スポンサーサイト

 --/--/--(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
カテゴリ :スポンサー広告 トラックバック(-) コメント(-)
タグ :

公式サイト続々

 2009/04/28(Tue)
 このところ、今後気になる美術展の公式サイトが続々スタートしているようで、連休中の美術展と合わせて楽しみです。というわけで、簡単にご紹介。

・フランス絵画の19世紀(島根県立美術館:3/6-5/31、横浜美術館:6/12-8/31)
 http://france19.com/

・生誕150年 ルネ・ラリック展(国立新美術館:6/24-9/7)
 http://www.tokyo-np.co.jp/event/lalique/

・伊勢神宮と神々の美術(東京国立博物館:7/14-9/6)
 http://www.iseten2009.jp/index.html

・THE ハプスブルク(国立新美術館、9/25-12.14)
 http://www.habsburgs.jp/

 まだ詳しい情報の殆ど出ていないサイトもありますが、これから少しずつ中身が増えて行くのを楽しみに待ちたいと思います。
 …ところでお伊勢さん、斎宮関係はやっぱり今回は出ないのでしょうか?

P.S
 失礼しました、神宮展は紹介よく読んだら斎宮関連、特に出土品がばっちり出るそうです。というわけで、ファンとしては斎王制度についての説明がどの程度出るかも気になるところなのでした。

スポンサーサイト
タグ :

「紫の上」はいつ生まれたか

 2009/04/25(Sat)
 今日源氏物語関連でちょっと調べ物をしていた際、ふと気になったことがありました。

「そういえば、紫の上はいつから「紫の上」と呼ばれるようになったんだろう?」

 多分研究者の方なら非常に今さらな疑問でしょうが、そういえば今まで特に気にとめたこともなかったなと思い当たり、「源氏物語の世界」様で調べてみました。そしてびっくり、何と彼女が最初に「紫の上」と呼ばれたのは、第25帖「蛍」が最初なのですね。えーそんなに後になってからなのー!?と驚愕、一体蛍のどこが初見なのかと調べてみてさらに驚いたのですが、例の有名な物語論「日本紀などはただかたそばぞかし(歴史書なんて所詮物事の一部しか伝えていないのですよ)」という言葉のすぐ後だったのです。「源氏物語の世界」の原文は大島本に基づくそうですが、これが本当に紫式部の原文の姿をそのまま忠実に伝えているとしたら、何だかとても引っかかるのは私だけでしょうか…

 それはさておき、現代の私たち読者は研究者でもない限り、すべて原文を読みとおすような根性のある人はファンでもまあ滅多にいないでしょう。それだけに彼女を最初から「紫の上」と当たり前に思いこんで読んでいますが、意外やこの呼び名が登場するのは非常に少ないのです。改めて数え直してみたら、「蛍」(1)「藤袴」(1)「真木柱」(1)「若菜・上」(3)「若菜・下」(2)「鈴虫」(2)「夕霧」(1)「御法」(1)で、あの長大な源氏物語の第一部・第二部全部をさらっても合計たったの12回(!)しかありませんでした。…いやー、これは驚きましたわ(ちなみに第三部では名前のみ3回出ていましたが、光源氏も既にいない時代の話なのでこれは別とします)。

 で、そこで当然連想されるのが、例の紫式部日記に登場する有名な話、藤原公任が「このあたりに若紫やさぶらふ(このあたりに若紫の君はいらっしゃいませんか)」と問いかけたあれです(笑)。その時紫式部は「源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上はまいていかでものしたまはむ(光源氏のような素晴らしい殿方もいないのに、どうして紫の上がいるものですか)」と思ったとあり、これを元にこの時点で既に「若紫」は世間に出回っていたという根拠とされているということで、去年の源氏物語千年紀もこの記述に基づいているのは言うまでもないですね。
 ともあれ、今回引っかかったのは、ここで作者が紫の上を「かの上」と呼んでいるということでした。
 ちなみに紫の上が最初に「上(「奥様」とか「正妻」といった意味と考えていいでしょう)」と呼ばれたのは何故か「蓬生」で、もしかすると作者は既にここまで書き進めていたか、そうでなくとも紫の上が「上」と呼ばれる人になることは設定済だったということになりますよね。上記「源氏物語の世界」で改めて見直したら、結婚前の紫の上が「紫の君」と呼ばれた箇所はあったものの、結婚後もしばらくは「姫君」「女君」という呼び方が殆どで、おまけに「蓬生」の後もしばらく飛んで次に「上」と呼ばれるのは「薄雲」なのです。源氏の初恋の女性であった藤壺が亡くなるのと前後して「上」と呼ばれ始めたというのも何やら意味深ですが、この辺もっと突っ込んで考察した論文があればぜひ読んでみたいなと思いました。

 ところでちょうど今、タイミングよくというべきかその紫の上に関する研究をまとめた絶好の参考書を図書館から借りているところです。この中では「紫の上は光源氏の正妻か否か?」や、そのものずばり「紫の上という呼称」について取り上げた有力な論文が紹介されていて、もしかするとその中でこういう点について触れているかなと期待をかけているのでした。というわけで、お休み終わったらまた調べに行ってきます♪

  
人物で読む源氏物語 (第6巻) 紫の上人物で読む源氏物語 (第6巻) 紫の上
(2005/05)
西沢 正史

商品詳細を見る



 では最後に、今回のおまけ。

  六条院へ

 風俗博物館2008年後期展示「少女」より、新築成った六条院へ移る光源氏と紫の上。
源氏は既に太政大臣まで登りつめ、我が世の栄華を謳歌する二人の華やかな時代を象徴する一コマです。

 源氏~直衣出衣姿。直衣:二藍唐花鳳凰丸文、衵二領:白地小葵文・濃紅紗地雲立涌文、
    指貫:葡萄色地白藤折枝文、単:紅地繁菱文、有文冠
 紫の上~小袿姿。単・五つ衣:紅梅の匂い(赤のグラデーション)、
     袿:萌黄白亀甲地文に又木文「青丹かさね」(表:青、裏:青)
     小袿:白亀甲地又木文「白菊かさね」(表:白、裏:蘇芳)
タグ :

続・尼門跡寺院の世界

 2009/04/23(Thu)
 先日触れた「尼門跡寺院の世界展」について、内容とは別にひとつだけちょっと不満だった点がありました。何しろ当方歴史好きとは言っても室町以降は守備範囲外でして、江戸時代あたりまで下ると歴代天皇の名前もよく判らないのです(^^;)。おかげで説明を読んでも「後西天皇って誰だっけ?」とか「中御門天皇なんていたっけ?」なんていう有様で、簡単でいいから系図があればよかったのですが、あいにく会場にも図録にもなくて残念でした。
 で、じゃあせっかく勉強したんだし自分で作ってしまえ!というわけで、大体以下のような具合です。


108 後水尾天皇――┬―109 ○明正天皇(母:○東福門院)
         |
         ├―○大通文智(円照寺)「爪名号」他
         ├―久嶽理昌(宝鏡寺)
         ├―○照山元瑤(林丘寺)「聖観音立像」他
         ├―久山永昌(大聖寺)
         ├―月江宗澄(霊鑑寺)
         ├―義山理忠(宝鏡寺)
         ├―瑞慶文察(円照寺)
         ├―泰嶽永亨(大聖寺)
         |
         ├―110 後光明天皇
         |
         ├―111 後西天皇―┐
         │        │
         │  ┌―――――┘
         │  ├―○光山宗栄(霊鑑寺)「大乗妙典」他
         │  ├―高栄尊秀(中宮寺)
         │  ├―○大成聖安(曇華院)「冬日書懐」他
         │  ├―○徳巌理豊(宝鏡寺)「自画像」「涅槃図」他
         │  ├―明山瑞光(慈受院)
         │  ├―○大規尊杲(光照院)「南無観世音髪名号」他
         │  └―香因尊勝(三時知恩寺)
         |
         └―112 霊元天皇――┐
                   │
         ┌―――――――――┘
         |
         ├―俊巌永秀(大聖寺)
         ├―大観文喜(円照寺入室)
         ├―松嶺元秀(林丘寺)
         ├―大寂永応(円照寺、大聖寺)
         |
         └―113 東山天皇――┐
                   |
         ┌―――――――――┘
         |
         ├―114 中御門天皇―┐
         │         │
         │  ┌――――――┘
         │  ├―玉江聖珊(曇華院)
         │  ├―逸巌理秀(宝鏡寺)
         │  ├―○大融尊乗(光照院)「御誕生人形」
         │  ├―○天巌永皎(大聖寺)「古歌カルタ」他
         │  └―115 桜町天皇――┐
         │            │
         │  ┌―――――――――┘
         │  ├―116 桃園天皇――――118 後桃園天皇
         │  └―117 後桜町天皇
         |
         |
         └―直仁親王(閑院宮祖)――典仁親王――┐
                             |
         ┌―――――――――――――――――――┘
         │
         └―119 光格天皇――┬―○霊巌理欽(宝鏡寺)「産着」
                   └―120 仁孝天皇――┐
                             |
         ┌―――――――――――――――――――┘
         │
         │
         ├―121 孝明天皇―――122 明治天皇===○昭憲皇太后
         └―親子内親王(和宮)


 ○印は関連展示のあった皇女で、「」内はその中でも特に印象に残ったものをひとつ挙げています。なお一人ひとりの生母まで皆書くと複雑でかなわないので、ここでは省略しました。

参考過去ログ:「尼門跡寺院の世界展」

 元々系図から歴史フリークに突っ込んだので、何だかんだと言いつつ結構楽しかったです(笑)。さらに秋には国立新美術館の「THE ハプスブルク」展も控えているし、系図好きにはますます楽しみなのでした。
 …しかし苦労して作ったけど、この系図ちゃんと表示されてるでしょうか…?
(空白部分がずれている場合は、お手数ですがブラウザのフォントをMS明朝またはMSゴシックに変えてみてください)

タグ :

源氏物語の斎王たち

 2009/04/20(Mon)
 先日は「尼門跡」の話題でしたが、今日もそれにちょっと絡んで?皇女関連の話など。

 そもそも帝の内親王というのは日本で最も高貴な生まれの女性であり、源氏物語では(紫式部の執筆当時の傾向でもあるのでしょうが)皇女は結婚などせず生涯独り身で優雅に暮らすことこそ最高とされていました。それが幸せかどうかはひとまず置いておきますが、そういう皇女不婚信仰(これが後に女院や尼門跡の増加にも繋がったと言われます)とでもいうべき路線にさらに拍車をかけることになったのが、天皇家の特異な制度――即ち、斎王(斎宮・斎院)です。

 これまた源氏ファンや平安好き以外の方には殆ど馴染みのない存在ですが、平安時代には伊勢神宮に仕える伊勢斎宮と、賀茂神社に仕える賀茂斎院という二つの制度がありました。どちらも任につくのは皇族女性で、記録によれば下は2歳から上は30歳近くまでと年齢層は幅広いものの、候補となるのは必ず「未婚の」天皇の娘(内親王)・あるいは親王の娘(女王)のいずれかに限られていたのが大きな特徴でした(ちなみに葵祭で有名な斎王代は、読んで字のごとく「斎王(斎院)の代わり」です)。
 しかし何故か、(面白いことに)源氏物語には斎宮・斎院を務める内親王は殆ど登場しません。「葵」で名前だけがちらりと出る桐壺帝の女三宮が唯一斎院になったくらいで、それ以外に登場する重要人物、秋好中宮と朝顔斎院は二人とも父親が親王の二世女王です。特に朝顔斎院は「賢木」で「賀茂のいつきには、孫王のゐたまふ例、多くもあらざりけれど、さるべき女御子やおはせざりけむ」(女王が斎院になられた例は少ないが、適当な内親王がいらっしゃらないので)とわざわざ述べているくらいで、しかも実際は恐らく斎宮・斎院になっていない弘徽殿女御腹の女一宮(一品宮)がいたはずなのに敢えての処置ですから、作者も多少の無理は承知で押し通したのでしょう。(もちろん一品宮の場合、母方の政治力の強さも大いに与ったでしょうが)

 先帝の皇女:女一宮
       女二宮
       女三宮
       女四宮(藤壺中宮) 母・皇后
       皇女(朱雀帝女御) 母・更衣

 桐壺帝の姉妹:女一宮
        女二宮
        女三宮(三条大宮) 左大臣正室
        女四宮
        女五宮(未婚) 桃園式部卿宮の同母姉妹?

 桐壺帝の皇女:女一宮 母・弘徽殿女御
        女二宮
        ○女三宮(斎院) 母・弘徽殿女御

 長くなりましたが、では実際のところ、源氏物語の流れでは歴代斎宮・斎院はどのように変わっていたのか?というわけで、ちょっと以下に書き出してみました。

  桐壺帝時代  …斎宮:不明  斎院:不明
  朱雀帝時代(1)…斎宮:秋好中宮(父・桐壺帝弟) 斎院:桐壺院女三宮
  朱雀帝時代(2)…斎宮:秋好中宮 斎院:朝顔斎院(父・桐壺帝弟)
  冷泉帝時代(1)…斎宮:不明  斎院:朝顔斎院
  冷泉帝時代(2)…斎宮:不明  斎院:不明
  今上帝時代  …斎宮:不明  斎院:不明

 何故か朱雀帝時代以外は殆ど不明ですが、考えてみればそれも道理、主人公光源氏の華麗な恋の相手としてまたとない高嶺の花になりうる斎宮・斎院も、源氏がお年頃を過ぎた後(笑)は作中でも必要なくなったのでしょう。後の「狭衣物語」は斎宮・斎院経験者が多く登場するため、彼女たちの交代についてもかなり詳しく筆を割いていますが、そういえば紫式部は弟の恋人の斎院女房のことで色々陰口を書いていた人ですから、実はあまり自分の作品には出したくなかったのかも…なんて深読みもできますね。
 ともあれ、桐壺帝時代は桐壺帝自身の姉妹(女一宮、女二宮、女四宮)と先帝の皇女(女一宮、女二宮、女三宮)の最低でも6人の皇女が候補として存在しましたから、当然その内の誰か一人か二人は斎宮・斎院を務めていたでしょう。また桐壺帝の皇女では女三宮は斎院になっており、女一宮は恐らく斎宮・斎院にならないまま一品宮となったと思われますが、名前すら登場しない女二宮もどこかで斎宮か斎院になっていた可能性があります。

 その後朱雀帝の皇女たちですが、後に源氏の正室になった朱雀院の女三宮が冷泉帝即位当時6歳ですから、冷泉帝の新斎宮の候補には女一宮・落葉宮・女三宮も入っていたかもしれません。ただし落葉宮と女三宮は明らかに斎宮・斎院経験のないまま結婚していますから、実際に可能性が高いのは女一宮と女四宮です。
 この二人の母については作中では何も触れられていないものの、朱雀帝には皇后はいませんから、彼女たちの母は女御で、それも多分異母姉妹でしょう。落葉宮が更衣腹故に柏木に降嫁したところから見て、それよりは母の出自も高いとするのが妥当でしょうし、また女三宮と違って朱雀帝が出家後の心配をしていない点でも、母方の実家の力もまあほどほどと見ていいかと考えられます。

 朱雀帝の皇女:女一宮
        女二宮(落葉宮、柏木正室) 母・更衣
        女三宮(光源氏正室) 母・女御(先帝皇女)
        女四宮

 ところで、「若菜」下の巻では賀茂祭(葵祭)の際に女三宮から斎院へお伴として12人の女房を送っており、このため手薄になったところへ柏木が忍び込んできて密通するという一大事の引き金になっています。これまたさらりと書き流されているくだりですが、そもそも何故女三宮のところから斎院へそんなに大勢の女房(女三宮方の女房は50~60人とあるので、その約五分の一)が遣わされたのでしょうか?
 斎院となれば間違いなくそれは皇族の姫君、それも既に述べたとおり斎宮とは違って殆どが内親王です。その上威勢盛んな六条院・光源氏の正室として社会的地位も高い女三宮がわざわざそのような心づかいをしているということは、もしかするとこの斎院は女三宮の異母姉妹だったと考えられないでしょうか。(ちなみに原文に「斎院にたてまつりたまふ女房…」とあるとおり、斎宮・斎院は少なくとも格式においては天皇・皇后に次ぐ大変高貴な存在でした) またそれが朝顔斎院の退下した後を受けて代替わりした斎院だとすると、年齢的に考えて朱雀帝の女一宮が最も適当ではないかと推察されます。

 もちろん、上に挙げた以外にも物語に登場しないその他の親王の娘たちも候補であったはずですし、「梅枝」で夕霧の縁談に登場した中務卿宮の娘や、遡れば末摘花も常陸宮の娘ですから、斎宮・斎院(特に斎宮)に選ばれる可能性のあった姫君たちでした。また藤壺中宮の兄兵部卿宮も三人の娘持ちで、長女は髭黒と結婚、次女は冷泉帝に入内、そして紫の上は光源氏と結婚したので皆斎宮・斎院にはなりませんでしたが、彼女たちも候補の一人に数えられたことがあったでしょうね。(もっとも紫の上は源氏に攫われた後は世間的に行方不明でしたけれど。^^;)

 さらに時代下って光源氏没後、宇治十帖の世界では、今上帝には女一宮と女二宮の二人の娘があります。このうち女一宮は明石中宮が産んだ后腹の最高の内親王で、両親の鍾愛深いことからも、恐らく候補に上ることすらなかったでしょう。また女二宮もご承知の通り、裳着と殆ど同時に薫と結婚してしまったので、この頃は内親王から斎宮・斎院になった人は多分いなかったと思われます。
 では親王家の姫君たちはどうかと見ると、作中に登場するのは宇治八の宮の大君・中の君姉妹や、蛍兵部卿宮の娘の宮の御方、蜻蛉式部卿宮の娘の宮の君などがいます。彼女たちはどういうわけか皆早くに父親を亡くした不遇な姫君ばかりで、それでも世間からも忘れられた八の宮はともかく残りの二人は格式から言っても斎宮・斎院候補として充分適格と思われるのですが、作中ではそのような話はまったく出てきません。既に京の都自体が表舞台でなくなってしまった以上、作者もそういうことには気を払わなくなってしまっただけかもしれませんが、特に斎宮は「源氏物語」当時の歴史の中でもどうやら影の薄い存在だったようなので、そんな時代の空気を反映した結果でもあったのでしょうか。


 では最後に、おなじみ今回のおまけ。

  別れの御櫛

 源氏物語『賢木』より、「別れの御櫛」と呼ばれる場面です。(風俗博物館、2004年展示)斎宮に選ばれた姫君は丸2年の潔斎の後、この宮中で天皇が手ずから髪に櫛を刺す儀式を経て、伊勢へと旅立って行きました。

 朱雀帝~帛御装束(白一色の生絹)
 斎宮~唐衣:羅地摺袷襠長袖、裳:目染め、表着:白地銀臥蝶丸文、五つ衣:紅の薄様

 ところで、この夏東京国立博物館で、特別展「伊勢神宮と神々の美術」が開催されます。これに斎宮関連の展示がどの程度出てくるか判りませんが、ともあれお伊勢さん&斎宮のファンとしては今から大変楽しみですね(^^)。


 関連リンク:
  ・斎宮歴史博物館

 関連書籍:
 
内親王ものがたり内親王ものがたり(岩波書店)
(2003/08/29)
岩佐 美代子

商品詳細を見る

 初心者にも読みやすい、飛鳥から幕末まで様々な時代を生きた内親王たちを紹介する好著。

 
伊勢斎宮と斎王 祈りをささげた皇女たち (塙選書)伊勢斎宮と斎王
祈りをささげた皇女たち (塙選書)

(2004/06)
榎村 寛之

商品詳細を見る

 斎宮って何?という方は、まずこの入門書をどうぞ。

 また前回ご紹介した「歴史のなかの皇女たち」(小学館)も、同じく参考図書としてお勧めです。

タグ :

皇女たちの小宇宙 尼門跡寺院の世界

 2009/04/18(Sat)
  20090418183208


 今日は東京芸術大学美術館で開催中の「尼門跡寺院の世界」(2009年4月14日~6月14日)へ行ってきました。
 いつもの絵画等が中心の美術展とはちょっと違いますが、千尋は元々天皇家の歴史、特に女性たちには結構興味を持って色々勉強しているので、こういうマニアックというかマイナーなテーマの特別展は大変嬉しいものです。というわけで、これは観覧の前にひとつ予習をせねばと考えて、↓こんな本を引っ張り出してきました。

  
歴史のなかの皇女たち歴史のなかの皇女たち
(2002/11)
服藤 早苗(小学館)

商品詳細を見る


 この本は何と歴代天皇の皇女たち全員の一覧はもちろん、伊勢斎宮、賀茂斎院、女院、そして今回の尼門跡と、とにかく皇女に関するものはことごとく網羅しているという、とんでもなく素晴らしい貴重な本なのです。初心者の入門書というにはやや内容が濃いかもしれませんが、私も普段は平安時代がもっぱら勉強の対象で、ある程度判るのはせいぜい南北朝時代頃までなので、今回のいささか守備範囲から外れた「尼門跡」について改めてこれで再勉強させてもらいました。
 で、そもそも何で皇女様たちが尼寺に行かねばならなかったのかというと、ひとつには室町時代、特に南北朝以降の天皇家や公家(つまり皇女たちの母方の実家)に経済的余裕がなかったからということらしいのです。特に戦国あたりの天皇家の状況はかなり悲惨で、天皇が代替わりしてもまともに即位式もできない、当然皇后を立てる余裕もなければ皇子女たちに親王宣下をすることもできない、よって特に皇女たちは皆門跡行きだったというわけです(注:天皇の子どもといえど、親王宣下という「認知」を受けなければ格式ある親王・内親王として認められず、ただの皇子・皇女なのです)。江戸時代以降は徳川家から東福門院の輿入れもあって大分ましになり(中宮や内親王宣下もこの頃復活)、御所風の優雅で雅やかな世界が尼門跡の中にも引き継がれて格式高い寺院として認められていったそうですが、遡ればやんごとない方々でも大変だった時代がそのルーツにあったのですね。

 さて肝心の展示ですが、特にカルタやお雛様、香道具に貝合せなど、いかにもお姫様のためらしい可憐で繊細な品々があるかと思えば、お経はお経でも髪の毛で刺繍したり爪を切って板に張り付けたりして作ったという何やら壮絶なものもあって、実にバラエティに富んだ内容に驚きの連続でした。また、皇女たち自身の手になる絵画や書も多く、とりわけ宝鏡寺門跡の徳厳理豊尼(後西天皇皇女)の作品はそれこそ玄人はだしの素晴らしいもので、私の大好きな酒井抱一や近衛家熙のような才能ある人が何と皇族女性にもいたのかと、本当にびっくりです。確かに書や絵画も平安時代の頃から貴婦人の嗜みのうちだったといいますし、天皇のお妃にもそういう芸術に優れた人がいたという話がありますが、まさかこんな世界でそういう人に巡り合えるとは、嬉しい驚きでした。

 ともあれ、今回の展示品は大半が室町から江戸以降のものだったようですが、それにしては全体的に非常に保存状態良好で、これも驚きの一つでした。特に装束類や打敷などは虫食いどころか色褪せすら殆ど見られないものも多く、中でも緑の錦の縁取りと真っ赤な織物の打敷はつい最近作られたものかと思うばかりの艶やかさで、とても200年以上経ったものには見えず目を瞠りました。それに歴代の住持となった皇女たちの肖像もやはりとても綺麗で、皆長い間大切に受け継がれてきたのだろうなと、しみじみと感じました。

 ただ、本を読んだ時にも意外に思ったのですが、皇女たちが寺院に入り「得度」を受けて正式に出家するのは、当時はおめでたいことだったそうです。「源氏物語」に代表される平安時代の感覚に慣れているおかげで、出家というと俗世どころか人生そのものを捨てるような悲愴なイメージがありますし、また現代でも「尼寺」なんていうと西洋の女子修道院のような厳しい世界を想像してしまいそうですが、尼門跡(当時は「比丘尼御所」と称した)の中も公家の雅やかな王朝文化の世界と殆ど変わらず、経済状況も結構豊かだったということです。また外部との交流も頻繁な開かれた環境であったらしく、花見や盆暮れの頃には里帰りもしたし、遠方の寺院へ参詣旅行にも行ったとかで、それなら下手に降嫁して嫁ぎ先で窮屈な思いをするよりもむしろ幸せだったのかしら?などとふと思ってしまいました(笑)。


 最後にもう一つ、今回のおまけ。

  尼宮

 出家した皇女と言えばこの人、というわけで(?)、恒例風俗博物館の展示から、五條袈裟姿に尼削ぎ髪の女三宮(2006年展示『幻』より)。
 出家して俗世のわずらわしさから解放された女三宮ですが、尼にしては可憐な色遣いの装束にやはり彼女らしさを感じます。

タグ :

100歳の夢

 2009/04/17(Fri)
20090417094804


 今月5日、千鳥ヶ淵のお花見のついでにちょっと足を延ばして、始まったばかりの「山口伊太郎遺作「源氏物語 錦織絵巻」展」へ行ってきました。前回も同じ大倉集古館で拝見しましたが、しばらく間をおいたため記憶も大分曖昧で、おかげで今回久々に間近で見てまた感動を新たにしてきました。織物ならではの装束のリアルな表現ももちろん素晴らしかったですが、詞書まで全部織物にしてしまおうという職人根性にはまったく恐れ入ります…

 そして今回、改めて生前の年表を見てびっくり仰天したのですが、何とこの方私が生まれるより前からこの源氏物語絵巻にずっと取り組んできたのですね。70歳になってこんな遠大な目標を掲げるだけでも凄いのに、さらにそれから30年以上、文字通り死ぬまでかけて没頭したその情熱とバイタリティにもほとほと頭が下がります。しかも一時は実物大で作りたい(!)なんて言い出したこともあったそうで、これはさすがに周りが無茶だと止めさせたらしいですが(笑)、いくつになっても常に向上心を忘れない方だったのだなあと、何だか羨ましいような気さえしてしまいました。

 ところで、今回は展示されていなかった「御法」巻の源氏と紫の上の場面ですが、写真を見ておやっと思ったことがありました。
 以前「源氏物語の1000年 あこがれの王朝ロマン」でちらりと触れたように、例の復元模写での紫の上は純白の衣裳を纏っていてあれれと思ったのですが、伊太郎さんは(紫の上という名前からの連想でしょうか)ここで艶やかな紫の小袿?を着せているのです。そこで改めて解説や図録を読んでみたところ、ご本人は決して絵巻の忠実な復元を目指したわけではなく、こういう風に表現したいという自分なりの美意識や主義に基づいて作成したとのことで、なるほどとそれで納得しました。また逆に「竹河一」のように現存の絵巻では白梅にしか見えない絵を、ここは絶対紅梅がいいといってそのように作ったら、後の科学調査でも紅梅だったと判ったという話もあったりして、知らずに選んだ色が古代の製作者の意図通りだったのだからこれも凄いですね。

 ともあれこの織物の絵巻、特に目を惹かれたのは全体の立体感で、人物の纏う衣裳の文様はもちろんのこと、「竹河二」で画面中央に描かれた満開の薄紅色の桜の花びらがひとつひとつ刺繍のように表現されているのがそれは綺麗でした。これは写真だけでは絶対に判らない美しさなので、展示替以降にぜひもう一度行ってじっくり堪能してこようと思います。

タグ :

飛鳥の美人

 2009/04/16(Thu)
 先日の京都旅行でお花見のついでに、10年ぶりくらいで太秦の広隆寺へ行ってきました。
 ただ今東京では奈良から出張中の阿修羅像で大騒ぎですが、あの阿修羅が天平の、否仏像で日本一の美少年(笑)だとすれば、広隆寺の弥勒菩薩は日本一美人な仏像だと常々思うのです。(そして美男子仏像日本一は東寺の帝釈天で決まり。笑) ともあれ、随分久しぶりにお会いした弥勒菩薩は、やっぱり今も変わらずそれは綺麗でした。

 また今回、たまたま日曜に参拝したら、窓口で「今日は桂宮院を見られますよ」と言われました。確か前回見た覚えはなかったので、それではと早速細い横道を進んでいくと、突き当りには小さいながらそれは美しい御堂があったのです。撮影禁止のためここでご紹介できないのが非常に残念ですが、法隆寺の夢殿のような八角形の形に檜皮葺の屋根の、てっぺんの宝珠以外殆ど飾り気のないつくりが何とも慎ましく、それでいてすっきりとした気品さえ感じるような素敵な御堂で、思わず入口に張り付いて(笑)惚れ惚れと見惚れてしまいました。
 そして御堂までの道も竹林に囲まれた実に清々しい場所で、折しも初夏のような暖かい陽気の中、爽やかなそよ風と葉擦れの音にしばしうっとり、大げさでなく本当に夢心地の時間を過ごしてきました。その直前訪れた仁和寺がまた花見客で凄い混雑だったので(苦笑)、あの静けさは一層心洗われるようでしたね。あんな感激を味わったのは初めて下鴨神社の糺の森を訪れた時以来で、公開は4、5、10、11月の日曜・祝日のみに限られているということでしたが、ぜひぜひまた訪れようと固く決心した千尋でした。まったく何度訪れても時にこんな発見があるから、京都はやめられません…(笑)

追記:
やっぱりもったいないので、拝観の際いただいたリーフレットの写真からご紹介。
まさしく夢殿の小型版のような、可愛らしくも端正な御堂でした。

広隆寺桂宮院


タグ :

源氏物語の皇女たち

 2009/04/14(Tue)
 以前「光源氏の兄弟について」というお題でつらつらと述べましたが、最近またいくつか気になることが出てきたので、ちょっとまたつらつらとひとりごとです。

 舞台が平安時代の貴族階級ということで、源氏物語には多くの異母兄弟が登場します。むろん皇族とて例外ではなく、とりわけ天皇の子どもたちは同母の兄弟姉妹より異腹の方が断然数は上回るのは至極当然ですね。
 とはいえ、天皇家に同母兄弟がいないわけではなく、判っているだけで以下の人々が登場します。


  一の院?の皇子女
   桐壺帝・女三宮(大宮)……母:皇后

  先帝の皇子女
   兵部卿宮・女四宮(藤壺中宮)……母:皇后

  桐壺帝の皇子女
   朱雀帝・女一宮・女三宮……母:弘徽殿女御

  冷泉帝の皇子女
   皇子・女二宮……母:院の女御(玉鬘の娘)

  今上帝の皇子女
   東宮・二宮・三宮(匂宮)・五宮・女一宮……母:明石中宮


 このような具合で、物語の中で重要な活躍をする人物、特に主役級となると宇治十帖の匂宮くらいですが、本文に記されていないだけでこの他にも同腹の兄弟姉妹がいたかもしれません。中でも桐壺帝は判っているだけで皇子10人(実際は冷泉帝を除く9人)・皇女3人と子沢山でしたし、また先帝も藤壺の上に3人の皇女がいたのですから、史実の例を見ても一人っ子ばかりと考える方がむしろ不自然でしょう。

 ところでそんな中、物語を読み返していてふと気になったのが、上に挙げた以外の桐壺帝の兄弟たちです。
 物語に登場する人物としては、桐壺帝・大宮の他に故前坊(六条御息所の夫)、式部卿宮(朝顔斎院の父)、女五宮の3人がいます。このうち前坊はその死後も桐壺帝の気遣いの並々ならぬところから、恐らく同母弟だろうとする人が多いようですが、式部卿宮と女五宮の二人もやはり、「朝顔」の巻で「故院の、この御子たちをば、心ことにやむごとなく思ひきこえたまへりしかば」(亡き桐壺院がこの方々をとりわけ心にかけて大切にしておられたので)という説明がさらりと出てきます。大宮がはっきり「内裏の一つ后腹になむおはしければ」と原文にあるのに対し、この二人はそのような紹介のないところから同母ではなかったろうと思われますが、それでも母親同士が親しい近縁同士だったという可能性もあるのではないでしょうか(もっとも摂関全盛期の場合、なまじな近親は却って仲悪かったりもしましたが)。
 また、式部卿宮と女五宮は長年桃園宮で共に暮らしており、このことから二人が同母兄妹(または姉弟?)であった可能性はかなり高いのではないかと思います。この点についてはあまり注釈などで深く追及しているものを見かけたことがないのですが、玉上琢禰氏が「源氏物語評釈」に桃園宮伝領の考察の中でちらっと同じ意見を書いていたので、おお、やっぱり専門家の先生もそう思うのか、と嬉しくなりました。なお史実では兄弟の他におじ・おばと甥・姪が養子縁組をして同居していた例もあったそうですが、朝顔斎院の実母が作中に登場しないところから見て、おばの女五宮が母代りのような立場であった可能性も考えられるかも…?

 なお、皇女といえば源氏物語ではあまり出番の多くない「斎王」(斎宮・斎院)も重要なテーマの一つですが、それについてはまた後日項を改めて。


  女三宮
  女三宮。風俗博物館・2006年展示『若菜』より、紫の上との対面の場面。
  高貴な人ほど略装の当時、皇女としてはかなり珍しい正装の裳唐衣姿です。

  唐衣:赤地萌黄藤丸文、表着:黄地白小葵文、五つ衣単:餅躑躅かさね

タグ :

嵯峨野の春

 2009/04/12(Sun)
20090412154430

今日は嵯峨野の大覚寺で、ちょっと優雅に舟遊びを楽しんできました。
ゆったり波にゆられながら見る岸辺の桜並木はさすがにそろそろ盛りを過ぎていましたが、心地よいそよ風のたびに舞い散る花吹雪がそれは綺麗で、まさしく源氏物語の「胡蝶」の巻のようで、何とものどかな一時でした…幸せ(^^)

タグ :

都の春

 2009/04/11(Sat)
20090411181029

今日は久しぶりの京都へお花見ついでに、風俗博物館へ行ってきました。今回の展示のメインは、「初音」の男踏歌で、珍しく(笑)事前に予習をしていったのですが、やはり百聞は一見にしかずというか、えーこれってこんなだったの!?という驚きが一杯でとても面白かったです(^^) おかげで早くお花見行かなきゃと思いながらもついつい長居、結局気づけば1時間以上見入ってしまいました。…やっぱりあそこは、他に用事があって忙しい時には迂闊に行かない方がいいようです…(^-^;)

タグ :
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。