一覧表の功罪

 2011/08/20(Sat)
 先日開設した賀茂斎院サイト「葵の御所」ですが、これを作るにあたって随分色々面白い発見がありました。その成果は考察にて書いていますが、あちらはやや堅苦しくなってしまったので、ここではもうちょっと砕けた(笑)お話など。

 いつの時代も研究熱心な方というのはいるもので、特に賀茂斎院に絞った本は私の知る限り存在しませんが、歴代の斎宮・斎院をまとめた一覧表と言うのはかなり昔からあったようです。塙保己一の「群書類従」には『斎宮記』『賀茂斎院記』がありますし、最近では以前にも紹介した『平安時代史事典』『歴史のなかの皇女たち』などが必見の資料ですね。とりわけ『歴史のなかの~』は斎宮・斎院だけでなく、歴代すべての内親王・皇女を網羅した一覧表も掲載されているので、大変ありがたい存在です。

  
歴史のなかの皇女たち歴史のなかの皇女たち
(2002/11)
服藤 早苗(小学館)

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 とはいえ、この一覧表というもの、便利な一面ちょっと曲者でもあったりします。

 例えば賀茂斎院の場合、伊勢斎宮と比べて女王(親王の娘)が少ないとよく言われます。事実その通りで、『歴史のなかの~』の一覧を見ると、9代直子女王と23代斉子女王の二人しか載っていません。(厳密には30代怡子も輔仁親王の娘ですが、彼女は特例的に内親王宣下を受けていたようです)
 ところが実際には、斎院に「選ばれた時」女王だった人、というのが他にもいたのです。

 2代時子内親王と8代穆子内親王は、斎院になった当初は父親がまだ天皇ではなく、よって「女王の斎院」だったわけです。しかし一覧に掲載されているのは彼女たちのいわば最終履歴?で、いつ生まれたとかいつからいつまで斎院をつとめていたのかというデータはあっても、いつ内親王宣下を受けたのかなんてところまでは載せていないので、一覧を一見しただけではそれが判らないのですよ。
 そしてさらに実はもう一人、18代娟子とその姉の斎宮良子も卜定当時は女王だったのです。ただこの二人の場合、父後朱雀天皇は既に即位しており、しかも卜定から数日後に内親王宣下を受けているので、「女王の斎宮・斎院」だったのはその間だけというおかしなことをやっていたのでした。何だこれは、と思わず首をひねり、誰か気がついた人はいないのかなあと思っていたら、その後斎宮歴史博物館さんの「斎宮千夜一夜」にて同様の指摘があり、まさに我が意を得たりの思いでした。(先を越されてちょっと悔しかったけど。笑)

 参考リンク:「良子の妹、賀茂斎院・娟子内親王」(斎宮歴史博物館

 ともあれ、この程度ならちょっと調べれば簡単に判ることですが、もっと厄介な問題がありました。
 歴代斎院一覧には斎院の父母についても掲載されていて、父親は当然殆どが天皇ですが、ここで重要なのは母親の方です。『歴史のなかで~』の一覧は母親の名前しか載っていないのですが、ちょっと日本史に詳しい人なら当然、これは皇后、これは女御、とすぐに身分も判ります。そしてそういうところから見て、「斎院は斎宮に比べて母親の身分が高い傾向がある」という指摘が出てきたりするのでした。

 ところがこれもある意味罠と言うか、一覧表では斎院になった人の名前は判っても、彼女と同時期に誰と誰と誰が候補であったか、なんてことは当然まったく判らないのです。

 そもそもこの問題を意識したのは、以前斎宮女御徽子女王(伊勢斎宮)について調べていた時、とある論文の中にあった一節がきっかけでした。問題の論文がどれだったか忘れてしまったので記憶が曖昧なのですが、確かそこには「徽子が卜定された当時(936年)斎宮候補は8人(?)いて、他に内親王もいた中から敢えて徽子女王が選ばれた」というようなことが書いてあったのです。ただその8人の名前までは載っておらず、はて誰と誰と誰だったのだろう、と疑問に思い、当時生存していた未婚の内親王と女王を調べてみました。
 というわけで、以下がその結果です。(※年齢は数えです)

 936年の斎宮候補
  醍醐天皇皇女
   ・敏子内親王(31歳、母・更衣源周子)
   ・普子内親王(28歳、母・更衣満子女王。源清平に降嫁)
   ・靖子内親王(22歳、母・更衣源封子。藤原師氏に降嫁)
   ・康子内親王(18歳、母・皇后藤原穏子。954年頃、藤原師輔に降嫁)
   ・英子内親王(16歳、母・更衣藤原淑姫)
  その他親王女
   ・熙子女王(13-14歳、父・皇太子保明親王。937年、朱雀天皇に入内)
   ・恵子女王(12歳前後?、父・代明親王。藤原伊尹(924生)と結婚、長女懐子は945生)
   ・荘子女王(7歳、父・代明親王。950年頃、村上天皇に入内)
   ・厳子女王(6歳未満、父・代明親王。藤原頼忠(924生)と結婚、長女遵子は957生)
   ・徽子女王(8歳、父・重明親王。948年、村上天皇に入内)
   ・昭子女王(7歳以上?、父・元平親王。藤原兼通(925生)と結婚、長男顕光は944生)

   注1:昭子女王の父は有明親王(910生)とも言われるが、昭子の子の年齢等から見て元平を採用。
   注2:この他にも褰帳女王として記録の残る女王が数名いるが、いずれも身元が確定できないので除外。

 以上11人のうち、普子内親王と靖子内親王は年齢から考えて既婚の可能性が高いので、それを外すと徽子女王+8人ということになります。多分私が読んだ論文も同じような結論に至り、その結果上記の記述になったと思われるのですが、さらによくよく調べてみて驚きました。

 徽子女王が卜定されたのは936年9月12日のことですが、その前年、935年冬に醍醐天皇更衣源周子が亡くなっています。これにより当時斎宮だった娘雅子内親王が母の喪により936年3月7日に退下しているのですが、ということは同母姉妹の敏子内親王も、同じ理由で(親の服喪は13ヶ月)候補からは外れていたと考えられます。(ただし31歳という年齢は当時高齢で、そもそも候補に入っていなかった可能性もありますが)
 さらにこの「母の喪中」というケースはこれだけではなく、代明親王妃の藤原定方女がやはり936年3月18日に亡くなっていて、上記の代明親王の3人の娘たちのうち、少なくとも荘子女王は定方女が産んだ娘であることがはっきりしています。となればこれもアウトで、これで候補は7人となりました。(なお荘子の姉妹2人は母が不明ですが、同母の可能性も捨てきれないので、もし同母なら5人まで減ります)

 ところがところが、まだまだ厄介なことに話はここでは終わらないのです。
 上にも挙げた通り、保明親王の娘熙子女王は937年2月、朱雀天皇に入内しています。当然それは早くから内定していたでしょうし、入内の仕度だとて半年足らずで慌ただしく行ったとも思えませんから、断言はできませんが彼女も事実上既に候補外だったと考えていいでしょう。
 さらにもう一人、候補の中で唯一皇后所生の康子内親王も、当時既に二品に叙されて内裏に住んでおり、しかも母穏子が当時いまだ健在であったことを考えれば、やはり候補外だった可能性があります。まだ定説とまでは行っていないようですが、当時遠い伊勢へ送られる斎宮に選ばれることは名誉よりもむしろ避けたいとする風潮があったようですし、とすれば幼帝朱雀を支えて宮廷への影響力も大きかった皇太后穏子が愛娘の卜定に賛成したとは考えにくいのはないでしょうか。(ちなみにこれ以前の斎宮で、皇后所生の皇女であったのは平安遷都以前の酒人内親王のみ)

 というわけで、この2人も除外すると、結局斎宮候補は5人まで減ってしまいました。

 936年の斎宮候補
   ・英子内親王(16歳、父・醍醐天皇、母・更衣藤原淑姫)
   ・恵子女王(12歳前後?、父・代明親王)
   ・厳子女王(6歳未満、父・代明親王)
   ・徽子女王(8歳、父・重明親王)
   ・昭子女王(7歳以上?、父・元平親王)


 以上の通り、最終的にこの時候補であった4人のうち、「内親王」は英子内親王ただ一人しかいなかったということになります。しかも残り3人の女王はすべて摂関家の子弟たちと結婚し、英子は結局10年後の徽子退下(母の喪による)で今度こそ斎宮に選ばれる運命でした。(ただし同年死去のため伊勢には下向せず)

 以上の結果から、少なくともこの936年の卜定に限っては、内親王が大勢いるのに敢えて徽子女王を選んだとまでは言えません。しかも雅子内親王が退下した後、最初に選ばれたのは醍醐天皇皇女の一人斉子内親王だったので、逆に徽子始め4人?もの候補となる女王がいたにもかかわらず、始めは内親王の斎宮が選ばれていたことになります。
 しかしこの斉子内親王、卜定直後の5月11日にあっけなく急死してしまっており、その結果急遽再び卜定を行って選ばれたのが徽子女王だったのです。ついでに言えば徽子退下の946年当時、英子内親王の他に候補になりそうな人物はやはり女王4人がいましたが、この時も結局は内親王の斎宮が優先的に?選ばれていたのでした。(ただしこの時も英子内親王が急死してしまい、その後選ばれたのは徽子の妹悦子女王だったので、言うなれば徽子・悦子姉妹は共にイレギュラーな斎宮だったわけです)

 こうして10世紀以降の卜定の背景を調べていった結果、タイミングによってはそもそも候補となる内親王や女王の数自体が非常に少ない場合があるのが判り、大変面白かったです。ただ伊勢斎宮のみに絞った考察はサイトの方で挙げることはないと思いますが、当然斎院を選ぶに当たっても大いに関係してくることなので、その辺はまた日を改めて。

追記:
 なお昭子女王の父元平親王は陽成天皇の皇子ですが、面白いことに陽成天皇の娘の内親王や孫娘の女王たちの中で、斎宮・斎院になった人物は一人もいません。これ以前にも年齢的に考えてちょうどいい候補は何人もいたはずなのですが、特に光孝天皇以降の斎宮・斎院に清和天皇の子孫が一人も含まれていないあたり、これも何やら作為的なものを感じるような…?

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