読めぬなら読ませてみよう

 2010/03/21(Sun)
 平安時代ファンにとって欠かせない資料のひとつに、『平安時代史事典】という本があります。
 実に分厚くてお値段も立派で、しかも悲しいかな現在は既に絶版なのですが、幸いにして近所の図書館で所蔵してくれているので、暇な時にとりとめなくぱらぱらめくってみるのも楽しいものです。ただこの事典、女性の名前を探すのにはちょっと大変なのですよね。
 昔学校の日本史などでは、例えば「藤原定子」を「ふじわらのていし」、「藤原彰子」を「ふじわらのしょうし」等と習いましたが、この『平安時代史事典』は「藤原定子」は「ふじわらのさだこ」、「藤原彰子」は「ふじわらのあきこ」となっているのです。元々昔の女性名を音読みするのは、何のことはない「本当はどう読んでいたのか判らないので、便宜上音読みで統一した」という理由なのだそうで、だから当然音読みは本来正しくないのですが、慣れない初心者にはいきなり訓読みでこられてもそれはそれで大変です。それでも「定子」「彰子」くらいだったらまだ何とか読めますが、私の好きな斎宮女御なども「徽子」ってちょっと読めませんよね。
 前置きが長くなりましたが、そんなわけでこの『平安時代史事典』、多少慣れてきた今でもやっぱり苦労させられる本なのです。まあそれはそれでいいのですが、最近またちょっとぱらぱらめくって遊んでいた時に、ふと気になる項目に行き当たりました。

 一般的にはあまり知られていませんが、10世紀後半頃、村上天皇の皇女の一人に「資子内親王」という人がいました。音読みでは「ししないしんのう」とするこの人物も、『平安時代史事典』は「すけこないしんのう」としています。確かに同時代には「藤原実資(ふじわらのさねすけ)」という有名な人物がいますし、それ以外の人名も殆どが「資=すけ」と読んでいるので「すけこ」でもおかしくないのですが、ふと隣を見てあれっと思いました。
 そこにはもう一人、やはり村上天皇の皇女で「輔子内親王」という人の項目があったのですが、これも読みはやっぱり「すけこないしんのう」だったのです。

 姉妹でまったく同じ読み方をする名前なんて、あったんでしょうか?

 まあ、当時の「人名」というものは今とは大分感覚が違いまして、高貴な人ほど本名はむやみやたらに呼んだりしませんでしたから、ましてや天皇の娘ともなれば実際に本人へ向かって名前で呼びかけることはなかったでしょう。しかし裏を返せば、滅多に口に出してはならないくらい、名前というのは大事なものでもあったはずです。それがいくら字が違うとは言っても、赤の他人ならともかく姉妹で同じ読みの名前をつけられるなんて、やっぱりちょっと変ではないでしょうか。
 ちなみに輔子内親王と資子内親王はどちらも中宮安子の産んだ皇女で、年も僅か2歳差の第4子と第5子(村上天皇の皇女全体で言えば女七宮と女九宮)です。二人とも中宮の産んだ皇女ですから、内親王宣下を受けて命名されたのもきっと早かったでしょう(ちなみに輔子・資子の同母妹である選子内親王は、誕生4ヶ月後に宣下・命名されています)。
 ついでながら、同じく村上天皇の皇女の承子内親王・緝子内親王の二人も「つぎこないしんのう」と同じ読みになっていますが、こちらは母親が違う上に長女の承子内親王は僅か4歳で夭折しています。この場合は既に亡くなった姉と同じ名前になるわけで、それならまあ今でもなくはないケースですが、輔子・資子の二人はどちらも40以上まで生きていますし、やっぱりおかしいですよねえ。

 ところで、「輔」の字はどう頑張っても「すけ・たすく」くらいしか訓読みはなさそうですが、「資」の方は他にも「ただ・とし・やす・よし・より」等々、色々あるようです。「やすこ」「よしこ」はやはり同訓の姉妹がいますが、それ以外の「ただこ・としこ・よりこ」だったら重複する姉妹もいないし、「すけこ」よりは可能性は高いのではないかと思うんですが、どうでしょう角田先生?

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夢の巡り逢い

 2010/03/13(Sat)
 最近東京国立博物館を訪れるたび、平成館1階の考古展示室へ通うのがすっかり習慣になってしまってます。もちろん陳列内容がそう頻繁に交代するわけではないので、せっせと通っても会える顔触れは毎回同じなわけですが、全国各地から出土した貴重な品ばかりなので何度見ても飽きません。中には今現在千尋が住んでいる場所の近所から出たものもあるのですが、あいにくと保存状態が悪く迂闊に動かすことはできないとかで、もう長いこと里帰りもしていないらしいのですね。私などは毎週のように東京に行くので頻繁に見られますが、地元の人が気軽に見ることができないというのは何だか皮肉な話です…(なので以前話題に出た冠なども、復元だけでなく現状の現品をそっくりそのまま複製した品も意外にあるのでした)

 さて目下、豊富な展示品の中でも毎回特に目を引かれるひとつが、安閑天皇陵出土と伝えられるペルシャ由来のカットガラスの碗です。

  伝安閑天皇陵出土碗
  (伝安閑陵出土・ガラス碗。重要文化財)
  参考リンク:東博館蔵品詳細

 日本人なら誰でも一目で「あ、正倉院の白瑠璃碗にそっくり!」と思うだろうこのガラスの碗、他にも似たデザインのものが京都の上賀茂神社や沖ノ島の祭祀遺跡からも出土していますが、保存状態の良好なものでは多分一番白瑠璃碗に似た品です。ちなみに岡山市立オリエント美術館にもそっくりなガラス碗があるのですが、こちらは生産地と思われるイラン出土で、長年の風化の結果、とてもガラスとは思えない姿に変わり果ててしまっているのですよね。もしああいう出土品しか知られないままだったなら、かつての美しい輝きを持つ姿を想像することはちょっと不可能だったかもしれないと思うと、白瑠璃碗がいかに貴重な存在かを改めて実感させられます。

 ・参考リンク:白瑠璃碗(2008年第60回正倉院展サイトより)
  ※一見そっくりですが、よーく見ると安閑陵の碗は円文、白瑠璃碗は亀甲文です。

 で、古墳から出土したガラス碗というのに興味が湧いてネットで調べていたところ、作家の井上靖氏が「玉碗記」という短編小説で、このガラス碗と白瑠璃碗を題材にしているということを知りました。しかも作中では、二つの碗はかつて安閑天皇とその后が対で持っていた品ではないかと語り(ペアグラス?笑)、その後長い歴史の中で離ればなれになってしまたのが現代に至ってようやく再会を果たすという、何ともロマンチックな筋書きになっているのです。なお二つの碗の再会は作者の創作ではなく実際にあった出来事で、話にある通り現場には限られた研究者のみが立ち会ったそうですが、叶うものなら私だって本物の二つの碗が並んだところをこの目で一度見てみたいですよ!!

 …と、そんなことを思いながら本館のミュージアムショップにふらりと出向いたら、カウンター脇のガラスケースの中にまさにその二つのガラス碗の復元レプリカがばっちり並んでいました。(笑) いや、今までにも数え切れないくらい通って何度も見てるのですが、本物二つが並んだところを見たいなあなどと思っていた矢先だっただけに、一瞬ちょっと不意を突かれて慌ててしまったのです。まあ本物の白瑠璃碗や安閑陵ガラス碗と対面する感激にはさすがに及びませんが、でもこんな感じかな、と思うとちょっと楽しかったですね。
 ともあれ、ひびを繋いだ安閑陵の碗はもちろん、よく見ればさすがにややくすんだ白瑠璃碗とは違って、新品のつややかなガラス碗は1000年以上昔はこうだったのだろうと思わせて美しいの一言に尽きます。こんな品を手元に置いて楽しめたら素敵だろうなあと思いますが、片や73500円、片や84000円(!)というお値段にはさすがに手が出ないのでした…とほほ。(というか、私としてはどうせならむしろ紺瑠璃杯の方が欲しいです。笑)

 ・参考リンク:復元白瑠璃碗販売サイト(根本硝子工芸)

  
正倉院ガラスは何を語るか - 白瑠璃碗に古代世界が見える (中公新書)正倉院ガラスは何を語るか
白瑠璃碗に古代世界が見える (中公新書)

(2009/10/26)
由水 常雄

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 そうそう、もうひとつ思い出しましたが、紺瑠璃杯と新羅の「金銅舎利器」(大邱博物館所蔵)も一度並べてみてみたいガラス碗です。紺瑠璃杯のあの深いコバルトブルーと銀の台座の組み合わせも綺麗で大好きですが、新羅の舎利器も華やかな金銅の台座にガラスの明るいグリーンが映えてとても華やかなのですよね。
 …とはいえ、こちらのペアは揃って見るどころか、そもそもそれぞれ単品ですらいまだに実物を拝見できておりません。(涙) もうかれこれ10年以上、他の何よりこの紺瑠璃杯を見たくて毎年欠かさず正倉院展をチェックし続けているのですが、去年のご即位20周年や皇室の名宝展にも出なかったし、果たして生きているうちにお目にかかれるのでしょうか…(溜息)

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