筆を取ることもあったのでしょうか。
 また面白いのが、抱一の花鳥画にはあまり登場しない魚についても、池に鯉や金魚がいたと書かれている点です。抱一画で魚といえば、光琳を写した「琴高仙人」くらいしか思いつくものがありませんが、でもそういえば亀は割合好んでよく描いているなと思い出しました。雨華庵の池には、果たして亀さんもいたのでしょうか?

 なお抱二はこの見取り図の横に一句、「人あとに習ふて行や雪の道」と添えています。彼が抱一の下で学んだのは少年時代の数年きりでしたが、その彼にとっても雨華庵時代は晩年になっても忘れ難い思い出だったのでしょう。


 ところで小林館長は今回色々な裏話も聞かせてくださいましたが、中でも溜息が出たのは、昔東博にお勤めだった頃のお話でした。その頃はまだ光琳の「風神雷神図」と抱一の「夏秋草図」が切り離されていなくて、しかも当時学芸員だったので直に触ったこともあるそうなんです。(!) さすがに一般人には触るのは到底無理ですが、あの二作が切り離される前の時代をご存知とは…羨ましいです。
 またもうひとつおかしかったのは、今回の抱一展を開催するにあたって、「夏秋草図」が借りられなければやらないと決めていた、というお話でした。「だってあれがなかったら意味がありません!」だそうで、まったく私も同感ですが、しかし3館巡回というところがネックになって、無事許可が下りるまでちょっとばかり大変だったそうです。あまりこういう所には書かない方がいいかもしれないので詳細は省きますが、美術展の企画も色々大変なんですねえ。

 その他、最近話題の「琳派なんてあったのか?」という問題提起についての「血筋や子弟が繋がった流派としてはない、けれども琳派という「流れ」は存在したと思う」というご意見や、またアメリカの個人所有だという珍しい「月に女郎花図」など、興味深い話題が盛りだくさんの一時間半でした。前回の細見館長とはまた違う、研究者の先生らしい真面目なお話ぶりの中にも時々笑いを誘うポイントがあって、次の機会があればこちらもぜひまた講演をお聴きしたいです。


  
酒井抱一と江戸琳派の美学 日本の美術 (No.463)酒井抱一と江戸琳派の美学 日本の美術 (No.463)
(2004/11)
小林 忠

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P.S
 小林館長からの情報によりますと、来年何とNYでも酒井抱一展が開催されるそうです。日本からも唯一「波図屏風」が出るそうで、ということはそれ以外は在外作品ばかりというこれまた貴重なチャンスなので、お金とお時間に余裕のある方はぜひどうぞ。(私は多分無理ですが…^^;)

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風流公子の夢 酒井抱一と江戸琳派の全貌(1)

 2011/10/14(Fri)
 10月10日(月・祝)、待ちに待った千葉市美術館の「酒井抱一と江戸琳派の全貌」(2011/10/10-11/13)展へ行ってきました。

  酒井抱一展

 今回久しぶりに初日を狙ったのは、細見美術館の館長・細見良行氏と同研究員・岡野智子氏のオープニングトークがあったためです。これは先着順というので、頑張って開館の10時までに間に合うように早めに出かけて行ったら、既にかなりの人が開館待ちの行列を作っていて驚きました。東京ならともかく千葉の、しかも酒井抱一メインの美術展にあれだけの人が集まるなんて、嬉しい驚きでしたね。

 ともあれ無事開館、2フロアに分かれた会場をじっくりと見て回りましたが、いやあもう壮観の一言に尽きました。行っても行ってもひたすら抱一、抱一、抱一で、いかにも琳派的な作品だけでなく浮世絵あり仏画あり蒔絵ありと、内容も実に多彩です。あれほどの数のしかも多様な抱一をまとめて見ることができたのは、ファン暦16年の千尋にとっても初めての経験で、まさしく至福のひと時でした。
 また驚いたのが、今回初出展の作品が予想外に多かったことです。画集や論文で知っていたけれど見るのは初めてという作品はもちろんのこと、研究者も存在を知らなかったものが近年見つかって初お目見え、というものがぞろぞろあって、これには本当にびっくりしました。シリーズの一部が欠けている作品はある程度存在が予想できますが、今後も研究が進めばまだまだこうした新発見があるのかもしれませんね。
 さらに今回、姫路市美術館が主催に加わっているだけあって、最初のコーナーに酒井家に関する資料が数多く揃っていたのも大変興味深かったです。特に抱一のお兄さん・宗雅(忠以)の書や絵画は初めて見るものばかりで、中に「栄八(抱一)にお年玉をやった」などという微笑ましい内容のものがあったのにはちょっと笑いました。(でもこの頃の「お年玉」ってどんなものだったんでしょう?)

 さて、午後1時からのオープニングトークですが、こちらも1時間前から行列ができるほどの人気で大盛況でした。
 最初は細見館長と岡野氏が別々に話す予定だったそうですが、打ち合わせをしてみたら内容が殆ど被っていた(笑)そうで、結局岡野氏がメインで話しながら時折細見館長がコレクションにまつわるちょっとした裏話などを添える、という形での講演となりました。岡野氏の方は大琳派展でも講演を聴いたことがありましたが、細見館長の方は初めてでどんな感じだろうと思っていたのですが、いやー面白い方ですね! (笑) こうした講演にも慣れていらっしゃるのか、大変気さくな雰囲気でユーモアたっぷりに話される方で、今まで聴いたことがなかったのが残念なくらいでした。
 というわけで、特に印象に残ったものや面白かった話題をいくつかピックアップしてみます。

・日曜美術館の反響
 9月放送の酒井抱一の回で、姫路市美術館へもかなりの問い合わせが行ったそうですが、最も多かったのが「(尾形光琳の)風神雷神図は出るんですか!?」…だったそうです。(苦笑) いや、あれもそもそも俵屋宗達作のコピーなんだし、他はともかく「風神雷神図」だけは何よりもまず宗達を見た方がいいと思うんですが、何だかちょっととほほなエピソードでした。

・細見美術館と琳派展
 細見さんの琳派コレクションの充実ぶりは昔から知る人ぞ知るでしたが、細見美術館が開館した当時は伊藤若冲でさえまだ大ブレイクする前だったそうです。(※細見美術館はブレイク前から凄い若冲コレクションを所蔵してます) まして抱一は推して知るべしで、ちょうど10年前に初めて抱一をメインで取り上げた「琳派展IV 風流公子 酒井抱一展」は私も見に行ったので憶えていますが、その頃は殆ど反響がなかったと苦笑しておられました。(ちなみに開館当時、マスコミの取材で必ず訊かれたのが「印象派はないんですか?」だったそうです…^^;)
 確かに、私が今まで見てきた琳派展でも特に「酒井抱一」にスポットをあてたものは、細見美術館の他は出光美術館しか憶えがありません。(※今年の畠山記念館除く) もっとも私にとっては、1996年に日本橋高島屋開催の「日本の美「琳派」展」が細見コレクションの初見で、最初に細見美術館を訪れたのも2000年「琳派展III 京の琳派意匠―光琳から雪佳へ―」の時でしたから、結構長いお付き合いをさせていただいてる方に入るのかなと、個人的にちょっと嬉しかったです。 
 なお細見館長が「美味しいイタリアンレストランもあります」と宣伝して笑いを誘っていましたが、ここのレストランは本当に美味しくてお勧めです。私も細見へ行く時は必ず食事も一緒と決めているのですが、ただ時々結婚式の二次会などで貸し切りになっていることもあるので、お日柄のよろしい時は要注意なんですよねー。

・細見館長と酒井抱一
 細見館長はどちらかといえば鈴木其一のファンでいらっしゃるようですが、抱一の作品もどれもとても上品で、「この人は一生、綺麗なものしか見なかったんじゃないかという気がする」とコメントされていました。また抱一が殆ど水墨画を描いていないことにも触れ、曰く「網膜にカラースライドが入ってたんじゃないか」だそうです。(笑) 抱一作品に水墨画がまったくないわけではないですし、大胆な華麗さというならむしろ宗達や光琳の方がはるかに派手ですが、とはいえ確かに抱一の描く世界は「典雅」という言葉がぴったりくる優雅な華やかさも魅力ですね。

 なお近年やっと知名度の上がってきた抱一の中でも、細見美術館で一番人気の作品は実はその水墨画風の「白蓮図」なんだそうです。以前参加した大琳派展オフでも好きだという声が多く聞かれましたが、細見館長も「地味に人気が上がってきていつの間にかうちのスター作品になっていた」と笑っておられました。琳派と言えばもっと華やかなイメージが多く、また近年の若冲ブームに見られるようにビビッドな作品が人気の主流かと思っていましたが、こうした楚々とした味わいの作品が愛されるのもやっぱり日本人の好みの傾向なんでしょうか。私もこの一幅は特に好きな抱一作品のひとつであるだけに、ちょっとほっとしたような嬉しさがありました。(すみません若冲やっぱり苦手なんです…)
 ちなみに私がこの絵と最初に出逢ったのは、確かBunkamura開催の「琳派空間」(1999)です。あの時も華やかな金屏風がずらりと並ぶ中、ぽつんと佇むように展示されていたこの清らかな純白の蓮はとても目を惹かれました。今回の抱一展では仏画コーナーに敢えて配してみたとのことで、細見館長も実際に仏事でお使いになったことがあるそうです。


  白蓮図(酒井抱一)
  「白蓮図」。命の流転を清浄に描いた端正な一幅。


・細見館長と鈴木其一
 細見館長はマスコミの取材でよく「若冲以外で、今後ブレイクしそうな埋もれた画家はいませんか?」と訊かれるたびに、鈴木其一を推しているそうです。これは私も前々から思っていたことだったので、おおやっぱり、と大変心強い賛同者を見つけて嬉しくなりました。(ただ私は断然師匠の抱一一筋なので、プッシュする方は今後も細見館長にお任せします。笑) 
 またこれは琳派研究者(特に江戸琳派)の皆さんがよく歎くことですが、鈴木其一はその名前すらも埋もれていた時代に随分海外流出してしまい、特に大作の屏風絵は殆ど日本に残っていません。私の大好きな「朝顔図屏風」も現在はメトロポリタン所蔵ですし、こうした美術館に入ってしまったものはもう殆ど取り戻しようがないですが、細見館長はそうした流出作品を見つけるとできるだけ買い戻しているそうです。こうした活動はなかなか一般人にはできないことだけに、これからも細見美術館さんには頑張ってほしいと心から思いました。(でも細見館長、其一が抱一の没後「爆発しちゃった」という表現はこちらの方が爆笑でしたよ。笑)

 以上、約1時間半ほどでしたが大変内容も濃く、また楽しい講演でした。なお講演会は今後予約制で3回予定されており、第1回の「酒井抱一の雅俗」(千葉市美術館館長・小林忠氏)はめでたく申込当選の通知が来ましたので、また張り切って行ってきます!

 なお美術展は途中に大きな入れ替えがあり、代表作「夏秋草図屏風」は後半11/1から登場です。なお同一期間に出光美術館所蔵の「夏秋草図下絵」も出るそうなので、もしかすると初めて(!)下絵と本作を並んで見ることができるかなとちょっとどきどきしてますが、さてどうなんでしょう…?

P.S
 今回、ポスターは大・中・小の三種類があります。荷物が多かったのでどうしようかと思いましたが、結局全部買ってしまいました。(笑) 図録も重くて帰りがちょっと辛かったですが、抱一尽くしで幸せでした。(^^)


 参考:酒井抱一関連資料・リンク集

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