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初詣と紫野散歩

 2017/01/16(Mon)
 大変遅まきながらですが、あけましておめでとうございます。目下色々と立て込んでいて、なかなかブログまで手が回らずにおりますが、本年もよろしくお願いいたします。

 1月最初の連休は久々に京都を訪れたので、初日の7日に早速上賀茂神社・下鴨神社へ初詣に行ってきました。
上賀茂さんでは真っ白な神馬がお出迎えしてくれまして、見るとどうやら午前中に神事があった模様。そこで気がつきましたが、そういえば一月七日は平安時代には「白馬節会(あおうまのせちえ)」の日だったのでしたね。今ではすっかり七草粥になってしまいましたが、今でも上賀茂神社や大阪の住吉大社等では毎年行われているそうです。

  上賀茂神社の神馬


 その後上賀茂さんからの帰り道、うっかり勘違いで遠回りのバスに乗ってしまったのですが、これがある意味運のいいことに千本通りを下る路線でした。ということは、今出川通から二条駅の手前までは平安時代の大内裏のど真ん中を通り抜けることになるわけです。これはこれで面白いなと喜んで外の景色を眺めていましたが、そこでふと気がついたことがありました。

 斎院サイトをご覧いただいた方はGoogleMapがあるのをご存知かと思いますが、この地図には歴代斎院ゆかりの場所や邸宅、墓所等はあるものの、大内裏の中にあった初斎院の場所は載せていなかったのです。これはいかんというわけで、昨日改めて大内裏と内裏の範囲、そして歴代初斎院跡を地図に付け加えました。あまり細かくすると現在の地図がわかりにくくなってしまいそうだったので、内裏と初斎院以外の施設については特に触れていませんが、大体の位置はおわかりいただけるかと思います(今では便利なスマホアプリもあるようですが、千尋はスマホは持っていないので…)。
 またついでに、今までアイコンを初期設定のままにしていましたが、内容別にわかるよう変えてみました。上賀茂・下鴨両社と紫野斎院跡とされる櫟谷七野神社は神社マークで、邸宅跡は家の形のマークで表しています。なお墓所はなかなか適当なものがなく、悩んだ末に十字マークを選びました。
 ともあれ、この地図は簡単な説明と関連施設へのリンクがある程度なので、後日写真等も付け加えていく予定です。

・「賀茂斎院関連マップ」
 https://goo.gl/p0hrgP

 さて、8日は大雨だったこともあり平安京散歩は残念ながらお預け、最終日の9日に紫野の櫟谷七野神社へ行ってきました。
 思えば最初にこの場所を訪れた頃(2003年)は、斎王に興味を持ち始めてはいたものの、まだ賀茂斎院自体をあまり理解してはいませんでした。なまじその時の写真も手元にあったため、斎院サイトを開設してからもずっとご無沙汰していたのですが、このたび本まで作ったからには改めてきちんとご挨拶に行かねばなりません。
 というわけで、せっかくだから本のタイトル「紫野逍遥」のとおり、神社から紫式部のお墓までぶらぶらお散歩してみようというのが今回のささやかなミッションでした。

 櫟谷七野神社は堀川通のバス停「天神公園前」から、上御霊前通を西へ向かって徒歩で約5分ほどの場所です。途中はごく普通の町並みで、少し細い道をひたすらまっすぐ進むと、T字路に突き当たる直前の右手に神社がありました。

  櫟谷七野神社


 神社は奥まった小高い場所にあり、拝殿脇の東側に賀茂斎院跡の立派な石碑が建っています。境内はすっかり駐車場になってしまっていますが、階段を上るとなかなかいい眺めで、まだ高い建物が少なかった頃は京都市内を一望できたかもしれませんね。

 お次は一度東に戻り、今度は大宮通を北上します。
 ここは少し広い通りで、平安時代には大内裏の東端を貫く「大宮大路」でした。つまりこの道はその昔、賀茂祭で斎院一行が往来した道でもあるのです。今ではまったくその面影もない普通の通りですが、そう思いながら歩くとやはり感慨深いものがありました。
 そして鞍馬口通を東に向かい、再び堀川通に出てちょっと北上すると、北大路通の少し手前に紫式部と小野篁の墓所があります。ここも随分昔に一度訪れたことがあり、久々の訪問でした。

  紫式部墓所


 もう少し足を伸ばせば近くに雲林院もあるのですが、今回はあまり時間もなかったのでここで終了、そのままバスで駅へ戻りました。珍しく天候にあまり恵まれない旅行になってしまいましたが、今年は何とかまた5月に京都へ行きたいなと思っています。


 ところで、来月東京渋谷にて、斎宮歴史博物館・國學院大學博物館共同シンポジウム「伊勢神宮と斎宮」 が開催されます。もちろん千尋も早速申し込み、ここで紹介しなければと思っているうちに気がついたら〆切となってしまいましたが、東京でこうしたイベントが開催される機会はあまり多くはないので、今からとても楽しみです。

・シンポジウム「伊勢神宮と斎宮」公式サイト
http://museum.kokugakuin.ac.jp/event/detail/2016_ise_saiku.html

 なおもう一つ、所京子先生の最新刊『斎王研究の史的展開 伊勢斎宮と賀茂斎院の世界』(勉誠出版)が、このたび発売となったそうです。
 所先生の斎王研究書は既に『斎王和歌文学の史的研究』『斎王の歴史と文学』の2冊が発行されているものの、その後未収録の論文が随分ありましたが、今回ようやくそれらがまとめて収録されたようでこちらも大変楽しみです。

『斎王研究の史的展開 伊勢斎宮と賀茂斎院の世界』
(Amazon)
https://www.amazon.co.jp/dp/4585221638/
(勉誠出版)
http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100665

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出版のお知らせ

 2016/12/01(Thu)
 突然ですが、このたび賀茂斎院の本を作ってしまいました。
 といっても、自費出版でごく少部数の非売品で、内容も斎院サイトの「用語集」及び「賀茂斎院から見る『源氏物語』年立論」を収録した他は、一部訂正を除いて特に書き下ろしもありません。ただ今回、プロバイダ終了でやむをえずサイトの引っ越しをするにあたり、せめて今までのサイトがある間に何かの形でその記録を残しておきたいと思い、出版に踏み切りました。

 というわけで、↓こんな本です。

murasakino-syoyo.jpg

 一番悩みに悩んだのがタイトルで、散々頭をひねった末に「紫野逍遥」としました。
 実を言うと、どうせなら今後は歴代の斎院についての調査をまとめた本も追い追い出していきたいと考えておりまして、今回は言わばその準備号です。114pのそれほど厚いとはいえない本で、しかも大半を源氏物語のレポートに取られてしまいましたが、次回はもっと「賀茂斎院」が主役らしい本にしたいものです…(苦笑)

 というわけでこの賀茂斎院本、このたび国立国会図書館に納本してきました。また他にも、これまで諸々お世話になった図書館さんや博物館さん等で、受け取っていただけるところがあれば寄贈させていただきたいと考えています。

 ところでうっかり今まで書き忘れていましたが、現在三重テレビで今年3月から特別番組「斎王」を放送中です。全10回シリーズで、第9回はずばり「もうひとつの斎王」、即ち賀茂斎院がテーマでした。私は本日テレビ埼玉で見ましたが、これから放送予定の局もありますので、ご存知なかった方はぜひチェックしてみてください(できれば後で全話もう一度再放送してくれるといいんですが…)。

特別番組「斎王」公式サイト
http://www.mietv.com/saio/onair.html

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引っ越ししました

 2016/11/01(Tue)
本日、賀茂斎院サイトを移転しました。新サイトのURLはこちらです。

http://kamosaiin.net/

今までのサイトを置いていたプロバイダが来年1月でサービス終了のため、この機会にドメインも一新しました。おかげでURLも短くわかりやすくなって、ちょっとすっきりした気分です。
なお旧サイトの方も、サービス終了まであと3か月間そのまま消さずに残していますが、今後の更新は新サイトでのみ行いますのでご注意ください。

ところで先日、大好きな抱一さんの「夏秋草図屏風」を見に東京国立博物館を訪れた際、佐竹本小町と斎宮女御集小島切に遭遇してびっくり仰天しました。小町さんは今までにも何度か会っていますが、小島切はこれまで本の写真でしか見たことがなく、しかも展示されていたのはこれまた大好きな代表歌「琴の音に峰の松風かよふらしいづれのをよりしらべそめけむ」の部分だったので、もう大感激です。佐竹本の斎宮女御は一昨年根津美術館でも小町と一緒に見ましたが、小島切を見たらまたあの絵巻にも会いたくなってしまいました。



(2016年10月1日、東博本館第3室にて撮影)
右から三行目~四行目が「琴の音に…」です。


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野宮の謎

 2016/06/14(Tue)
 以前源氏物語のレポートを書いた後、ひとつ気になっていたことがあったのですが、詳しく調査する余裕もなく先送りになっていました。できればきちんと色々調査確認した後で短いレポートにまとめたかったのですが、ちょっとまだしばらく本腰据えての調査はできそうにないので、現段階での途中報告です。

「野宮(ののみや)」というと、通常真っ先に連想するのは『源氏物語』賢木巻でもお馴染み、伊勢斎宮が滞在した嵯峨野の野宮です。
 斎宮は原則として、卜定後1年目はまず宮中の初斎院へ入って潔斎、次は2年目の秋に嵯峨野の野宮へ移り引き続き潔斎、そして3年目の9月に伊勢へと旅立ちます。よって野宮が使用されるのは大抵斎宮一代に1年程度であり、斎宮が旅立った後は取り壊される習わしだったということです。現在の嵐山近くには観光スポットとしても人気の野宮神社があり、毎年10月には「斎宮行列」と呼ばれる斎宮御禊の再現も行われていますが、どの斎宮がどこに野宮を置いたか等の詳細は殆どわかっていません。

 ところが、平安時代には斎宮の野宮以外にもうひとつ、別な「野宮」が存在しました。
 あまり知られていないことですが、実は賀茂斎院の紫野本院もまた、別名を「野宮」と称することがありました。斎宮がごく一時期だけ滞在した「野宮」とは異なり、斎院の「野宮」は卜定から3年目以降退下までの間ずっと暮らすことになる場所ですが、都の外にあることから同じ呼び名になったのかもしれません。
 ざっと調べてみた限りでは、史料上の初見は『日本三代実録』(貞観2年4月17日条)で、「賀茂祭如常。斎内親王未入野宮。故不向社。」とあります。当時の斎院は6代儀子内親王(文徳天皇皇女、清和天皇同母妹)で、儀子は前年斎院に卜定されたばかりでしたから、まだ本院する時期ではなかったため「未だ野宮に入らず」となったわけです。そして翌貞観3年4月12日に予定通り「賀茂斎内親王臨鴨水修禊。是日。便入紫野斎院。」となりました。
 その後もこのように賀茂斎院の紫野本院を「野宮」と表記する記録は『醍醐天皇御記』『西宮記』『左経記』等の当時の史料にぽつぽつと見られます。ただし全体的な割合としては多くはなく、また『日本紀略』には紫野本院を「野宮」とした記述は見られません。よって公式な呼称ではなかった可能性も考えられますが、『西宮記』『左経記』は『源氏物語』執筆時期にとても近い時代の史料ですから、作者紫式部が紫野本院を「野宮」とも呼ぶのを知っていた可能性は高いと考えていいかと思います。

 さて、前置きが少々長くなりましたが、ここからが本題です。
 既に触れた『源氏物語』賢木巻は、光源氏と六条御息所が嵯峨野の野宮で哀切な別れを繰り広げる有名な場面がありますが、その1年後、源氏は当時のことを思い返して「あはれ、このころぞかし、野の宮のあはれなりしこと、とおぼし出でて」います。これが一体どういう場面かというと、桐壺院崩御後に藤壺の厳しい拒絶に遭い、雲林院に引き籠り中に朝顔斎院と文の贈答をした時のことなのです。
 いくつかの注釈書を見る限り、この「野の宮のあはれなりしこと」は当然御息所との別れの記憶を指しており、季節も同じ秋であることから連想が繋がったものとしてさらりと流しています。確かにそれも間違いではないのですが、この「野の宮」はこの時朝顔斎院がいる「野宮」、即ち「紫野本院」からの連想もあったのではないでしょうか?
 もちろん、既に触れたように伊勢斎宮の「野宮」と賀茂斎院の「野宮」はその制度から言ってもかなり意味合いの違うものです。しかしながら、どちらも共に都の外の「野」にあり、斎王が身を慎み潔斎につとめる場である点は共通しています。
 以前最初のレポートでも書きましたが、紫式部は恐らく「賢木」時点では無理な設定であることも承知で、朝顔斎院がこの時既に紫野本院に入っているものとして執筆していたと考えられます。だからこそ「吹きかふ風も近きほどにて」と朝顔が雲林院から程近い紫野にいることを匂わせる描写をし、さらに「紫野本院=野宮=嵯峨野」という連想から御息所との別れの記憶を導き出して、後に宮中で朱雀帝と源氏が斎宮母子の思い出を語り合う場面へと繋げたのではないかと思います。

 そもそも朝顔姫君という人は、「葵巻」で正式に本人が物語に登場した時から「いかで、人には似じ(自分は御息所のようにはなるまい)」という固い決意を示しており、光源氏を巡る女性の中でも珍しい個性と強い自我を備えた人でした。源氏本人は御息所のことで朝顔姫君がそこまで強く決心しているとは知らないようですが、朝顔はかの車争い事件の時にもすぐ近くに居合わせており、御息所と対のような形で登場することが多いのも、もちろん偶然ではないでしょう。
 なお朝顔と御息所との対比構造については、先行研究でも色々と触れられていますが、「葵巻」ではまず御息所が出てきた後に朝顔が登場するというパターンです。しかしこの「賢木巻」では朝顔の話から御息所の話へ繋がっていっており、これは御息所がもう完全に源氏にとって過去の人となってしまったからなんでしょうね。
 もっとも「賢木巻」では朝顔も既に斎院となってしまったため、もはや源氏の手の届かない人になってしまった点では同じでした。ずっと後に朝顔が斎院を退下すると、源氏は本格的に彼女への求愛を再開して紫の上を不安にさせますが、当時既に御息所はこの世の人ではなく、朝顔と御息所が対で語られることもありません。

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着袴の謎

 2016/05/21(Sat)
 先日賀茂斎院サイトにアップしたレポート第2弾は、タイトルは「延長二年の着裳記事」としていますが、調査してみて着裳だけでなく着袴も大変面白いなと感じました。

 そもそも着袴というのは、今で言えば七五三にあたる幼児の生育儀礼のことで、文字通り子供が初めて袴をはくというものです。現代の皇族は五歳で行う決まりですが、平安時代には数え三歳を迎えた頃に行うものでした。
 この着袴、記録上の初見は10世紀で、着袴を行ったのは醍醐天皇の皇子寛明親王、後に即位し朱雀天皇と呼ばれた人物です。その後朱雀天皇の弟村上天皇の子供たちからちらほら記録が増えていき、平安時代の皇族では合計39人の記録を確認できました。
 ところで古代の成人式である元服や着裳(裳着、始笄とも)の場合、特に元服は正月が最も多かったのですが、着袴は秋から冬、中でも十一月~十二月が多いのです。着袴を扱った論文でこの点を指摘しているものがあり、千尋もはて何故だろうと考えましたが、そこでひとつ思いついたことがありました。
 考えてみると当時は数え年ですから、現代と違って誕生日には関係なく皆一月一日に一歳年を取るということです。しかし一月生まれの子は現代で言うなら満二歳でしょうが、十二月生まれの子だと満一歳ちょっとでしかありません。そもそも着袴は幼児が歩き始める年齢であることから行われた儀礼ではないかと言われていますが、例えば十二月三十一日生まれの子は数え三歳でも実質は満一歳でしかないのですから、いくら何でも無理だと思うのです。
 逆に言うなら、何月生まれの子でも年末であれば皆ほぼ満二歳に達しているわけで、多分それが冬に多く着袴を行った理由ではないでしょうか。ちなみに『源氏物語』の中でも、「薄雲」巻で三月生まれの明石姫君が着袴を行ったのは三歳の冬のことでした。これはそもそも明石から上京しさらに大堰から洛中の二条院へ移るまでに時間がかかったためでもありますが、『源氏』が執筆された当時、着袴が冬に多く行われていたこともこうした描写になった一因かと思われます。

 とはいえ、平安時代後期になると五歳や七歳の着袴も増えてくるのですが、平安末期になって何と、満一歳二ヶ月(数えでは三歳)で着袴を行った人物がいます。高倉天皇の第一皇子言仁親王、即ち後の安徳天皇でした。しかも言仁親王は着袴を行った一月後に即位しており、恐らく即位を急ぐために着袴も早められたのでしょう。
 ところが、実は安徳天皇よりも少し前に、もっと早い即位をした天皇がいます。二条天皇の子、安徳天皇には従兄弟にあたる六条天皇で、何と満七ヶ月(!)という乳児の即位でした。こんな無茶な即位になったのは父二条天皇が当時二十三歳の若さで病に倒れ、譲位の一月後に亡くなってしまったせいなのですが、これは現代に至るまで天皇即位の歴代最年少記録であり、当然と言うべきか即位前に着袴を行った記録はありませんでした。

 しかし千尋が調べた限りでは、六条天皇が着袴を行った記録はその後在位中もまったく見当たらなかったのです。そもそも「天皇元服」は初の幼帝であった清和天皇(九歳で即位)の登場により生まれた儀礼ですが、さすがに「天皇着袴」等という儀礼はそれ以前もその後もなく、何事も先例に則るのが常識であった当時だけに、公卿たちもこれには困り果てたのではないでしょうか。そのせいかどうかは不明ですが、恐らく六条天皇は着袴を行わないまま五歳で譲位(これも天皇譲位の歴代最年少記録)、その後十三歳の幼さで短い生涯を閉じました。『神皇正統記』には「御元服などもなくて」とあり、ということは譲位後に着袴を行った可能性もないではないですが、平清盛の権勢が絶頂へと向かいつつある当時、頼りになる外戚も持たなかった幼い「六条上皇」に、そうした配慮がされたかとなると怪しいところです。譲位後の消息を知る記録が殆どないことから見ても、このあまりに幼い「上皇」は元服どころか着袴も行っていないことさえ世間から忘れられた存在のまま、その儚い一生を終えたのでしょう。気の毒と言えば気の毒な天皇ですが、六条上皇の死の二年後に生まれて三歳で即位、八歳で壇ノ浦に消えた安徳天皇もまた、天皇にまでなりながら歴史に翻弄された短すぎる痛ましい一生で、どちらがより哀れと言えるようなものでもないですよね。

 ところで今回、レポートのメインテーマが着裳と着袴ということで、一番お世話になったのは服藤早苗先生の著作、とりわけ『平安王朝の子どもたち―王権と家・童』(吉川弘文館, 2004)でした。
 元々この本がきっかけで延長二年の着裳記事に本格的に疑問を抱いたようなものであり、レポートでは服藤先生の論文に対して(怖いもの知らずにも)色々異説を唱えたりしていますが、こうした機会を与えていただいたことは本当に感謝の念に堪えません。ご本人に直接お目にかかったことは残念ながらありませんが、この場を借りて御礼申し上げます。
 ところでこの本、千尋が知った時には残念ながら既に絶版となっておりました。ただ幸い近所の図書館が所蔵していたので、必要な個所のコピーを取った後も何度も借りたものですが、何と先日レポートを公開した直後に、この本が今年復刊されていたことを知ったのです(笑)。何という偶然のタイミングかと驚きましたが、これまで古本でいいから何とか手に入れられないかとずっと思ってきただけに、喜び勇んで早速書店に注文しました。多分来週には届くだろうということで、大変楽しみです。

  


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