生誕100年 東山魁夷展

 2008/05/26(Mon)
2004年の大回顧展から早4年、久しぶりの東山魁夷展に5月5日行ってきました。
今回は魁夷さんご本人の講演会での解説録音を聴けるとあって、普段はめったに借りない録音ガイドも利用しまして、これがまた面白かったです。絵だけでなく文章も達者な方でしたが、語り口も穏やかで聞きやすく、この人は言葉もいいなあと改めて思いました。

ところで、もし東山魁夷の絵は何色のイメージか、と訊いたら、かなりの人が「青」と答えるのではないかと思います。ところが今回初めて気付いたのですが、確かに魁夷さんの絵は青が多いけれど、その割に真っ青な快晴の空を描いた絵は意外に少ないのですね。どの絵も空の面積が少なかったり、あっても雲が多かったり夕暮れだったり夜だったりで(そして月を描いた作品が結構多い)、やっぱり大好きなマグリットが描くようなぱっきりと青い空が殆ど見当たらないのは盲点でした。

で、そんな中で少ないながら青空が描かれた絵のひとつに、代表作の「道」があります。もっともこの絵の空も、青空というにはやや霞んだ感じの、春独特の少し低く灰色がかった空のように見えました。またもうひとつの代表作「残照」は、雲ひとつない空ながら名前の通り薄暮のごく淡い茜色で、やはり真昼の青空という感じではありません。魁夷さんの絵(特に風景画)は殆ど人が存在しない、画家の心の中の景色を描いた心象風景なんだなということは前から感じていましたが、その世界には一体どんな空があったのでしょうね?
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続・源氏物語の親王

 2008/05/18(Sun)
昨日の記事で、すっかり忘れていたことがひとつありました。
源氏物語に出てくる親王といえば、もう一人忘れちゃいけない常陸宮がいたのですよね。はい、(この人も名前だけしか登場しませんが)末摘花のお父さんです。(笑) すみません、影薄い人なのですっかり失念してました…

さてその常陸宮ですが、この人は末摘花登場の時点で既に亡くなっており、子どもは末摘花とその兄(既に出家)の二人がいることが判っています。特に末摘花は常陸宮が晩年にもうけて特に可愛がっていた娘ということなので、もし常陸宮が生きていたとしても多分それなりの高齢だろうと思われますから、少なくとも桐壺帝の兄弟ではないでしょう。(だったら朝顔の姫君の父式部卿宮のように、はっきりそれと書いているはず)
そうなると、残るは先帝の皇子の一人であったか、あるいは別の帝の子であったかということになります。ただ先帝の皇子だとすると、つまりは藤壺の兄弟(恐らく異母)であって、その娘の末摘花は紫の上と同じ藤壺の姪ということになるのですよね。そんな(ある意味愉快な)血縁関係があったら絶対書かずにはいないでしょうし、多分これもなしと見ていいでしょう。

なお「常陸宮(常陸太守とも称する)」という肩書きは、前項で触れた式部卿・中務卿・兵部卿などに比べて一段格式の低いものらしく、後に宇治十帖で登場する今上帝の常陸宮(第四皇子)は更衣腹の親王ということになっています。これから推して、この常陸宮も生母はあまり身分の高い人ではなく、実際訪れる人も殆どないひっそりした暮らしぶりだったようですが、音楽に嗜みの深い人であったとされることや、生前はそれなりに財産も色々所持していたとみられるところからして、皇族としての体面や格式は恥ずかしくない程度に保っていたのでしょうね。(少なくとも、後に登場する宇治八の宮よりはましな生活だったでしょう)
本文をよく読むと、末摘花の邸は手入れが行き届かず荒れ果てていたものの、道具は常陸宮が娘のために調えた古風で立派なものが揃っているとあり、またお香もさすがに宮家らしい格式高い品が伝わっていたようです。この辺は「源氏の薫り」(尾崎左永子、朝日新聞社)という本がとても詳しく判りやすいので、絶版本ですが興味のある方は図書館か古書店で探してみてください。(なお同著者による「源氏の明り」「源氏の恋文」もお勧めです)

なお余談ですが、常陸宮の遺品で末摘花が愛用していた黒貉の皮衣からは、醍醐天皇の第四皇子重明親王が連想されます。しかも親王の息子で「青侍従」と呼ばれた源邦正は、『今昔物語』によれば「顔は青白く、鼻は鮮やかに高く赤く、振舞いも優雅でなかった」そうで、男性ですがまさしく末摘花そっくりなのですね。
ちなみに私、実は重明親王の娘の斎宮女御徽子女王の大ファンなので、こういう連想は正直ちょっと不本意なのですけれど(苦笑)、その斎宮女御も六条御息所・秋好中宮母娘のモデルとなっているといわれており、かように源氏物語のキャラクターにはところどころ実在人物に面影を借りた人が多くいるのも面白いところです。ついでに言えば、村上天皇中宮安子が勝気で嫉妬深かったという話なんかはどうも源氏物語の弘徽殿女御を連想して仕方がないし(笑)、そんなゴシップは当時もさぞかし宮廷社会で話題になったんでしょうね。

というわけで、最後はちょっと昔の写真から、源氏物語にちなんだものを二つ。


1.2004年葵祭の斎王代御輿

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斎王代ご本人が「晴れ女です(笑)」とコメントしただけあって、この年は本当にいいお天気でした。

2.風俗博物館の展示より
 源氏四十の賀の支度をする女房(若菜上)

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いつ見ても色とりどりの衣裳がどれも美しいですが、こういう紫系が一番好きです。
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光源氏の兄弟

 2008/05/17(Sat)
 今年は源氏物語千年紀ということで、京都では昨年から様々なイベントが開催されています。私も京都や平安時代は大好きで、先日行ってきた源氏物語展(京都文化博物館)の準備にあたって久しぶりに手元の本を読み返したりしてお勉強していました。
 そんな中で、ふと気になったのが本日のお題、「光源氏の兄弟」です。

 そこで問題、光源氏は一体何人兄弟でしょうか?

 答え:判りません(笑)

 というのも、『源氏物語』の中では意外とこういうことははっきりしていなくて、光源氏が父桐壺帝の何番目の皇子だったのかすら書かれていないんです。もっとも源氏の場合は、話の展開からして恐らく第二皇子だろうと言われていますが、それ以外の皇子たちに至っては、なまじ宇治十帖に登場する「八の宮」のような呼び方をしないために、誰が何番目かも判らないのですね。
 ともあれ、原典から確実に判る限りでの源氏の兄弟(即ち桐壺帝の子)は、以下の人々です。

【桐壺帝の皇子女】
 * 第一皇子…朱雀帝。弘徽殿女御腹
 * 第二皇子…光源氏。桐壺更衣腹
 * 第三皇子(?)…蛍兵部卿宮
 * 第四皇子…「紅葉賀」のみ登場。承香殿女御腹
 * 皇子…帥宮。「蛍」のみ登場
 * 皇子…蜻蛉式部卿宮。「蜻蛉」のみ登場
 * 第八皇子…宇治八の宮
 * 第十皇子…冷泉帝(実の父は光源氏)
 * 第一皇女…一品宮。弘徽殿女御腹
 * 第三皇女…斎院。弘徽殿女御腹

 こんな具合で、桐壺帝の子は公式には皇子が十人(ただし冷泉帝は源氏の子なので、実質九人)、皇女は最低三人いたことが判ります。なお名前しか出てこない「帥宮」や「蜻蛉式部卿宮」、そしてごく初期に登場しただけの第四皇子の三人は、ことによると誰かと誰かが同一人物かもしれませんが、まあこれはひとまず考えないとしましょう。

 さて、源氏物語に登場する皇子は当然この他にもいまして、第二部までに登場するのは主に桐壺帝の兄弟(父は「紅葉賀」に登場する一院とする説が有力)、次いで先帝の皇子たちです。では、まず桐壺帝の兄弟から見てみましょう。

【桐壺帝の兄弟(一院の皇子女か?)】
 * 前坊…前東宮(既に死去)。桐壺帝と同腹
 * 桃園式部卿宮…朝顔の斎院の父。桐壺帝と前坊の弟か
 * 大宮…女三の宮。桐壺帝と同腹
 * 女五の宮…朝顔の斎院と同居

 さらに、先帝の子どもたちは以下の通りです。

【先帝の皇子女】
 * 兵部卿宮…のち式部卿宮。紫の上の父
 * 藤壺中宮…女四の宮。后腹。
 * 源氏女御…更衣腹(女五の宮?)。女三の宮の母

 皇女は最低でも五人いたことが判りますが、皇子で判っているのは兵部卿宮だけです。
 そもそも、この先帝という人は色々謎に包まれた帝で、物語が始まった時点(つまり光源氏誕生前)で既に亡くなっていますが、桐壺帝とはどういう血縁関係か、いつ頃何才で亡くなったのか、まったく判っていません。(「故院」等と呼ばないところからみて、譲位せず帝のまま亡くなったのだろうといわれていますが)
 ただ、先帝の四女である藤壺中宮が源氏より五才年上で、その兄兵部卿宮は(娘紫の上の年齢から逆算して)源氏より十才は年上だろうと考えられます。よって先帝自身も、少なくとも桐壺帝より年上の人だったと見ていいでしょう。

 以上、これで物語に登場する皇子たちの全員が判ったかと思いそうですが、実はこの他にもまだ出てくる皇子がいるのです。

 明石の姫君の裳着と入内の支度の華やかな様子を語る「梅枝」で、相変わらず恋人雲居の雁と進展のない夕霧のところに、他の有力貴族からの縁談がちらほら舞い込んできます。そのうちの一人に、中務卿宮という人がいるのですが、この人はこの時限りの登場と言うこともあって、その系図がまったく判っていません。よって色々な解説にもそう書かれているだけで、あまり注目されない人物だったのですが、最近になってこの人が一体どういう人なのか、ちょっと気になってきました。

 まず、「中務卿宮」という肩書きからして、当然帝の皇子です。源氏のように臣籍降下しておらず、それどころか最低でも四品以上の、名誉職とはいえそれなりに重んぜられる立場の親王で、格式から言っても決して低くはありません。さらに当代の最高権力者である源氏の一人息子に「娘の婿になってほしい」と申込んでくるくらいですから、後に登場する八の宮のように零落した立場でもなかったでしょう。

 ここで問題なのは、この中務卿宮が一体「どの帝の皇子(または兄弟)なのか」です。

 まず、桐壺帝自身の兄弟ですが、この頃既に上で触れた全員が亡くなっています。他に長生きした人もいたかもしれませんが、その娘が適齢期を迎えている頃であるとなると、ちょっと条件が苦しくなります。
 もちろん、年を取ってから若い妻を新たに迎えり、お手つき女房あたりに子どもができたりとかいう可能性も十分ありえます。しかし平均寿命の短いこの時代、四十を過ぎてから生まれた子どもでは、成人前に父親が死んでいてもおかしくありません。(実際、光源氏と薫がそうでした) 中務卿宮は登場時存命ですから、単純に考えてこの線はなしとしていいでしょう。

 そうなると、次に絞られてくるのは、先帝の子か、それとも桐壺帝の子か、です。
(先帝・桐壺帝以外の帝がいた可能性もありますが、存在すら触れられていないところから見てこれは除外します)

 先帝は物語の始めから故人だったらしく、源氏の誕生より前に亡くなっているようですから、当然その子どもたちも皆源氏より年上です。中でも式部卿宮は、次女を冷泉帝の後宮に入れているとはいえ、「梅枝」の時点でそろそろ孫娘が適齢期にさしかかろうという人なので、もし彼よりさらに上の兄弟がいたとしても、年頃の娘の存在を考えるのは少々無理があります。
 とはいえ、藤壺の異母妹にあたる源氏女御(恐らく末娘か)の場合、源氏との年齢差はおよそ三才から五才、朱雀帝の妃であるところから見てもほぼ同年代です。となれば、彼女以外にも源氏と年の近い皇子がいてもおかしくはないでしょうし、その子どもが源氏の子どもと釣り合う年齢だというのも十分に考えられます。

 ではもう一方、桐壺帝の子、つまり源氏の兄弟だとすればどうでしょうか。

 こちらの場合、源氏の弟の蛍兵部卿宮が第三皇子と考えられているので、中務宮はそれより下ということになります。(場合によっては、既に登場済の第四皇子や帥宮と同一人物の可能性もあります) 源氏と冷泉帝の年齢差が十九才なので、その間の弟とすれば同い年から十八才までかなりの幅がありますが、八の宮は源氏より九才下と判っています。もちろん、その下の第九皇子はもっと年下の可能性もありますが、源氏が九才の時に藤壺が入内した頃他の妃は皆そう若くないと言われていますから、せいぜい十才違いどまりと見ていいでしょう。(ついでに異母兄弟なら同い年ということもありえます)

 さてここでひとつ確認しておきますと、源氏に息子夕霧が生まれた時、生母葵の上(二十六才)は当時としては遅い初産でした。そして夕霧も、父の源氏は十二才で結婚したのに十八才でいまだに独身という、当時としてはこれまた結婚が遅れていたのです。
 ですから、中務卿宮が源氏より年下であるなら、中務卿宮が普通に結婚して生まれた娘がそろそろ適齢期を迎える頃にちょうど当たったとしてもおかしくありません。手ごろな婿候補がいるならもっと早くに申込んでいそうなものですが、そこは雲居の雁との噂もありましたし、娘の成人前だったとすれば納得できます。
 ちなみに雲居の雁は当時二十才、当時の高貴な姫君としてはこれまた婚期が遅れている方でした。もちろん入内するなら東宮の元服まで待つしかありませんが、そうでなければもっと早くに婿取りするのが普通だったのです。よって中務卿宮の娘も、夕霧と同年代(十六~十八)の姫君とは考えにくいですし、恐らく裳着を済ませたばかり(十一~十三)かそれより少し上、と見ていいでしょう。

 もっとも、娘が夕霧との結婚を考える年頃ということは、同時に東宮への入内もできる年齢であったはずです。とはいえ源氏の一人娘(明石の姫君)という大本命がいる以上、周りが勝ち目はないと始めから諦めていたことは物語の中でも語られていますから、それくらいなら源氏の息子を婿にした方がよほど得だと誰しも思うでしょう。
 特に宮様などと言えば、格式こそ高くても政治的実権はないわけで、さればこそ少しでも有力な公卿と姻戚になりたいと思うのは当然です。現に蛍兵部卿宮はそれもあって熱心に玉鬘に求婚したわけですし、もし彼に手ごろな娘がいたら、やはり夕霧との縁談を考えたかもしれませんね。

 というわけで、結論としては「先帝の皇子か桐壺帝の皇子で、どちらであってもおかしくない」ということになります。
 ただ先帝皇子説の場合、源氏女御は女三宮物語を始めるにあたって新たに設定された「後付け」要素の強い人物と思われるので、第一部までは藤壺が先帝の末子と想定されていた可能性も大いにありうると思います。一方桐壺帝皇子説の場合、皇子が十人いたと明言されるのは宇治十帖の始まり「橋姫」でのことなので、それまでは紫式部も何人いるのか考えていなかったかもしれません。(笑) とはいえ、普通に考える限りでは(作中に明言してはいませんが)桐壺帝皇子説の方が素直に納得できるかなあ、というのが私の考えです。


 ところで、そもそもこの「中務卿宮」という肩書き、一体どんなものだったのでしょうか?

 桐壺帝の後宮の様子は醍醐天皇の御世に倣ったとよく言われるので、その醍醐天皇の皇子たちの肩書きをそれぞれ改めて見てみたところ、以下のような具合でした。

 *第一皇子・克明親王~三品兵部卿(母・更衣源封子、左京大夫源旧鑑女)
 *第三皇子:代明親王 - 三品中務卿(母・更衣藤原鮮子、伊予介藤原連永女)
 *第四皇子・重明親王~三品式部卿(母・更衣源昇女、参議源昇女)
 *第五皇子・常明親王~三品刑部卿(母・女御源和子、光孝天皇皇女)
 *第六皇子・式明親王~三品中務卿(母・女御源和子)
 *第七皇子・有明親王~三品兵部卿(母・女御源和子)
 *第十一皇子・兼明親王(前中書王)~二品中務卿(母・更衣藤原淑姫、参議藤原菅根女)
 *第十三皇子・章明親王~二品弾正尹(母・更衣藤原桑子、中納言藤原兼輔女)

 下の二人は長生きだったこともあってか二品まで進んでおり、上の六人は全員が三品です。特に式部卿・中務卿・兵部卿は、臣下の官位としては皆従四位相当で同等ですが、各親王の歴任の様子などから見て、格式の高い順に式部卿、中務卿、兵部卿のようですね。(この辺詳しくないので間違っていたらこめんなさい)
 つまり、この点に関して言えば、源氏物語の「中務卿宮」は少なくとも蛍兵部卿宮と同じくらいか、もしかするとやや格上の人だった、ということになります。普通の兄弟であれば年齢に従って順序も決まるでしょうし、となると先帝の皇子の方がどう見ても年上ですね。
 しかし、光源氏がそうであったように天皇の皇子の場合、生母の身分も皇子の待遇に関係してきます。(既に触れた源氏女御も、更衣腹で光源氏同様臣籍降下した皇女でした) ですから、中務卿宮が蛍兵部卿宮よりさらに下の兄弟だったとしても、より有力な女御などを母としていれば、格式の上では兄より上位になる可能性もありえるのではないでしょうか。(これも確証はないので違っていたらごめんなさい)

 というわけで、中務卿宮が桐壺帝と先帝どちらかの皇子であろうという結論には達したものの、それ以上絞り込むことはできませんでした。とはいえ、今まで気にもしていなかったことで調べ甲斐があって面白かったです。(^^)


 そうそうもうひとつ、源氏物語の中で「中務卿宮」と呼ばれる人は、これより前にもう一人います。
 源氏の側室・明石の君の曽祖父(明石の尼君の祖父)にあたる人で、この人も名前だけしか登場しませんが、大井に別荘を持っていたとされたところから、古来醍醐天皇皇子の兼明親王をモデルにしたのだろうとされています。紫式部が生まれる前、あるいはまだ幼い頃に亡くなっていますが、「前中書王」と呼ばれたほどの人物でしたから、もちろん作者も「中務宮」を出すにあたってはモデルとまでいかずとも大いに意識したことでしょう。
 とはいえ、夕霧の縁談に関係する中務卿宮はそれよりずっと時代下って、物語の中で今現在存在する人です。それでふと思ったのですが、そういえば同じ歴史上の有名な中務卿宮にもう一人、具平親王がいるのですね。

 具平親王は村上天皇の第七皇子で、兄弟の中では年少ですが、皇族出身の女御を母に持つ格式高い生まれです。上記の兼明親王に対して「後中書王」と呼ばれた知識人であり、加えてこの人は実は紫式部とは血縁にあたる近しい人物である上、まさに『源氏物語』が世に出た当時の現役の中務卿宮でした。
 しかも具平親王の長女隆姫は、時の最高権力者・藤原道長の長男である頼通の正室になっています。物語の中の中務卿宮は結果的に夕霧を婿取りすることはできなかったので、モデルと言うほどではないにせよ、少し重なるところがあるような気がするのですが、どうでしょう?


 以上、平安時代も源氏物語も本格的に勉強したことはまったくないのですが、とりあえず自分で調べられる範囲内で判ったり考えたりしたことを長々と書いてみました。残念ながらこの件に関する論文などは見つけられませんでしたが、もしご存知の方がいらしたらぜひご教授お願いいたします。

 参考文献:「源氏物語評釈(玉上琢禰)」「源氏物語の鑑賞と基礎知識」他

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訃報

 2008/05/15(Thu)
14日に角田文衛先生が亡くなられたそうで、突然の知らせにびっくり仰天しました。
今まで角田先生の著作には平安時代関連のお勉強で山のようにお世話になり、ついこの前も京都文化博物館へ源氏物語展を見に行ってきたばかりだっただけに、95歳の大往生とはいえやはり残念です。
葵祭前日というところがまた何だか、最後まで平安時代をこよなく愛した角田先生らしいようにも思われますが、ともあれ今まで本当にありがとうございました。心からご冥福をお祈りいたします。

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