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みささぎ巡り 神さまの陵

 2009/11/30(Mon)
 大分話は遡りますが、7月の皆既日食ツアーの際、日食前日の7/21に鹿児島空港の近くを軽く観光しました。運よくレンタカーを借りられたので、では霧島神宮へ行ってみようかと車を走らせている途中、ふと道路案内の一つに目がとまったのです。

  「高屋山上陵まで××km」

「高屋山上陵って何だろうね?」「陵ってついてるから、皇族関係のお墓じゃないの?」等と一同首を傾げ、それではと携帯でネット検索をしてみてびっくり。何と、問題の「高屋山上陵」の主は火遠理命、つまり海幸山幸の物語で有名な山幸彦で、神武天皇のお祖父さんだったのです。「え~、そんな神話の中の人?のお墓なんてあり~!?」と言いながらも、それは面白そうだというわけで、雨の中急遽陵へ向かうことになったのでした。

 そんなわけで、事前の予習も全くなく、従ってどんな御陵なのかもよく知らないままにいきなり現地を訪れたのですが、まず入り口でまたまたびっくり。

  高屋山上陵1
  (高屋山上陵入り口。左手に大きな石碑と案内板あり)


 この急勾配の階段、何しろ百段近くありまして、いやもう登るだけでも大変だったのなんの。一同ぜえはあ言いながら何とか登り切り、さらにその先をしばらく進むと、お馴染みの看板と鳥居型の門のある遙拝所が見えてきました。

  高屋山上陵2
  (高屋山上陵遙拝所。ちょうど雨が止んで、いい雰囲気でした)


 山上陵という名前だけあって凄いところにあるものですが、すぐ側の小さな事務所にいた管理人の男性にお話を聞いてみると、何とこの遙拝所のさらにずっと上に問題の陵があるのだそうです。詐欺だー!と内心思いつつ(笑)、管理人さんからさらに色々詳しいお話を伺い、自作だという丁寧な説明書までいただいてしまいました。

 で、旅行から戻った後で改めて調べてみたところ、瓊瓊杵尊の可愛山陵、この火遠理命の高屋山上陵、そして鵜草葺不合命の吾平山上陵の三つを合わせて「神代三陵」と呼ぶのだそうです。神武天皇の曽祖父・祖父・父の三代にわたることからそう呼ばれているのは判るのですが、歴史上の人物くらいならともかく神さまの陵まで大真面目に認定して今もそのままでいるなんて、現代の話とは思えないですよね。
 ともあれ、天孫降臨神話で有名な九州ならではの思いがけないこの出会いがある意味きっかけとなって、2009年後半はやたらと古墳巡りで駆け回る羽目になりました。まあ元々それなりに興味のあった分野ですし、奈良の主な大型古墳は一通り制覇したものの、大阪は昔大仙古墳(仁徳天皇陵)を一度訪問したきりなので、今度は他の古墳や博物館も見に行くぞー!

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黄泉の国の金と銀

 2009/11/23(Mon)
 11月22日(日)、茨城県水戸市の茨城県立歴史館へ「かがやきにこめた権威と荘厳 金と銀の考古学」(2009/10/10-11/23)を見に行ってきました。

  金と銀の考古学

 2009年は古墳絡みで色々と当たり年でしたが、その最後を締めくくることになったのがこの特別展です。東京ならいざ知らず、地方の美術館や博物館の展示となると近場でもない限り大概は見逃してしまうのですが、今回は偶然チラシを目にして会期終了ぎりぎりに何とか駆けつけることができました。
 で、私は今回初めて知ったのですが、元々茨城県立歴史館は上のチラシにも載っている「金銅製馬型飾付冠(行方市三昧塚古墳出土)」を所蔵している博物館です。本物が一番手に展示されていたのはもちろんですが、会場入り口に往時の姿を復元したまばゆい金色の冠が展示され、さらに同じく復元の冠や飾り帯、剣などを身につけた豪族のマネキン(笑)も珍しくてとても目を引きました。純金でこそないものの、あれだけの華やかな金色を全身に纏った姿は古代であればなおのこと、眩いばかりの威厳として人々の目に映ったことでしょうね。

  金と銀・入口
  (会場入り口。右端に展示されているのが復元の冠)

  金と銀・豪族のマネキン
  (当時の豪族の人形。剣もちゃんと抜けます。笑)


 ともあれこの三昧塚出土の冠、よく見ると本体の上にずんぐりした馬が並んでいます。一風変わったデザインですが、何だか愛嬌があると言うか、群馬の金冠塚出土の新羅風冠とはまた違った趣で面白かったですね。

  金と銀・三昧塚出土冠
  (金銅製馬型飾付冠。お馬さんの行列が可愛いかも?)


 なお、古墳から出土した金銅製冠はこれだけではなく、他にも九州からは熊本県江田船山古墳の冠が二つ、福井県から二本松山古墳の冠がひとつ、また栃木県小山市の古墳からも冠ひとつが展示されていました。ただし熊本と福井の冠はすべて複製でしたが、江田船山古墳の冠はその前の週に東博で実物を見ていたので、(「本物」を代理と言うのも変ですが)写真を以下に載せておきます。


  江田船山古墳の金銅製冠
  (江田船山古墳出土冠。左が百済風の金銅製透彫冠、右が伽耶風の金銅製冠)

 また手持ちの写真がないので載せられませんが、福井の冠は現代のお雛様によくつけている金色の釵子とそっくりで、この形ってこんなに古いものだったのかと驚きました。それに対して栃木の冠は、こう言っては何ですが某「太陽の塔」そっくりのシルエットで、連想した瞬間つい笑ってしまいました。


 ところでユニークな形の冠と言えば、奈良の藤ノ木古墳も忘れてはいけないひとつですね。今回は残念ながら冠の展示はなかったものの、あの有名な金色の馬具(一式すべて国宝)の部品の一部や鞍の複製なども展示されていました。
 藤ノ木古墳の出土品は以前一度見たことがあるのですが、何しろかなり昔の話で大分記憶もあいまいだっただけに、一部分とはいえ再会できて感激でした。また群馬県からは高崎市の綿貫観音山古墳出土品、千葉県からはその名も美しい金鈴塚古墳からの出土品が多数出展していて、これだけまとまった数の品を一度に見られるのはなかなか貴重な機会だったのではないかと思います。また復元品も思った以上に多く、本物でないのは正直ちょっと残念ではありましたが、あれだけたくさんの復元を見られたのもこれはこれで珍しく面白い体験でした。

 中でも面白かったのが飾履で、実はこれまた東博で既に江田船山古墳出土の金銅製飾履(重文)の実物を見ていました。ところが今回は大阪の近つ飛鳥博物館・群馬のかみつけの里博物館からそれぞれ復元品が出展されていて、これが何と靴の表だけでなく、裏にも一面びっしり歩揺が飾られているのです。これってどう見ても歩けるとは思えないよねえ、というような代物でしたが、そういえば東博で見た実物は、肝心の歩揺が殆ど取れてしまっていたのですよね。恐らく儀式用などで特別に作られたものだろうとのことでしたが、なるほど、これは確かに実用には不向きだわ(笑)と大いに納得させられました。

  江田船山古墳・飾履
  (江田船山古墳出土・飾履。かすかに残る金色が往時を偲ばせます)


 そして今回、最も数も多く内容でも圧倒されたのは、何と言っても鉄剣です。金や銀で華やかに飾られた剣が実物・複製合わせて何と26、その他部分品のみのものも合わせれば30を越えるという凄さで、いやもう壮観でした。中でも象嵌銘大刀は、複製とはいえ石上神宮の七支刀、稲荷山鉄剣、江田船山古墳の銀象嵌銘剣等々の錚々たる顔ぶれで、また本物が展示されていた千葉の王賜銘鉄剣は嬉しいことに今回初めて実物を見ることができました。東大寺山古墳の剣のみはまだ実物を見ていませんが、これも東博所蔵とのことなのでいずれ対面できるのを楽しみにしています。

 なお後半にはずっと時代下って仏教関連の展示も色々あったのですが、とにかく今回は古墳マニアなら泣いて喜ぶだろう貴重な出土品の数々を一度に見ることができて、それほど広い会場ではなかったのですが満腹の大満足でした。同時に東博平成館の常設展を何度も思い出し、平常展示であれだけの内容をさらっとしてのける東博の凄さにも改めて溜息が出ましたが、こんな風にじっくりみっちり堪能できるのも特別展ならではの楽しみですね。今年は群馬の埴輪と茨城の金と銀でたっぷり楽しませてもらったので、来年またどこか地方の博物館等で素敵な展示があることを期待します。

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みささぎ巡り 馬肥ゆる上毛野国編・1

 2009/11/14(Sat)
 2009年11月7日、前橋市の古墳群巡りへ行ってきました。
 群馬県、即ち古代の上毛野(かみつけの)国は関東でも古墳の多いところで、市内の何ということもなさそうな場所に時々ぽっと古墳があって驚かされます。市内北の大渡橋の近くにも、古墳時代末期の立派な方墳がいくつかあるのですが、今回は古墳時代前期の前方後円墳が多い市内南部・通称広瀬古墳群を訪れました。
 この辺りは現在残る大型古墳のほかにも、かつて100以上もの古墳が点在していた地域だそうです。もっともその殆どは既に潰されて住宅地になってしまっていますが、元古墳の上に住んでいるってどんな気分なんでしょうね?(笑)

 まずスタートは、天川二子山古墳と呼ばれる前方後円墳です。

  天川二子山古墳・1
  (天川二子山古墳遠景)

 6世紀頃に作られた全長104mのなかなか大きな古墳で、埋葬部分は未調査のため確認されていませんが、ということはもしかすると未盗掘古墳の可能性もあるのでしょうか。古墳時代後期のものですから、多分横穴式石室タイプだろうとのことで、今では高い木々が古墳の上に鬱蒼と茂っていました。

 ところで、天川二子山古墳は古墳群の北西端の方に位置しており、JR前橋駅からも近いとあってか、近隣の古墳群についての案内板も設置されていました。ちょうどいいとデジカメに撮らせてもらい、おかげで後の古墳巡りも大変助かりましたが、かなり大雑把な地図だったので場所によってはちょっと迷いましたね。

  前橋古墳地図
  (古墳群案内図)

  天川二子山古墳・2
  (二子山古墳周辺)


 続いて二番目の古墳は、天川二子山から少し南西へ行った八幡山古墳です。

  八幡山古墳・2
  (古墳地図。左から八幡山古墳、天神山古墳、飯玉神社)

  八幡山古墳・1
  (八幡山古墳遠景)

 ここはこの近辺の古墳群中唯一の前方後方墳で、全長130mとこれまた大きく立派な古墳です。4世紀後半頃作られたそうで、そういえば関東は前方後方墳が多いそうですが、実物を見たのはこれが初めてでした。周囲には堀がめぐらされていたことも判っており、これまた埋葬部は未調査ですが、古墳時代前期のものなので頂上の竪穴式石室であろうとのことです。ここも大きな松が古墳の上にたくさん茂っていて、特に後方部は斜面の傾斜もきつく階段もないので登るのがちょっと大変でした。


 さて三番目、天神山古墳は八幡山古墳からすぐ近くです。

  天神山古墳
  (天神山古墳中央部)

 元は立派な全長129mの前方後円墳なのですが、残念なことに墳丘の大半が取り壊されてしまって、後円部中央のほんの一部がかろうじて残るのみです。しかし大したことのない古墳なのかといえばとんでもない話で、ここは発掘調査で副葬品の鏡や鉄剣などが見つかったことで有名な古墳であり、現在出土品は東京国立博物館に展示されているくらいです。この1週間後に東京へ行った際、平成館の常設展示室で出土品を見てきましたが、こんなに立派な古墳だったのに全体を保存しておけなかったというのは非常にもったいなく残念でした。

  天神山古墳出土品
  (天神山古墳出土品・鏡と紡錘車)

 なおこの鏡ですけれど、二段目の右と中央の鏡は2~3世紀に中国で作られたものだそうで、そんなものが4世紀の群馬にどうやって伝来したのか、ちょっと驚きです。日本はまだ大和政権がやっと本格的に力をつけてきた黎明期、群馬のような辺境(と言っては失礼ですが)にどこをどう通って運ばれてきたのでしょうね?


 ともあれ、お次はさらに南西へ進んだ先、飯玉神社です。
 この神社はちょうど古墳群のほぼ中央に位置しており、何とお社が古墳の上に鎮座しているそうです。まあ考えてみれば、古墳の上にその後神社が祀られた例はよく聞きますが、それにしてもここの社殿はかなり大きく立派なのでちょっと驚きました。神社そのものも平安時代に遡る古い由緒あるお社らしく、祭神は保食命で、周囲がすっかり団地になった現在も地元の人たちに篤く信仰されている様子が伺えます。

  飯玉神社
  (飯玉神社境内)


 ここから先はちょっと表通りから外れ、古墳も段々小規模になってきました。
 次の亀塚山古墳は5世紀頃の前方後円墳(帆立貝式)で、全長60mとやや小さいながら、高さは6.5mあり、頂上に登れば結構それなりにいい眺めでした。裏通りの住宅街の中にぽつんと小さな公園のようにある古墳で、おかげで探し当てるのにちょっと迷いましたが、頂上までしっかりした階段がつけられているので上へは登りやすかったです。

  亀塚山古墳
  (亀山塚古墳)


 さて最後は、その名も華やかな金冠塚古墳です。
 この古墳はそれまで読んだ本でも時々名前を目にしており、名前のとおり立派な冠が出土したというので、実は大変楽しみにしていました。ところが辿り着いてみてびっくり、「…え、こんなにぺったんこなこれが古墳なの?」(笑)

  金冠塚古墳
  (金冠塚古墳。本当にぺったんこ(笑))

 というのも、今まで見てきた古墳は飯玉神社を除けば皆それなりの高さがあり、いかにも古墳ですといった感じだったので、まさかこんな3mもあるかどうかのこんな古墳が問題の金冠塚古墳だとは想像もしていなかったのです。確かに正面にはちゃんと例の金冠の写真つきの案内板があるのですが、正直しばし呆然としてしまいました。
 とはいえ、登って上から見るとまさしくその形は鍵穴型の、紛れもない前方後円墳です。それにしてもしつこいですがこんなぺったんこな古墳からあんな冠が出たなんて…と、やっぱり何だか釈然としない気分でした。
 で、その金冠も同じく東京国立博物館に展示されているというので、八幡山古墳の鏡共々見てきました。

  金冠塚古墳出土品
  (新羅風の金銅冠。なかなか大きくて立派です)

  金冠塚古墳出土品・2
  (同じく金銅製帯。下の魚佩は千葉の古墳出土)

 さすがに実物はすっかり錆びて往時の金色の輝きは失っているものの、明らかに新羅の影響色濃い立派な冠で、韓国の国宝で有名な翡翠の勾玉をたくさんつけた金の王冠にもよく似ていました。こんな王様の被るような凄い冠がどうしてまた群馬に、とやっぱり不思議でしたが、純金でこそないにしてもさぞかし有力な豪族の墓だったことは間違いないでしょうね。

 以上、この後二つほどまた小さな古墳も見て回って、現在残る主な古墳は一通り巡り終えました。なお後日、水戸で開催されていた特別展でも色々な古墳の出土品をたくさん見る機会があったのですが、それはまた項を改めて。

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みささぎ巡り あおによし奈良佐保・佐紀路編 2

 2009/11/10(Tue)
 11月2日(月)の古墳巡り、その二です。

 磐之媛陵と言われるヒシアゲ古墳を後にし、自転車でさらに東へ向かうと、少し行ったところで今度は広い濠に囲まれた古墳の前に出ました。それが陵墓参考地に指定されているコナベ古墳で、何故かここだけやけに濠の水辺が白っぽい石で覆われていて、空が曇っていなければきっともっと綺麗だったろうと思います。護岸工事か何かでしょうか、ちょうど数人の作業員さんが浅い濠の中に入っていました。

  コナベ古墳1
  (後円墳北西から見たコナベ古墳。岸辺の白さが綺麗)

  コナベ古墳2
  (同じく前方部南東から。少し晴れてきました)

 この辺りは西から順に磐之媛陵、コナベ古墳、そして最も東のウワナベ古墳と、200m級の大型前方後円墳が三つ続けて並んでいて、航空写真で見ると実に壮観です。ただコナベ古墳とウワナベ古墳の間に挟まれたように何故か自衛隊奈良基地がありまして、何だか妙な眺めだなーとちょっとおかしかったですね。
 ともあれ、基地の前を通り過ぎて少し行くと、いよいよ最後のウワナベ古墳が見えてきました。

  ウワナベ古墳
  (ウワナベ古墳。前方部南西から)

 ウワナベ古墳は周辺に比べてやや高台になっていて、濠の側に立って南を向くと平城宮跡が遠くに見渡せてとてもいい眺めです。お濠も隣のコナベ古墳よりさらに広く、もっと全体を回ってみる余裕がなかったのが惜しかったですが、ごく一部を見ただけでも立派な古墳でした。

 それにしても、コナベ古墳にしろウワナベ古墳にしろ、陵墓指定されていないとはいえこれだけ大きな古墳ですから、もしかすると天皇陵かそれに準じる皇族、あるいは有力豪族の陵墓であった可能性は十分ありそうに見えます。いやもちろん大きければいいってものでもないでしょうが、あんな巨大なものを造るのに恐らく人力しか手段のなかった千数百年も昔のことですから、それだけの人を動員できる人物が墓の主だったのは間違いないでしょうね。(しかも河内の巨大古墳群が作られたのは、この辺りの古墳よりさらに後の時代なんだとか)

 ともあれ、駆け足ながら平城宮北の大型古墳は一通り回り終えましたが、まだもうひとつ、垂仁天皇陵こと宝来山(ほうらいさん)古墳が残っています。しかしこの古墳は平城宮跡の遥か向こう、西大寺よりさらに南の尼ケ辻駅側で、自転車でもちょっと間に合うかどうか厳しいところです。当初の予定では朱雀門へも寄って行きたかったのですが、途中奈良文化財研究所にも用があり、また友人との待ち合わせの時間も近づいていたので今回はやむなく断念、自転車をすっ飛ばして一路南西へと向かいました。(今回本当にこればっかり。苦笑)

  平城宮跡
  (通りすがりの(笑)平城宮跡。もっとじっくり回りたかった…)

 平城宮跡から少し南下したところで西へ向かい、上り坂にまたも汗だくになりながらやっとのことで尼ケ辻駅へ到着すると、古墳はもう目の前です。と言っても、遙拝所は駅からちょうど反対側の前方部にあるので、濠をぐるりと迂回して時間ぎりぎりでどうにか辿りつきました。

  垂仁天皇陵1
  (垂仁天皇陵。前方部南東から)

  垂仁天皇陵2
  (垂仁天皇陵遙拝所)

 さすがにここまで来た時にはすっかりへとへとでしたが、折しも雲が切れて北の空は見事に真っ青、おかげで広い濠も真っ青でそれは綺麗でした。他の古墳も晴れていればさぞかし綺麗だったろうと思うとちょっと残念ではありますが、それだけに最後に見たこの垂仁陵の印象は特に強く、次の機会にはもっとゆっくり周辺も回ってみたいです。

 そんなこんなで、参拝と撮影をちゃっちゃと済ませて再び西大寺まで猛ダッシュ、どうにか予定通りに友人と合流できました。その後はちょっとゆっくりお昼ご飯をいただき、興福寺の阿修羅も2時間がかりでしっかり堪能してきましたが、拝観を終わってみるとまだ4時半前です。よし、今からならまだ間に合うぞというわけで、急遽友人も巻き込んで(笑)最後に近鉄奈良駅側の開化天皇陵へと向かいました。

 さてこの開化天皇陵、地図で見ると街のど真ん中に突然ぽつんとある感じなのですが、実際に訪れてみてもやっぱり街のど真ん中としかいいようのない場所でした。(笑) 結構人通りも多い賑やかな道に突然入口があって、見慣れた天皇陵の案内板?を見ても「…本当にここでいいの?」と友人共々驚いたくらいです。しかし街中だけあって参道は綺麗に整備されており、終点にはやっぱりこんもり樹の生い茂る古墳がありました。

  開化天皇陵
  (開化天皇陵正面。お隣は何故かお寺とホテルです)

 いわゆる欠史八代の一人の天皇陵なんて本当かなーという疑惑はともかく、ここは一応埴輪も出土しているそうなので、古墳であることは間違いないようです。しかし同じ都会の真っ只中でも、河内の巨大古墳と違って何だか可愛くて微笑ましいような、一風変わった天皇陵でした。

 以上、奈良のみささぎ巡りも無事終了、あちこち飛び回って大変でしたが充実した楽しい二日間でした。そして来年の奈良は遷都1300年のお祭りもありますし、しばらくご無沙汰の明日香村にもまた行きたいです。

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みささぎ巡り あおによし奈良佐保・佐紀路編 1

 2009/11/09(Mon)
 11/2(月)は、昼に東京から来る友人と合流して興福寺の阿修羅像展示を見に行く予定だったので、あまり時間はないけれど西大寺から平城宮跡を回ってみることにしました。この辺りは佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群と呼ばれる大型古墳が多く、しかも範囲が広いので、今回もレンタサイクルの活躍です。西大寺近くで自転車を借り、まず北上して神功皇后陵と言われる五社神古墳(ごさしこふん)へ向かいました。

  神功皇后陵1
  (神功皇后陵遠景。朝は小雨のぱらつく曇天でした)

 ところでこの神功皇后陵と、その東にある佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)は、近鉄線の線路を挟んですぐ近くにあります。なので京都から西大寺へ向かう電車の中から、少しは古墳が見えるかなと思ったのですが、神功皇后陵は線路から目と鼻の先の上、隣接している神社も同じように緑でこんもりしているので、車窓からはどこからどこまでが古墳なのかさっぱり判りませんでした。(笑) しかも後で遙拝所から見ると線路は本当に目の前で、あれじゃなまじ大きな古墳だけに判りにくかったのも無理はないですね。(なお五社神古墳は全長約275m、奈良県下でも屈指の大型前方後円墳です)

  神功皇后陵2
  (神功皇后遙拝所。入り口は畑に囲まれた西側で、人気の少ない静かな場所でした)


 手短に参拝&撮影の後、次の目的地は成務天皇陵こと佐紀石塚山古墳です。しかし踏切を越えたところで、何だかごちゃっと民家のひしめく道の入り組んだ市街地に出てしまい、ガイドブックや道端の地図を見てもどうもよく行き方が判りません。まあとりあえず行ってみるかと、適当に方向を判断して進んでいくと、しばらくして前方左にこんもりした緑の小山と遙拝所が見えてきたのです、が。

 …近くまで行ってみると、それは称徳天皇陵(佐紀高塚古墳)でした。(笑)

  称徳天皇陵
  (称徳天皇陵遠景)

 あれれ、何でこっち出ちゃったの?と地図を見比べると、どうも思ったより南の道路へ出てしまったようです。まあいいか、こちらも来るつもりではあったしとそのままお参りしましたが、ちょうど前日に京都の護王神社(御祭神は和気清麻呂公)で亥の子祭に参列してきた直後だけに、ちょっぴり微妙な気分でした。…何だか間が悪いというか、おかしなタイミングでしたねえ。(そして後日旅行から帰ったその日に、まさしくあの辺の時代のTVドラマをやっていてまた笑ってしまいました)

 ともあれ、一度踏切近くまで戻って、最初迷った道の方へ進んでみることにしました。ところがこれがやたら狭くて急な上り坂の裏通りで、自転車で一気に行くには少々きつい道のりです。2日前の山の辺の道ならともかく、街のど真ん中でいきなりこんな道に出くわすとは予想外でしたが、えっちらおっちら登っていくとやがてこんもり樹の茂った濠の側に出て、それが佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)と佐紀陵山古墳(垂仁皇后日葉酢媛陵)でした。

  成務天皇陵・日葉酢媛陵
  (右が成務天皇陵、左が日葉酢媛陵)

 佐紀石塚山古墳は220m、佐紀陵山古墳は210m、やはりどちらも見事な大型の前方後円墳です。特に佐紀陵山古墳の方は昔盗掘事件の際に調査が入っていて、出土品等が確認されている珍しい陵墓だとのこと。…以前にも奈良で一般人がこっそり某古墳に入って写真撮っちゃった事件がありましたが、いっそのことそのくらいしないと調査は無理かもしれませんね。(こらこら)

 それにしても、天理から桜井にかけては田畑の広がる見通しのいいのどかな田舎道でしたが、さすがに奈良市内だけあって古墳の周りもすぐ側までぎっしり住宅街が押し寄せ、また特に目印になるようなものもないため、道がさっぱり判りません。持参のガイドブックもかなり大まかな道しか載っていないし、しばらく思案の末、とにかく東へ向かえば間違いないだろうと結論。幸いこの頃には晴れ間も見え始めてきたので、時刻と太陽の場所を頼りに適当に走っていくと、突然また田んぼが開けた向こうに広い池と、目当てのヒシアゲ古墳(磐之媛陵)が見えてきました。

  磐之媛陵
  (磐之媛陵遠景。全長218m)

 磐之媛っていうと確か、仁徳天皇のやきもち焼きの奥さんだよねというくらいしか知りませんが、これまた大きな古墳です。田んぼの中の一本道はそのまま遙拝所の前をまっすぐ突き抜ける形に走っていて、古墳の反対側の水上池がまた広々として実にいい眺めでした。ちょっと曇っていて写真映りは今ひとつですが、吹き抜ける風が少し汗をかいた顔に気持ちよくて、時間があれば少しゆっくりしていきたかったです。

  水上池
  (水上池のほとり)

 ところでこの日は、巡り歩いた古墳で他の参拝者と遭遇することが妙に多く、しかもその大半が年配のご夫婦らしき人たちでした。皆さんお散歩コースなのかなとも思いましたが、ちらっとお話したりした感じから見て、どうやら「天皇陵巡り」が目的だったようです。そうか、考古学者以外でこういう方面に興味を持つのはこういう人たちなのかと思い、だとすると私は随分珍しい客層?なのかなとちょっとおかしくなりました。まあ私の場合は何も天皇のお墓が目的というわけではなく、特に古墳なら何でも来い(笑)という感じなので、またちょっと傾向が違うようですけれどね。(ちなみにこの旅行の前後に群馬でもちょっと古墳巡りをしたので、その辺についてはまた後日)

 というわけで、佐紀・佐保路の古墳巡りはまだまだ続きますが、以下次号。

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自らの天を目指して

 2009/11/08(Sun)
  琳派展XII 鈴木其一


 11月1日(日)の2番手は、京都国立近代美術館(ボルゲーゼ美術館展)のすぐお隣に位置する細見美術館へ向かいました。お目当てはもちろんこの時期毎年恒例の「琳派展XII」(2009/09/29-12/13)、今年のテーマは鈴木其一です。以前酒井抱一と師弟共同の展示はありましたが、今年は満を持しての初登場だけあって、お馴染みの「朴に尾長鳥」「水辺家鴨図屏風」等の他にも、今まで殆ど知らなかった作品がたくさんあってちょっとびっくりです。細見さん自身の所蔵も凄いですが、それ以外の個人所蔵品にもあんなに多様な作品があったなんて、嬉しい驚きでした。

 さてこの鈴木其一という画家、昔は琳派三巨匠の一人と言われる師匠抱一の陰に隠れてあまり名前を知られていなかったそうですが、最近は徐々に知名度が上がってファンも増えているようです。根っから抱一ファンの私などは初期の殆ど師匠の模倣に近い頃の作品に好みのものが多いのですが、独立して己の画風を確立してからの明快でシャープな独特のセンスは違う意味で目を惹かれるものがありますし、特に若冲ファンには好みに合うんじゃないかと思うのですよね。
 ともあれ、今回の展示も琳派風ながら其一らしさも伺える作品が色々ありましたが、その中で「昇龍図」という掛け軸のキャプションにふと目がとまりました。その名の通りまっすぐに天へと駆けのぼる龍を描いた水墨画なのですが、「(この龍は)師の影を越え、自らの天を目指す其一自身の姿ではないだろうか」とありまして、なるほどうまいことを言うなと思わず唸ったものです。以前にもちらっと触れましたが、彼が抱一を越えようとしていたかどうかはともかく、師匠とは違う新たな世界を切り開こうとしていただろうことは今に残る作品からもよく伺えますし、其一だけでなく光琳や抱一等も同様に、亜流に留まらない自身の画風を確立したからこそ「琳派」の継承?に成功したのでしょうね。(なお付け加えれば、その後同じような意味で後継者となりえた最後の画家は神坂雪佳だと思います)

 それにしても、2004年の琳派展(国立近代美術館)や先日の菱田春草展(明治神宮)でも思いましたが、琳派という流派(と見ることを疑問視する人もいますが)は本当に不思議で面白い流れです。確かに狩野派や土佐派を見ても、いかに偉大な先達がいてもそれをただ崇め奉るだけではつまらない模倣に終わってしまいますし、なまじ「流派」という確固たる枠組みに縛られていなかったからこそ、こだわりなく自分なりの自由な解釈で新しい世界を作り上げることができたのだとしたら、光琳や抱一はある意味非常に幸せな画家だったのかもしれません。もちろんそこに至るまでには様々な苦難や葛藤もあったでしょうが、光琳の「紅白梅図屏風」や抱一の「夏秋草図屏風」、そして其一の「朝顔図屏風」にはそれを成し遂げた彼らの達成感と自負が満ちているように感じます。

 そうそう、今回ちょっと面白かったのが、入ってすぐの第一展示室にかけられたご挨拶のパネルでした。文章はごく普通の内容だったのですが、パネルの下に「水辺家鴨図屏風」のアヒルたちがよちよち行進していて、これがまた何とも微笑ましく可愛らしかったのです。あいにく館内は撮影禁止なので写真には撮れませんでしたが、あのパネル撮影したかったわー(笑)


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みささぎ巡り 青垣たたなづく山の辺の道編 5

 2009/11/07(Sat)
 時刻は既に夕方4時を回り、日没まで1時間を切ったので、一度巻向方面へ少し戻ることにしました。まずはとにかく麓へ下ろうというわけで、桧原神社の真正面を西に下る道を下りて行ったのですが、これがとんでもない下り坂だったのは完全に予想外でした。徒歩でもかなり大変そうなのに、ましてこちらは自転車ですから殆どつんのめりそうな状態なわけで、頭の中ではひたすら悲鳴あげっぱなしです。といって今さら止まるに止まれず、必死で限界までブレーキかけてどうにか無事下まで辿りつくことができましたが、道理で案内図にこのルートが載っていなかったわけだと冷や汗交じりに納得しました。次回また桧原神社に行くとしても、あの道だけはもう二度と御免こうむりたいです…やれやれ。

 ともあれ、一気に下った先の道の左手(南)に茅原大墓古墳がありましたが、これがちょうど樹を切り倒したばかりだったらしく、また古墳にしても随分と低いこぢんまりしたものだったので、その時はそれが古墳なのかどうか確信が持てませんでした。さらに北へ少し行った先の道端には有名なホケノ山古墳があったのですが、これもごく低い盛り土程度にしか見えず、おまけに側にあった案内板にも古墳名は書いていなかったため、これまた何だか判らなかったのです。あの時そうと知っていたらもっとしっかり観察してきたのですが、先を急いでいたせいもあってゆっくり見る余裕がなかったのが返す返すも残念…

  ホケノ山古墳
  (東側の前方部から見たホケノ山古墳)

 その後は自転車を急がせて巻向駅の西側へ行き、纏向小学校の辺りまでざっと回ってきました。この辺りも畑の中に古墳がいくつも点在していて、特に小学校の南に位置する東田大塚古墳はすぐ側まで舗装道路が通っていたので、自転車で近くまで行くことができてよかったです。これも全長96mの立派な前方後円墳だそうですが、何しろ近くに巨大古墳がいくつもあるので、あまりそんな気がしなかったですね。(苦笑)

  東田大塚古墳
  (北側から見た東田大塚古墳)

  矢塚古墳
  (纏向小学校のすぐ西、矢塚古墳)

 一見したところは広々とした水田や畑が殆どののどかな一帯ですが、このあたりでは現在も発掘調査が続いており、私が旅行から戻ったすぐ後にも、近くで3世紀の大規模な建築の跡が見つかったとニュースで報じられていました。それが本当に「邪馬台国」の遺跡なのかどうかはともかくとしても、それだけの大規模な都市だったのならその後のヤマト政権とも少なからず繋がりはあったでしょうし、これからどんな新発見があるか、ますます楽しみです。

 そんなこんなでしばらく行ったり来たりした後、いよいよ今回最後の古墳、箸墓古墳へと向かいました。何しろ大きな古墳ですから、こんもりと樹の茂った姿は巻向からでもよく見えていて、自転車なら巻向からでも5分とかかりません。北側の池の側に到着した時にはちょうど夕日が二上山に沈むところで、池の水面に映る古墳のシルエットが印象的でした。

  二上山の日没
  (二上山に沈む太陽)

  箸墓古墳
  (北西から見た箸墓古墳)

 この箸墓古墳も、長らく卑弥呼の墓ではないかと言われ続けて有名ですが、何にしても当時の大王もしくはその一族クラスの相当に身分高い人を葬ったところには違いないでしょう。現在は宮内庁の管理下にあるため、発掘どころか立ち入りもままならない場所ですが、それにしてはすぐ側まで民家や畑が迫っているのが何だか不思議な気もします。奈良では珍しくない風景とはいえ、昔はお濠が溜池代わりに使われていたというのも納得できて、ちょっとおかしいですね。

 さて、日が沈んでしまったとなるといよいよ残り時間も少ないわけで、後はもう最後の目的地である大神神社へまっしぐらです。幸いここから先は多少土地勘もあるし、とにかく南へ行って大鳥居に辿りつけば間違いないのですから、あてずっぽうでもそう迷うような所ではありません。というわけで裏通りを一目散に飛ばしていって、どうにか暗くなる前に神社に到着することができました。

  大神神社一の鳥居
  (道路沿いの大鳥居。すぐ上に白い月が見えていました)

  大神神社拝殿
  (そろそろ店じまい?の神社拝殿)

 以上、大分きついスケジュールでしたが大体予定していた場所は一通り回って、5時半には無事帰りの電車に乗ることができました。さすがに慣れない土地での強行軍はちょっと応えたものの、季節の割には暖かいを通り越して暑いくらいの本当にいい日和だったので、写真も綺麗に撮れてとても楽しい半日でした。今回でそれぞれの古墳の位置も把握できたので、次に行く時はもっとゆっくり時間をかけてまた色々と回ってみたいですし、その時は今回通れなかった山の辺の道にも徒歩で行ってみたいですね。

 というわけで、みささぎ巡りその一はこれにて終了、そして二日後のその二へと続きます。

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みささぎ巡り 青垣たたなづく山の辺の道編 4

 2009/11/06(Fri)
 みささぎ巡りの道のりもそろそろ日没が近づき始め、渋谷向山古墳(景行天皇陵)から少し行ったところで、再び山の辺の道へ向かいました。特に道を選んだつもりはなかったのですが、上り坂を少し進んだところで突然、垂仁天皇の宮殿跡に遭遇。垂仁天皇陵は現在もっと北の西大寺近くにあるので、こんなところにあるとは予想外でした。

  垂仁天皇纏向珠城宮跡
  (最初はそのまま通り過ぎかけ、慌てて戻って撮影。笑)

 さらにもう少し行ったところで、今度はガイドブックに載っていない古墳に遭遇。先急ぐんだけどなと思いつつも階段があったので昇ってみると、頂上の案内板には「珠城古墳群」とありました。これもれっきとした国指定史跡のひとつであるとのことで、二つの古墳が殆どくっついたような状態になっており、しかも立派な横穴石室まであったのにまたまたびっくり。そして頂上から北を臨むと、たった今見てきたばかりの景行天皇陵がよく見えました。

  珠城古墳群1
  (古墳遠景。階段部分は、ちょうど二つの古墳の後円部が向き合ったところ)

  珠城古墳群2
  (階段上にあった案内板)

 さて急がねば、と再び道に戻り、えっちらおっちら上り坂を自転車で進んでいきましたが、これが予想以上に大変でした。かなり昇ってようやく山の辺の道に辿りつき、やれやれと思いながら南を目指していくと、今度は突然とんでもない下り坂に遭遇。その向こうには既に箸墓と思しきこんもりとした山が見えましたが、おっかなびっくり坂を下り終わると途端にまた上り坂で、さすがにこの辺りからは疲れも出てきて、時折自転車を降りざるを得ず、もうよろよろです。天理駅前のレンタサイクル屋さんで道を教わった際に「桧原神社までは、さすがに大変で皆なかなか行かないけどねえ」と言われましたが、なるほどこれは確かに大変だわとちょっぴり後悔しつつ、ここまで来たらもう意地です。(笑)

  坂から見た箸墓?
  (坂から見えた箸墓?らしき山)

  山の辺の道
  (道端の竹林と祠。何とものどかでした)

 その後も上り下りをくり返し、ようやく桧原神社へのちょっと奥まった砂利道に辿りついた時には、暮れ始めたとはいえ暖かい日和もあってすっかり汗だくです。幸い道は山の木陰で涼しかったので、砂利を気にしつつ自転車でゆっくり走っていくと、すぐ右手に目を見張るような素晴らしい眺めが開けてきました。

  大和の青垣

 うわあ、まさしく「たたなづく青垣山籠れる…」の歌の通りだわ、と感激していたら、その先にはやっぱり皆さん同じ事を考えるらしく、その名も「大和の青垣」という案内板。(笑) 付近は「大和青垣国定公園」に指定されているそうで、すがすがしい眺めに少し元気になって進んでいくと、ほどなく桧原神社の裏手に無事出ることができました。

  桧原神社1
  (神社境内。大神神社と同じ、特徴のある三つ鳥居が印象的)

  桧原神社3
  (これも大神神社同様、通常の鳥居ではなくこんな注連縄です)

 桧原神社は初代斎宮・豊鍬入姫が天照大神を祀った「元伊勢」笠縫邑の候補地とされ、後に神宮が置かれた伊勢は三輪山の真東に位置するなど、古来ミステリアスな説も多い一種独特の魅力あるお社です。すぐ側にはお休み処もあって、シャーベットをいただきながら一休みしていると、夕日を浴びた姿が実に綺麗でした。

  桧原神社2
  (逆光の夕日。今回一番心に残った光景)

 ともあれ、ここから先は今度こそもう山の辺の道は行けないし、最後に少し北へ纏向一帯を軽く回った後(この辺も古墳は多いのですが、もういい加減時間もなかったので省略)、久しぶりの箸墓古墳へ向かいました。というわけであと少しなのですが、全部書くと少々長くなりそうなので、次回その5で完結です。

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みささぎ巡り 青垣たたなづく山の辺の道編 3

 2009/11/05(Thu)
 さて、山の辺の道編第三弾です。
 西殿塚古墳から下ってきた後、さらに自転車でくねくね曲がる道を走っていくと、また何やらこんもりした古墳に遭遇しました。これもちゃんと案内板があって、中山大塚古墳というそうです。

  中山大塚古墳1
  (山の辺の道からの遠景。ちょっとこぢんまりした感じです)

  中山大塚古墳2
  (道のすぐそばにあった案内板)

 ここは近くの大和神社のお旅所が作られたり、戦国時代にはお城にされたりしたため、本来の古墳が削られて小さくなっていますが、元は全長132mのこれまた立派な前方後円墳です。竪穴式の石室から鏡や鉄器などの副葬品も見つかっており、古墳としてもかなり古いものらしいのですが、先を急いでいたので中まで入ってみる余裕はありませんでした。

 さて、ここから先はちょっと自転車では大変な道のりなので、一度山の辺の道から逸れて近くの国道へ出てさらに南下です。少し行くと、黒塚古墳と崇神天皇陵への案内があったので、まず西の黒塚古墳へ向かいました。
  ここは33面の三角縁神獣鏡が出土したことで有名な古墳で、古墳自体もなかなかよく残っており、周辺は公園として綺麗に整備されています。すぐ側には天理市立の立派な展示館まであって、発掘された竪穴石室がそっくり復元されていたのには驚きました。

  黒塚古墳1
  (濠の向こうの小高い山が古墳。頂上部も整備されて昇れます)

  黒塚古墳2
  (展示館の石室復元。鏡の多さと赤い色が目を引きました)

 ところで展示館には説明役のボランティアさんがいて、色々お話をしてくれたのですが、この黒塚古墳は地震で石室が崩れたために盗掘を免れていたそうです。怪我の功名というか、そんなこともあるんだなあとこれまたちょっとびっくりでした。

 さてお次は再び国道へ戻ると、もう殆ど正面と言っていい場所にどーんと聳え立つのが行燈山古墳、通称祟神天皇陵です。国道から少し奥なので判りにくいですが、参道はやっぱり綺麗に整備されていました。

  祟神天皇陵1
  (近くで見ると、これだけでも見上げるような高さです)

 全長242m、高さ23mの堂々たる前方後円墳で、今回の道のりでこれが初めての(一応)天皇陵ですが、まず驚くのがこのお濠を囲む盛り土の高さ。何でこんなに高いの!?と呆気にとられましたが、後で読んだ本によると、これは当時からそうだったわけではなく、後世にお濠が灌漑用水として使われたためにたくさん水を溜められるようにしたためなんだとか。元々現在のように立ち入り禁止になる前は、天皇陵は地域密着?の里山として地元の人々に利用されていた例も多いそうですが、埋葬されたご本人には予想外のことだったでしょうねえ。(笑)

  崇神天皇陵2
  (そのお濠では、鴨がのどかにお昼寝中?)

 ところで大王クラスの大きな古墳ともなると、まるでお伴のように小さな古墳が周辺に点在している例がよくあります。これを陪塚(ばいちょう)と呼び、以前訪れた仁徳天皇陵にもたくさんの陪塚がありましたが、この行燈山古墳も遙拝所のちょうど両脇に二つの小さな(と言ってもそれなりに大きいのですが)前方後円墳を従えていました。さらに山の方(つまり後円部)にももうひとつ、双方中円墳という珍しい形の櫛山古墳があったのですが、今回そちらまでは回る余裕がなかったのがちょっと残念…

 ともあれさくさく行こうというわけで、再び自転車に乗って南を目指そうとしたところ、ここでふと道路の向こう(つまり西側)に何やらいい感じの神社の鳥居があるのが目につきました。

  伊射奈岐神社1

 伊射奈岐神社とはまた珍しいと思い、参道を入って行ってみると、これまた社殿もこぢんまりとしていてなかなかいい感じです。これも何かの御縁、どうぞ道中つつがないようにとお祈りさせていただいたのですが、何と実はここも境内に「大和天神山古墳」という古墳があったことを旅の後で知りました。しかし判りにくい場所にあったのか、全然気がつかなかったのがちょっと悔しかった…

  伊射奈岐神社2
  (伊射奈岐神社本殿。ちょうど西日が正面から当たって、屋根の金色が綺麗でした)

 さてさて時間もないので再び国道を急いで南下、しばらく行くと今度は道のすぐ側に大きな緑の塊が見えてきて、それが渋谷向山古墳(景行天皇陵)でした。

  景行天皇陵1
  (古墳遠景)

 全長310mという規模はこの一帯でも最大級なのはもちろん、日本全国の古墳の中でも第7位だそうです。形も例によって地上では判りませんが立派な前方後円墳で、この頃はこれが流行りだったのでしょうか、大型古墳は皆前方後円墳なんですね。

景行天皇陵2
  (遙拝所も道路からすぐ。あんまり近すぎて却ってびっくり)

景行天皇陵3
  (ここもお濠に満々と水を湛えていました)

 以上、これにて山の辺の道の御陵は一通り制覇、残す大型古墳は箸墓だけという所まで辿りつきました。とはいえその前に桧原神社へも行きたいぞと思っていたので、先を急いで再び山の辺の道を目指したのですが、ここから先が実は一番大変だとはまさか予想もしていませんでした…

 というわけで、山の辺の道最大の難所編?は、以下次号。

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みささぎ巡り 青垣たたなづく山の辺の道編 2

 2009/11/04(Wed)
 10/31(土)お昼過ぎ、無事天理駅前に到着。ここで再びレンタサイクルを借りて、山の辺の道へ向かいました。
 今回は基本的に古墳巡りがメインの旅ですが、その前に何を置いても逃せないのが、知る人ぞ知る石上神宮です。この小さな神社は元々現在残る山の辺の道のスタート(またはゴール)地点でもあり、以前一度訪れた時からいつかまた絶対行きたいと思っていた思い出深い場所の一つです。天理市内を東南方向にゆるい坂を登っていく道のりは、自転車ではちょっとばかり大変でしたが、天理教総本部を抜けた先の見晴らしのいい小高い場所に、昔と変わらない緑豊かなお社がひっそりとしたたたずまいを見せていました。

  石上神宮1
  (道路沿いの参道入り口。正面は天理市内が一望に見渡せます)

  石上神宮2
  (参道をしばらく昇った先の鳥居。樹の肌合いがいい感じ)

  石上神宮3
  (神宮拝殿。入母屋造の檜皮葺き。鎌倉時代の建築だそうです)

 この石上神宮は、三輪山麓の大神神社と同様、元々は拝殿だけで本殿がありません。大神神社の場合は背後の三輪山自体が御神体ですが、石上神宮は拝殿の裏手の禁足地を聖地として祀り、そこに御神体である「布都御魂剣」と呼ばれる太刀が埋められたと伝えられてきました。その後明治に禁足地の発掘で剣やその他の宝物が出土、現在は新たに本殿を建ててこれをお祀りしています。

 ところで石上神宮ゆかりの宝物と言えば、真っ先に来るのは何といっても国宝「七支刀」でしょう。
 例によってミーハーな千尋もこのちょっと独特な刀のファンでして、とはいえ国宝故滅多なことではお目にかかれない品なのですが、2004年に奈良国立博物館で開催された「大和の神々と美術 七支刀と石上神宮の神宝」で久々に公開されたことがあるのです。他にも勾玉や管玉等、一緒に出土した宝物の数々が一挙登場するとあって、喜び勇んで駆けつけたことはいうまでもありません。まあ実際の刀は御承知の通りさびさびのぼろぼろなのですが、それでもやはり本物の実物を間近で見る機会に恵まれたのは大変幸運で大感激でした。

  七支刀1 七支刀2
  (当時の奈良国立博物館だより)

 話戻って、神宮で改めて旅の安全を祈願した後、一路山の辺の道を南へ向かいました。
 この日は非常に快晴に恵まれ、のどかな大和路を自転車でのびのび走るのはとても気持ちよかったです。とはいえいささか気温も高く、また進行方向も南下だったために日焼けが心配でしたが、神宮からしばらく行ったところにこんもりとした緑の塊がふたつ見えてきて、それが東乗鞍・西乗鞍古墳だろうと判りました。

  東西乗鞍古墳遠景
  (左が東乗鞍古墳、右が西乗鞍古墳)

  西乗鞍古墳案内板
  (西乗鞍古墳の案内板)

 あまり時間がなかったため、近くで見て上にも昇ったのは西乗鞍古墳のみでしたが、全長約118m、高さ約16mのなかなか堂々とした立派な古墳で、上からの眺めも実によかったです。作られた当時は周囲に二重の濠もあったらしく、時代は推定6世紀前半頃と後期ですが、かなり力のある人物が葬られたものなのでしょう。

  西乗鞍古墳後円部頂上
  (古墳頂上の後円部分。前方部分には石碑もありました)

 乗鞍古墳を後にして、またしばらく行くと今度は道路沿いの左手に、夜都伎神社の赤い鳥居が見えてきました。

  夜都伎神社鳥居
  (車道をまたいで立つ鳥居。結構目立ちます)

  夜都伎神社拝殿
  (神社拝殿。古民家のような雰囲気が味わい深い)

 神社は車道から東へ少し入ったところにあり、そのすぐ脇が石上神宮まで続く山の辺の道だということが、神社の前に着いてみて判りました。そしてこの辺りから、南からやってくるハイキングの人たちとよくすれ違うようになり、どうやら皆さん朝に桜井や三輪から出発して半日かけて歩いてきたようです。なるほど、その方が陽射しも眩しくないし正解だろうなと、暑い中それだけがちょっと後悔でした。(ちなみに桜井からも乗り捨てレンタサイクルはあったのですが、それだと奈良まで行かなきゃならないのでさすがに無理でした…)

 ともあれ、ここからは車道を逸れて本物の山の辺の道を行くので、道幅も狭いし時々地面はぼこぼこだし、さらには起伏もときたま激しいしで、自転車とはいえある意味徒歩以上に大変です。ただ幸い、所々にハイキング客のためのお休み処もあったので、そのうちの一軒で三輪そうめんをいただいて休憩、再び汗だくで一生懸命道標と地図を頼りに入りくんだ畑と民家の間の道を進んでいくと、ようやく柿畑の向こうに「西殿塚古墳(一名衾田陵、手白香皇女の陵墓)」が見えてきました。

  衾田陵1
  (周りは一面柿畑で、鮮やかな赤が青空に映えて綺麗でした)

  衾田陵2
  (西殿塚古墳案内板)

  衾田陵3
  (宮内庁比定陵墓につき、遙拝所もきちんと手入れされています)

 それにしても、手白香皇女(たしらかのひめみこ)といえば古代史ファンなら見逃せない重要人物、継体天皇の皇后で欽明天皇の生母です。(つまり現皇室の直系祖先) 継体天皇本人の陵墓は大分前から大阪の今城塚古墳だと言われており、千尋もこの夏群馬県立歴史博物館で開催された特別展「国宝 武人ハニワ、群馬へ帰る!」にて出土品を見てきましたが、大阪からは遠く離れたこんな場所に何でそのお后のお墓があるのかしらん?と首を傾げました。
 とはいえ、実のところ現在宮内庁指定の古い天皇陵は大半が正しくないそうで、この西殿塚古墳も手白香皇女の時代よりも古い3世紀後半頃のものらしいです。現在宮内庁が管理する殆どの天皇陵は「調査・立ち入り一切禁止」となっていますが、死者を冒涜するのでなくその素性をきちんと確かめるという意味で、出来る限り早くこうした門戸が研究者にも開かれてほしいですね。(もっともそうなったら、私も野次馬根性で駆け付けてしまいそうではありますが…苦笑)

 ともあれ、この西殿塚古墳も山の辺の道から少し昇った山の麓の小高い場所にあり、眼下に広がる奈良盆地が綺麗に見渡せました。周りは緑多く、鳥のさえずりも聞こえる実にのどかな里山で、陵に葬られた人が誰であったにせよ、あんな素敵な場所で眠りにつけるだけでもちょっと羨ましい気がします。

  衾田陵4
  (古墳前方部遠景。まさに「青垣山籠れる大和」でした)


 さて、先はまだまだ続きますが、ここで一区切りとして続きはまた次回。

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みささぎ巡り 青垣たたなづく山の辺の道編 1

 2009/11/03(Tue)
 またまた話が前後しますが、10/31(土)は奈良県桜井市・天理市周辺で古墳巡りをしてきました。
 前回さきたま古墳群行きの時にちらっと触れましたが、三輪山山麓のいわゆる「山の辺の道」のあたりは4世紀頃の古墳が多く、卑弥呼の墓ではないかと言われて名高い箸墓古墳を始めとする大きな前方後円墳だけでも片手に余るほどで、箸墓だけは以前にも見たことがあるのですが、一度山の辺の道を歩いて古墳巡りをしてみたいと思っていたのです。しかも今回、ちょうどニュースで話題になった桜井茶臼山古墳の現地見学会が旅行の時期にばっちり重なったので、これ幸いと喜んで行ってきました。

  桜井茶臼山古墳1
  (会場入り口の看板)

 そもそもこういう一般の考古学ファンのための「現地見学会」というのは明日香村などでよく行われていますが、何しろ千尋は関東在住者でして、見学会が開催されてもそう簡単に駆けつけるわけにはいきません。よっていつもテレビ画面で羨ましく眺めるだけだったのですが、念願叶ってついに生まれて初めて体験する現地見学会ということで、そりゃあもうわくわくしながら駆け付けました。

  桜井茶臼山古墳2
  (入場待ちの行列。どんどん人が来るので入場制限中)

 階段を上って前方部から古墳の上に昇ると、後円部の埋葬地までの道にずらりと解説のパネルが並んでいました。ここでもしばらく入場制限で待つ間、パネルやもらったパンフレット(これが実に立派で驚きました)を見ながら各自予習の後、いよいよ問題の埋葬地へ入場です。

  桜井茶臼山古墳3
  (後円部へ昇る階段。結構急です)

 これまで千尋も、埼玉や群馬で比較的よく形を残している大型の古墳のいくつかに昇ったり横穴式石室を見たりしてきていますが、今発掘調査中の古墳を見るのはこの桜井茶臼山古墳が初めてです。どきどきしながら階段を昇り切ったところで、ぽっかりと口を開ける予想以上に大きな竪穴と、その底の赤い石に囲まれた石室が目に飛び込んできました。

  桜井茶臼山古墳4
  (石室の南側から。内部が見えるよう、天井石の半分程度がどけられています)

 まず驚いたのが、とにかく大きい! 南北11m、東西4.8m、深さ2.9mというこの墓の主が一体誰だったにせよ、この大きさを見るだけでも相当に身分の高い人物だったろう事は疑いありません。しかも石室の天井や壁に使われた石には鮮やかに塗られた赤い色が今もはっきりと判り、盗掘で破壊された木棺の残骸以外に副葬品等は殆ど残っていなかったそうですが、それにしても立派なお墓でした。(なお失われた副葬品については、わずかな破片などを調査した結果、玉杖、武器、鏡などがあったらしいことが判っています)

  桜井茶臼山古墳5
  (石室内部。壁は薄い板状の石をたくさん組み上げています)

  桜井茶臼山古墳6
  (脇に置かれた天井石。中には1.5tの大物もあるとか)

 それにしても、こんな立派な古墳がどうして天皇陵はおろか陵墓参考地にも入っていないのか不思議ですが、おかげでこうして一般人でも直接目にする機会に恵まれたことは、ある意味よかったということなのでしょうか。これだけのお墓ですから大王やその一族のものであってもおかしくないでしょうに、一体墓の主は誰だったのでしょうね?
 何にしても、今回の見学会を開いてくださいました奈良県立橿原考古学研究所の皆様ありがとうございました、そして三日間お疲れさまでした。もちろん調査はこれから先もまだまだ新しい発見があるでしょうし、今後の研究の進展を期待しています。

 そんなこんなで、時間もないので名残を惜しみつつ急いで桜井駅へとんぼ返り、JRで一度北上して天理駅へ向かいました。ここからいよいよ後半の山の辺の道縦断開始ですが、続きはまた次回。

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秋の京都便り 謎の貴婦人と首飾り

 2009/11/01(Sun)
  ボルゲーゼ美術館展

 こんにちは、昨日から京都に来ております。紅葉にはまだ少々早い時期ですが、今回は京都御所の一般公開に合わせ、東京より一足先に始まったボルゲーゼ美術館展(京都国立近代美術館、2009/10/31-12/27)と、細見美術館の恒例琳派展XII「鈴木其一」に行ってきました。というわけで、まずはボルゲーゼ展から。

 今まで京都の美術展は色々見てきましたが、考えてみると近代美術館へ行くのは何とこれが初めてです。お向かいの京都市美術館やご近所の細見美術館には何度も通っているのに、何故かしら近代美術館だけは縁がなかったのですが、今回やっと門をくぐることができて何だかちょっと感慨深いものがありました。(笑) 規模としてはそう大きな方ではないようですが、とても明るく開放的なつくりの美術館で、エントランスの吹き抜けの奥にある階段を昇って特別展会場へ入るというのも面白かったです。
 さて、日本初公開というイタリア・ボルゲーゼ美術館のコレクションの中で、今回最大の目玉は何と言っても、ラファエロの「一角獣を抱く貴婦人」です。

  一角獣を抱く貴婦人


 元々ポスターで見た時から大変楽しみな絵でしたが、いざ会場で実物と向き合ってみて、印刷とはまったく違う澄んだ色彩の明るさに驚きました。ややクールな青い瞳をこちらに向ける女性の白い肌と薔薇色の頬の美しさもさることながら、淡い青空に映える金髪の細やかな描写の凄いことと言ったら、単眼鏡で覗いてみてあまりの緻密さに息を呑み、しばしその場から動けませんでした。また印刷ではやはり沈んだ暗い色合いのドレスの袖も、実物ではもっと明るく華やかな深紅でしたし、印刷と実物とでこれほどギャップを感じた絵は久しぶりです。幸い会場は東京とは違ってかなり空いていたので、ゆっくりじっくり心行くまで絵の前に佇んでしっかり目に焼き付けてきましたが、もちろん東京へ巡回した時にも絶対会いに行かなければ!と固く心に誓いました。
 ちなみにこの絵、後世の加筆によって全然違う絵柄になっていたというのを今回初めて知りまして、これまた驚きでした。以前は一角獣の姿をすっぽりマントと車輪で覆い隠した「アレクサンドリアの聖カタリナ」の絵になっていたそうで、当時の白黒写真も隣に展示されていましたが、あの鮮やかな深紅のビロードの袖を隠してしまうなんて、何とももったいなく無粋なことをしてくれたものです。幸い研究者たちの努力により、現在では本来の姿を取り戻していますが、昔の人たちは何も知らずに長い間騙されていたんでしょうねえ。

 ところで話は飛びますが、ラファエロの作品の中でも日本ではあまりポピュラーとは言いがたいこの絵、実は塩野七生ファンの一部には非常に馴染み深いものです。塩野さんの小説「銀色のフィレンツェ」の中で、主人公が恋人のために作らせた首飾りのモデルが、恐らくこの絵の貴婦人が身に着けている首飾りなのですよ。金で縁取ったエメラルドとルビー、その下に雫型の真珠というデザインはまさしくこの絵のままで、昔小説を読んだ時にはまさかこの絵が日本に来てくれようとは夢にも思いませんでした。今回ミュージアムショップには「イタリアからの手紙」「イタリア遺聞」などの塩野作品も並んでいましたが、どうせならぜひ「銀色のフィレンツェ」も置いてください美術館さん!

  
銀色のフィレンツェ―メディチ家殺人事件 (朝日文芸文庫)銀色のフィレンツェ
―メディチ家殺人事件
(朝日文芸文庫)

(1993/10)
塩野 七生

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 ところでもうひとつ、この絵を見ていてふと思い出したのが、よく似た構図のコレッジオの「貴婦人の肖像」でした。

  貴婦人の肖像

 静かな面持ちでこちらを見つめる女性のあるかなきかの微笑はどこかモナリザにも似ていますが、彼女にしろ「一角獣」の女性にしろ、これらの女性たちは皆モデルが誰なのか判っていないという共通点があります。それ故に一層ミステリアスな魅力を纏った独特の美しさを湛え、背景の爽やかに明るい青空とは対照的に不思議な暗さとも悲しみともつかない何かを感じさせますけど、私としては彼女たちが「誰」なのかはむしろ永遠に判らないままの方がロマンがあっていいですね。

 ともあれ、この他にも度肝を抜かれるような緻密なモザイク画だとか、レオナルドの「レダ」の模写だとか(ただし私が知っている模写とは違って、今回の絵ではレダの足元の卵はひとつしかありませんでした)、はたまたカラヴァッジオ最晩年の「洗礼者ヨハネ」だとか(例によって明暗くっきりの絵の中で、真っ赤な祭壇布の鮮やかな色彩がとても印象的でした)、見所は色々とあるのですが、あちこち飛び回ってすっかりくたびれてしまったので、本日はこの辺でひとまず区切りといたします。


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