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着袴の謎

 2016/05/21(Sat)
 先日賀茂斎院サイトにアップしたレポート第2弾は、タイトルは「延長二年の着裳記事」としていますが、調査してみて着裳だけでなく着袴も大変面白いなと感じました。

 そもそも着袴というのは、今で言えば七五三にあたる幼児の生育儀礼のことで、文字通り子供が初めて袴をはくというものです。現代の皇族は五歳で行う決まりですが、平安時代には数え三歳を迎えた頃に行うものでした。
 この着袴、記録上の初見は10世紀で、着袴を行ったのは醍醐天皇の皇子寛明親王、後に即位し朱雀天皇と呼ばれた人物です。その後朱雀天皇の弟村上天皇の子供たちからちらほら記録が増えていき、平安時代の皇族では合計39人の記録を確認できました。
 ところで古代の成人式である元服や着裳(裳着、始笄とも)の場合、特に元服は正月が最も多かったのですが、着袴は秋から冬、中でも十一月~十二月が多いのです。着袴を扱った論文でこの点を指摘しているものがあり、千尋もはて何故だろうと考えましたが、そこでひとつ思いついたことがありました。
 考えてみると当時は数え年ですから、現代と違って誕生日には関係なく皆一月一日に一歳年を取るということです。しかし一月生まれの子は現代で言うなら満二歳でしょうが、十二月生まれの子だと満一歳ちょっとでしかありません。そもそも着袴は幼児が歩き始める年齢であることから行われた儀礼ではないかと言われていますが、例えば十二月三十一日生まれの子は数え三歳でも実質は満一歳でしかないのですから、いくら何でも無理だと思うのです。
 逆に言うなら、何月生まれの子でも年末であれば皆ほぼ満二歳に達しているわけで、多分それが冬に多く着袴を行った理由ではないでしょうか。ちなみに『源氏物語』の中でも、「薄雲」巻で三月生まれの明石姫君が着袴を行ったのは三歳の冬のことでした。これはそもそも明石から上京しさらに大堰から洛中の二条院へ移るまでに時間がかかったためでもありますが、『源氏』が執筆された当時、着袴が冬に多く行われていたこともこうした描写になった一因かと思われます。

 とはいえ、平安時代後期になると五歳や七歳の着袴も増えてくるのですが、平安末期になって何と、満一歳二ヶ月(数えでは三歳)で着袴を行った人物がいます。高倉天皇の第一皇子言仁親王、即ち後の安徳天皇でした。しかも言仁親王は着袴を行った一月後に即位しており、恐らく即位を急ぐために着袴も早められたのでしょう。
 ところが、実は安徳天皇よりも少し前に、もっと早い即位をした天皇がいます。二条天皇の子、安徳天皇には従兄弟にあたる六条天皇で、何と満七ヶ月(!)という乳児の即位でした。こんな無茶な即位になったのは父二条天皇が当時二十三歳の若さで病に倒れ、譲位の一月後に亡くなってしまったせいなのですが、これは現代に至るまで天皇即位の歴代最年少記録であり、当然と言うべきか即位前に着袴を行った記録はありませんでした。

 しかし千尋が調べた限りでは、六条天皇が着袴を行った記録はその後在位中もまったく見当たらなかったのです。そもそも「天皇元服」は初の幼帝であった清和天皇(九歳で即位)の登場により生まれた儀礼ですが、さすがに「天皇着袴」等という儀礼はそれ以前もその後もなく、何事も先例に則るのが常識であった当時だけに、公卿たちもこれには困り果てたのではないでしょうか。そのせいかどうかは不明ですが、恐らく六条天皇は着袴を行わないまま五歳で譲位(これも天皇譲位の歴代最年少記録)、その後十三歳の幼さで短い生涯を閉じました。『神皇正統記』には「御元服などもなくて」とあり、ということは譲位後に着袴を行った可能性もないではないですが、平清盛の権勢が絶頂へと向かいつつある当時、頼りになる外戚も持たなかった幼い「六条上皇」に、そうした配慮がされたかとなると怪しいところです。譲位後の消息を知る記録が殆どないことから見ても、このあまりに幼い「上皇」は元服どころか着袴も行っていないことさえ世間から忘れられた存在のまま、その儚い一生を終えたのでしょう。気の毒と言えば気の毒な天皇ですが、六条上皇の死の二年後に生まれて三歳で即位、八歳で壇ノ浦に消えた安徳天皇もまた、天皇にまでなりながら歴史に翻弄された短すぎる痛ましい一生で、どちらがより哀れと言えるようなものでもないですよね。

 ところで今回、レポートのメインテーマが着裳と着袴ということで、一番お世話になったのは服藤早苗先生の著作、とりわけ『平安王朝の子どもたち―王権と家・童』(吉川弘文館, 2004)でした。
 元々この本がきっかけで延長二年の着裳記事に本格的に疑問を抱いたようなものであり、レポートでは服藤先生の論文に対して(怖いもの知らずにも)色々異説を唱えたりしていますが、こうした機会を与えていただいたことは本当に感謝の念に堪えません。ご本人に直接お目にかかったことは残念ながらありませんが、この場を借りて御礼申し上げます。
 ところでこの本、千尋が知った時には残念ながら既に絶版となっておりました。ただ幸い近所の図書館が所蔵していたので、必要な個所のコピーを取った後も何度も借りたものですが、何と先日レポートを公開した直後に、この本が今年復刊されていたことを知ったのです(笑)。何という偶然のタイミングかと驚きましたが、これまで古本でいいから何とか手に入れられないかとずっと思ってきただけに、喜び勇んで早速書店に注文しました。多分来週には届くだろうということで、大変楽しみです。

  


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裳着の謎・2 后腹内親王と成人儀礼

 2014/09/22(Mon)
 以前「裳着の謎」と題して、第13代斎院韶子内親王の裳着(「着裳」「著裳」とも言います)についての記事を取り上げたことがありますが、最近色々調べ直してみてまた面白いことがわかってきました。

 まず、問題の記事の原文をもう一度見てみます。

 「延長二三廿五、昌子(内)親王於承香殿西廂著裳。天皇結腰有送物。
  御遊宸筆叙品。<三品> 雖不后腹、依先朝恩云々。
  以黄紙書叙品、給上卿、令作位記」(『西宮記』)

 延長2年(924)というと、醍醐天皇の時代です。当時醍醐後宮で、承香殿にいた妃は女御源和子でした。
 和子には娘が3人いますが、長女慶子内親王は延喜16年(916)11月27日に14歳で裳着を行ったことがわかっており、ここでは該当しません。一方次女韶子は延喜18年(918)生まれ、三女斉子は延喜21年(921)生まれです。この2人の年齢から見て、『大日本史料』では延長2年(924)当時7歳で既に斎院となっていた韶子の記事であろうとされたのでしょう。
 しかし前回も述べた通り、7歳での裳着というのも年齢的にかなり無理のある話です(※11世紀になっても、皇女でさえ10歳未満での裳着の記録は見当たりません)。

 となるとこれは服藤早苗氏の説(『平安王朝の子どもたち』他参照)にもあるように、裳着ではなく袴着(「着袴」とも言います」)の間違いである可能性が考えられます。

 ただ、服籐氏は「依先朝恩」から和子が光孝天皇皇女で宇多天皇の姉妹であることを根拠にあげておられますが、これも正直ちょっと疑問です。何しろ和子が産んだ皇子女は合計6人もいるというのに、その中で韶子1人だけがこれほどの特別待遇を受ける理由としては、やはり納得がいきません。
 また醍醐天皇の皇女の中でただ一人皇后穏子所生である康子内親王は、韶子と共に延喜20年(920)12月17日に同時に内親王宣下を受けており、その後承平3年(933)に15歳前後で裳着と同時にやはり三品に直叙されています。上記の記事が韶子のものだとすれば、妹とはいえ格上の后腹内親王である康子以上の大変な特別扱いだったことになり、やはりどうも不自然です。

 ところで服籐氏は『平安王朝の子どもたち』第3章「平安王朝社会の成女式」の中で、「とりわけ后腹(きさきばら・きさいばら)の場合は、着裳と同時に三品に叙される慣例だった」としています。始めは私もそういうものかと単純に思ったのですが、色々変だと感じて改めて調べてみたところ、この「后腹」が意外な曲者でした。
 そもそも平安時代は桓武天皇から醍醐天皇までの間、「皇后が産んだ内親王」というのは実は非常に少ないのです。この点は浅尾広良氏が「后腹内親王藤壼の入内:皇統の血の高貴性と「妃の宮」」(『大阪大谷国文』(37)、CiNii全文あり)で既に指摘されていることでしたが、これは品位等も合せてもうちょっと突っ込んで調べてみる必要があるのではないかと感じました。

 というわけで、具体的に平安初期の「后腹内親王」を以下に挙げてみました(※光仁天皇皇女の酒人内親王(母:皇后井上内親王)は、三品に叙された理由が父天皇即位に伴うものであるのがほぼ確実なため、ここでは除きます)。

 桓武天皇皇女(皇后:藤原乙牟漏)
  ・高志内親王~801年11月9日加笄、804年1月5日三品。
 嵯峨天皇皇女(皇后:橘嘉智子)
  ・正子内親王~淳和天皇皇后。記録なし。
  ・秀子内親王~無品。
  ・芳子内親王~記録なし。
  ・繁子内親王~無品。

 なお親王では、嵯峨天皇皇子で皇后嘉智子の次男である秀良親王が元服と同時に三品直叙されています(『類聚国史』天長9年2月11日)。
 しかし淳和天皇の皇后正子内親王(嘉智子の長女)に娘はなく、息子たちも元服と同時の三品直叙はありません(基貞親王は844年に18歳で三品に直叙されていますが、正月7日の紫宸殿における宴の席であることから明らかに元服と直接の関係はなく、また嵯峨天皇の皇子たちが14~16歳で元服していることからも、この三品直叙は元服後しばらく経ってからのことだったと思われます)。

 そしてその後、在位中に「皇后」を持った天皇は何と、醍醐天皇まで1人も存在しなかったのです(!)。

 意外なようですが、仁明天皇の即位から醍醐天皇の中宮藤原穏子が立后するまでの90年間は、天皇に「皇后」という正妃がいないという一風変わった時代だったのです。「后」と称された人物はいたものの、「五条后」藤原順子(仁明天皇妃)、「染殿后」藤原明子(文徳天皇妃)、「二条后」藤原高子(清和天皇妃)は皆、夫帝の在位中は皇后になることなく、所生の皇子が即位したことで「母后」となった女性たちなのでした。
 こんな具合ですから、「皇后」がいなければ当然「后腹内親王」も生まれるわけがありません。また上記の桓武天皇・嵯峨天皇の皇后が産んだ娘たちを見ても、成人と同時期に三品に叙された人物はいなかったようですから、桓武~嵯峨の頃はまだ「后腹の親王・内親王は成人と同時期に三品となる」という慣例まではなかったものと考えていいでしょう。
(注:色々な学説や意見はあるかと思いますが、ここでは「后腹」の「后」の定義を単純に「夫帝が在位中に立后した皇后」としています。従って上にあげた3人のような、夫帝の退位後または死後に、息子の即位によって「皇太夫人」「皇太后」になった「后」は含みません)

 さて、「皇太夫人」「皇太后」が出てきたところで、天皇在位中の皇后ではないもののそれに準じる「后」の皇女たちについても簡単に触れておきます。

 文徳天皇皇女
 ・儀子内親王(母:藤原明子。6代斎院)~869年2月9日初笄、同月11日三品。
  父文徳天皇は858年没。母明子は858年皇太夫人、864年皇太后。

 清和天皇皇女
 ・敦子内親王(873年以前生。母:女御藤原高子。7代斎院)~無品。
  父清和天皇は880年没。母高子は877年皇太夫人、882年皇太后。
 ※同母兄弟貞保親王は882年、元服と同時に三品直叙。

 光孝天皇皇女(母:女御班子女王)
 ・忠子内親王~884年臣籍降下、891年内親王宣下。三品。
 ・簡子内親王~884年臣籍降下、891年内親王宣下。無品。
 ・綏子内親王~884年臣籍降下、891年内親王宣下。陽成院妃。三品。
 ・為子内親王~884年臣籍降下、891年内親王宣下。醍醐天皇妃。897年7月3日入内、同月25日三品直叙。
  父光孝天皇は887年没。母班子は887年11月17日皇太夫人、897年7月26日皇太后。

 宇多天皇皇女
 ・均子内親王(890生、910没。母:女御藤原温子)~無品。
  父宇多天皇は897年譲位。母温子は897年7月26日皇太夫人(皇后)。

 こうして見ると、儀子内親王は成人直後に三品となっているので、「后腹内親王は成人と同時に三品とする」に準ずる例であるように思われます。
 ところが、儀子内親王と同じく敦子内親王と均子内親王も母は皇太夫人または皇太后で、年齢的にも恐らく母が「后」となった後に成人したにもかかわらず、生涯無品でした。もちろん、成人に伴っての三品直叙もなかったわけです。
 ということは、宇多天皇の頃まではまだ、儀子内親王の例がその後の「后腹内親王」の成人儀礼に引き継がれる慣例とはなっていなかったと見ていいと思われます(これはまったくの推測ですが、儀子内親王の場合は后腹内親王としてというより、むしろ清和天皇の唯一の同母きょうだいとしての直叙だったのではないでしょうか?)。
 また光孝天皇皇女の場合は、父天皇が即位したにもかかわらず一度臣籍降下し、同母兄弟宇多天皇の即位後にやっと皇族復帰したという非常に変則的なケースでした。そもそも宇多天皇の即位自体が異例のことであり、その姉妹たちにしても、(いかに母が皇族出身の皇太夫人とはいえ)仮にも「元源氏」の皇女がそうたやすく「后腹内親王」として当時の人々に受けとめられたかどうか、少々疑問です。
 ちなみに浅尾広良氏の上記論文では為子内親王を「后腹内親王」としており、母が皇族であることからその血筋の高貴さゆえに醍醐に入内させたものと推察しています。実際、わざわざ皇女出身の皇妃に限定される「妃(ひ)」としているあたりに宇多天皇のこだわりが伺えますが、一方で為子内親王は内親王宣下後も入内まで無品でした。また諸研究でも臣籍から急遽即位した宇多天皇の王権の弱さが指摘されるように、宇多の姉妹たちも単純に「后腹内親王」として参考にできるケースではないと思われます(なお宇多天皇は為子の早世後も息子醍醐天皇に皇統の血を引く妃を娶せようとこだわったようで、そもそも問題となった韶子内親王の母源和子も、宇多天皇と為子の異母姉妹でした)。

 ともあれこれらの先例を総合すると、名実共に「着裳と同時期に三品に叙された最初の后腹内親王」は、醍醐天皇と中宮藤原穏子の娘である康子内親王であった可能性が高いと思われます(ちなみに康子の同母兄である皇太子保明親王は、穏子の立后前に亡くなったので「后腹親王」ではありませんでした)。
 康子以前で最も近い宇多天皇の時代、「后腹」と言えそうな皇女は均子内親王1人ですが、均子は無品であることがわかっているので明らかに前例ではありません。よってもし康子が「后腹内親王裳着による三品」の初例ならば、康子より早い韶子の裳着(?)にあたって「雖不后腹」などという但し書きがつくのは、当然辻褄が合わないことになります。
 こうした点からも、康子内親王の時に后腹内親王の裳着=三品直叙という慣例が定まり、その後昌子内親王裳着の時に上記の記事が書かれたのではないかと思われます。浅井氏も上記論文で「〈后腹〉を聖別する価値観は、醍醐朝ごろから出来上がったものと考えられる」と述べておられ、為子内親王についての見解は多少疑問に感じる点もありますが、「后腹」という概念が定着していった過程を考える上で、この頃がひとつの分岐点であった可能性は高いのではないでしょうか。

補足:康子の次に后腹内親王が成人儀礼を行ったのは、965年8月27日の村上天皇皇女輔子内親王の始笄でしたが、この時は『日本紀略』の記事には品位についての記載はありません(この点は服籐氏が既に指摘されています)。ただし同日に1歳上の同母兄為平親王が元服・三品となっており、3年後の968年12月28日には同母妹の資子内親王が加笄、翌年1月5日に三品とされています。輔子自身も『日本紀略』992年3月3日条の薨伝で「前斎宮二品輔子内親王」とあるので、記録はないものの始笄の頃に三品になっていた可能性はありうるでしょう。


 ところで『貞信公記』延長3年2月24日条には、「従内有召、依八九親王(時明、長明)又公主等(普子内親王)加元服事也」という記事があります。
 これもあくまで想像ですが、この日付と内容から見て、もしかすると「延長3年2月25日」に普子内親王の裳着の記事があり、『西宮記』はまずそれを書こうとして「延長3年2月」を「延長2年3月」としてしまい、記事の内容も次に入れるつもりだった昌子内親王の記事(以下参照)を誤って写してしまったのではないでしょうか。写本の誤りはよくあることとはいえ、「韶子」を「昌子」に書き間違えるというのは字の形状から見てもやはり無理がある話で、それよりは「三年二月」を「二年三月」としてしまう方がまだありそうな気がします(ついでに言えば、「昌子親王着裳」の記事の次は何故か成平親王(村上天皇)と藤原安子の婚礼に関する記事で、内親王着裳または着袴とは全然関係がなく、やっぱりこの前後の記述はちょっと変だと思います)。

 というわけで、朱雀天皇皇女「昌子内親王」の着裳(ここでは初笄)記事をもう一度見てみます。

 「応和元年十二月十七日(中略)朱雀院第一皇女昌子内親王於承香殿初笄。
  天皇神筆給。三品位記。又侍臣奏絃管。」(『日本紀略』)

 ここには「雖不后腹、依先朝恩云々」のくだりはありませんが、最近発行された栗本賀世子氏の『平安朝物語の後宮空間―宇津保物語から源氏物語へ』(武蔵野書院)によると、「先朝」という言葉は故人のイメージが強いそうです。となると、この「先朝」=故朱雀院と考えれば矛盾がなく、やはり韶子の記事とするより昌子の記事と考える方が適当かと思われます。

 なお、今回引っかかった「后腹」という言葉、改めて調べてみたら六国史や日本紀略には使われていませんでした(『扶桑略記』には欽明天皇の記事で出てきますが、実際にその時代この言葉が使われたわけではないでしょう)。『西宮記』に記載があり、また物語では『宇津保物語』『源氏物語』に使われているところから見て、多分10世紀後半あたりに定着していったのではないかと思われます。
 今回は『万葉集』『古今和歌集』以外の歌集の詞書等は調べていませんが、「后腹」がいつから使われるようになった言葉なのかという問題はとても面白そうだと感じました。しかし「后腹」の定義について考えるということは、そもそも「后」とは一体何ぞや、という問題にも繋がるわけで、ただの日本史好きな素人にはちょっと荷が重い課題かもしれませんねえ(こうやってまた新たな宿題が増えて行くのです…笑)。

※ちなみに浅尾氏の論文によると、岡村幸子氏の「皇后制の変質:皇嗣決定と関連して」(『古代文化』48(9),1996)でもやはり「『西宮記』頃から「后腹」という言葉が使われ始めた」と指摘しているそうです。これは残念ながら知りませんでしたが、大変面白そうなので今後論文を手に入れたらまた追加報告するかもしれません。

 最後に、この昌子内親王の裳着については、実はもう一点非常に気になっていることがあります。これまた大変面白い問題なのですが、ちょっとまだ調査結果がまとまらないので、後日また改めて。


追記:
 最近ぽつぽつと拍手をいただく中で、何故か「一覧表の功罪」が地味に人気なようで、ちょっと驚いています。あの時はまだ「斎院候補一覧」はできていなかったので、リンクも張っていないのですが、もし興味をもってくださった方がおいででしたら賀茂斎院サイトの方もぜひ見てやってくださいね。

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百人一首の皇族歌人

 2014/01/19(Sun)
 遅まきながらあけましておめでとうございます、このブログも早くも7年目に入りました。のんびりマイペースで最近は美術展記事も少々怠け気味ですが、今年もどうぞよろしくお願いします。

 さて、お正月と言えば千尋の子供時代、親戚一同が集まった際の定番の一つが百人一首でした。
 北海道の百人一首は「下の句かるた」と呼ばれ、厚い木製の取り札が特徴で、その名の通り下の句の七七だけを読み上げるものです。おかげで歌の意味を理解したのはずっと後のことでしたが、反面独特な毛筆の字体の読み方を憶えたことで、古文書などを見た時もある程度は読みとることができるようになりました。

 この百人一首の中で、千尋が目下研究(というのもおこがましいですが)対象にしている賀茂斎院からただ一人、31代斎院式子内親王が入っています。
 そもそも百人一首全体の中で、皇族は全部で十人おり、ちょうど一割を占めています。うち天皇が8人、皇子が1人、皇女が1人で、顔触れは以下の通りです。

 ・天皇
   天智天皇、持統天皇、陽成院、光孝天皇、三条院、崇徳院、後鳥羽院、順徳院
 ・皇子
   元良親王(父:陽成院)
 ・皇女
   式子内親王(父:後白河院)

 ちなみにこの中で、天智天皇・持統天皇、陽成院・元良親王、後鳥羽院・順徳院はそれぞれ親子です。百人一首全体でも親子は合計17組いますが、天皇家だけで3組もいるのですね。
 また面白いことに、天皇家で10人もの歌人がいる割には、意外にもこの中に皇妃はいないのです(宇多天皇の寵愛を受けて皇子を産んだ伊勢は、「御息所」とも呼ばれますが妃にはカウントされないでしょう)。ただし、皇妃や皇女に仕えた女房はたくさんいて、女流歌人の大半はこうした人たちでした。

 ・伊勢(宇多女御藤原温子女房)
 ・右近(醍醐中宮藤原穏子女房)
 ・清少納言(一条皇后藤原定子女房)
 ・紫式部、大弐三位、赤染衛門、伊勢大輔、和泉式部、小式部内侍(一条中宮藤原彰子女房)
 ・相模(一条皇女脩子内親王女房)
 ・祐子内親王家紀伊(後朱雀皇女祐子内親王女房)
 ・待賢門院堀河(鳥羽中宮藤原璋子女房)
 ・皇嘉門院別当(崇徳中宮藤原聖子女房)
 ・殷富門院大輔(後白河皇女亮子内親王女房)

 また、特定の皇妃ではなく宮廷に女官として出仕した女房もいます。

 ・儀同三司母(高階貴子。円融天皇内侍、藤原道隆室)
 ・周防内侍(平仲子。後冷泉天皇女房)
 ・二条院讃岐(源頼政女。二条院女房、のち後鳥羽中宮九条任子へ出仕)

 という具合で、伝説的美女として知られる小野小町を除けば、こうした女房に含まれないのはかの「蜻蛉日記」の作者、右大将道綱母だけなんですね。平安時代の宮廷社会でいかに女性が活躍していたかがよくわかりますが、中でも一条中宮彰子の女房が飛びぬけて多いのはさすがですね。

 ところで皇妃で歌人として知られる人がいないかというとそんなことはなくて、伊勢斎宮から村上天皇女御になった斎宮女御(徽子女王)が大変有名です。しかし何故か、彼女も含めて斎宮で百人一首に入った人は誰もいません。他にも大伯皇女も万葉歌人として有名ですし、斎宮女御と共に入っていてもよさそうなものですが、定家の好みには合わなかったのでしょうか?
 とはいえ、厳密に言えば持統天皇も元は天武天皇の后でしたし、しかも元々天智天皇の娘でしたから、持統天皇の場合は天皇であり皇女であり皇妃でもある、ということになります。この持統天皇と式子内親王を絵で表す場合、高貴な身分を示すために美麗な几帳を傍らに置く構図とすることが多いのですが、こういう点は三十六歌仙絵巻の斎宮女御と同じですね。

 では最後に、百人一首の中からお正月らしく光孝天皇御製の一首を。

  君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ

 この歌、下の句かるたでは天智天皇の「わが衣手は露にぬれつつ」と紛らわしいので、衣手「に」「は」でいかに早く反応するかが腕の見せ所です。逆に普通のかるたでも取り間違いはよくあるようで、大田南畝の狂歌に「秋の田のかりほの庵の歌がるた取りそこなって雪は降りつつ」なんていうのがありますが、下の句かるたの木札は紙と違って厚くて硬いので、勢い余ってすっ飛んだ札が天井に当たったり襖を破ったりという楽しい?トラブルも結構ありました。紙のかるたも熱戦の迫力はなかなかですが、下の句かるたの豪快さも一見の価値ありですよ。


補足:
 最近読んだ中で、一番お勧めの百人一首案内の本は以下の『一冊でわかる百人一首』(成美堂出版)でした。オールカラーの写真が実に美しく、文法解説やコラムも充実しています。

 
一冊でわかる百人一首一冊でわかる百人一首
(2006/11/17)
吉海 直人

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追記:もう一点、お勧めの百人一首解説本。

 
田辺聖子の小倉百人一首 (角川文庫)田辺聖子の小倉百人一首 (角川文庫)
(1991/12)
田辺 聖子

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 この本は千尋の高校時代のバイブルでした。始めは大判の上下二巻で出た本で、母が岡田嘉夫画伯の美麗な挿絵に惚れこんで購入したのが出逢いのきっかけです。これを読んで初めて百人一首すべての歌をしっかり憶えただけでなく、田辺さんの軽妙でユーモアあふれる語り口と、わかりやすく紹介された様々な逸話の面白さにすっかりファンになってしまいました。「古典なんてつまらなくて苦手」という若い学生さんに、楽しい古典入門としてお勧めの一冊です。

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記憶の世界遺産

 2013/06/22(Sat)
 今日は富士山が世界遺産に登録されましたね。たまたまユネスコのHPで中継が見られると知って覗いてみたら、偶然にもちょうど確定の決定的瞬間を見てしまいました。と言っても何しろ中継はオール英語で、さっぱり意味は理解できなかったのですが、拍手と共に日本の団体が横断幕を掲げて喜び合っていたので、それで判りました。いやあ、便利な時代になったものです。

 ところで少し前に、御堂関白記と慶長遣欧使節資料も世界記憶遺産に登録されました。特に御堂関白記は平安好きには大変お馴染みのありがたくも貴重な史料なので、その価値が世界的に認められたのはやはり嬉しいです。これまた滅多に実物にはお目にかかれない代物ですけれど、たまに美術展等で見るとやはり千年も前の人の日記が直筆で残っているというのは凄いと感動します。

 なおこの御堂関白記、7月13日から始まる東京国立博物館の特別展「和様の書」でもお目見えとのことです。ただし御堂関白記の展示は8月13日からですが、さすが東博、今回も途轍もなく豪華な顔ぶれで、特に藤原佐理の書状が4点も出るというのには驚きました。この展示内容を全部見ようと思ったら、2回でも足りないんじゃないでしょうか…

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醍醐天皇の子どもたち

 2012/09/06(Thu)
 最近賀茂斎院データを見直していて、14代婉子内親王のきょうだいのところで気になることがありました。

『平安時代史事典』等によれば、婉子内親王は醍醐天皇の皇女で、母は更衣藤原鮮子です。また同母のきょうだいには、代明親王(904-937)、12代恭子内親王(902-915)、敏子内親王(生没年不明)、の3人がいます。
 ところで、婉子内親王の生没年は904-969ということになっています。没年月日は記録が残っているので間違いありませんが、生年の904年は同母兄弟である代明親王と同じなのです。
 え、この二人って双子?と始め驚きましたが、二人の親王宣下や元服・裳着の日付を辿っていくと、何だかおかしい。さらに史料によって、婉子内親王を第三皇女としていたりかと思えば第七皇女だったりと、統一性がないのです。これはやっぱり変だというわけで、醍醐天皇の子女について『日本紀略』(以下『紀略』)や『一代要記』(以下『要記』)の記録を洗い出してみました。

【醍醐天皇皇子女の生没年と生母】
(※(源)とあるのは、降下の後に皇族復帰した源氏を表す)
 克明(903-927/9/24)、母源封子
 保明(903/11/30-923/3/21)、母皇后藤原穏子
 代明(904-937/3/29)、母更衣藤原鮮子
 重明(906-954/9/14)、母更衣源昇女
 常明(906-944/11/9)、母女御源和子
 式明(907-967/1/30)、母女御源和子
 有明(910-961/閏3/27)、母女御源和子
 時明(912-927/9/20)、母更衣源周子
 長明(912-953/閏1/17)、母更衣藤原淑姫
 寛明[朱雀](923/7/24-952/8/15)、母皇后藤原穏子
 章明(924-990/9/22)、母更衣藤原桑子
 成明[村上](926/6/2-967/5/25)、母皇后藤原穏子
 源高明(914-982/閏12/16)、母更衣源周子
 (源)兼明(914-987/9/26)、母更衣藤原淑姫
 源自明(917-958/4/17)、母更衣藤原淑姫
 源允明(918-942/7/5)、母源敏相女
 源為明(?-961/6/21)、母更衣藤原伊衡女
 (源)盛明(928?-986/5/8)、母更衣源周子

 勧子(899-?)、母妃為子内親王
 宣子(902-920/閏6/9)、母源封子
 恭子(902-915/11/8)、母更衣藤原鮮子
 慶子(903?-923/2/10)、母女御源和子
 勤子(904?-938/11/5)、母更衣源周子
 婉子(904-969/9/11)、母更衣藤原鮮子
 都子(905-981/10/21)、母更衣源周子
 修子(?-933/2/5)、母更衣満子女王
 敏子(906?-?)、母更衣藤原鮮子
 雅子(910-954/8/29)、母更衣源周子
 普子(910-947/7/11)、母更衣満子女王
 (源)靖子(915-950/10/13)、母源封子
 韶子(918-980/1/18)、母女御源和子
 康子(919?-957/6/6)、母皇后藤原穏子
 斉子(921-936/5/11)、母女御源和子
 英子(921-946/9/16)、母更衣藤原淑姫
 源兼子(915-972/9)、母更衣源周子
 源厳子(916-?)、母不明

 以上、男子18人・女子18人の合計36人でした。(この他、系図では養子にした宇多天皇の皇子2人も含まれますが割愛)

 このうち女子に関しては、末子と思われる英子内親王が第16皇女(『紀略』)・享年21(『要記』)とあり、どうやら「内親王」は16人で間違いないようです。また第1皇女から第3皇女までは、史料により多少違いはあるものの、勧子、宣子、恭子(または宣子と恭子が逆)の3人で確定としてよさそうです。
 問題は第4皇女から第7皇女までで、『紀略』は何故か勤子を第2皇女、慶子を第3皇女としていますが、その前に宣子を第2皇女、恭子を第3皇女と明記しているので、これは明らかに誤りです。加えて慶子内親王は生年の手がかりがまったくないのですが、『紀略』で904年に内親王宣下されていることは判っているので、『要記』に908年宣下とある勤子内親王より恐らく年上であろうと思われます。(もっとも『倭名類聚抄』他当時の歌集などには、勤子を「女四宮」とする記録が多く見られるので、慶子と勤子を取り違えている可能性もあります)

 さて続く2人は、『紀略』では都子内親王を第6皇女、婉子内親王を第7皇女としています。しかし『要記』では婉子を第3皇女とし、共に908年に内親王宣下を受けたものとして、婉子は5才、都子は4才となっているのです。
 婉子が第3皇女というのは上の2人と同じくなしとしても、宣下の年齢は一体どちらが正しいのか頭を抱えてしまいますが、ここで最初の問題、婉子は本当に904年生まれなのかという話に戻ります。
 同母の代明は『醍醐天皇御記』に919年16才で元服したことが記録されているので、904年生まれということにほぼ間違いありません。また他のきょうだいで905年以降の生まれとみられる皇子女はおおむね908年以降に親王宣下を受けており、仮に代明と婉子が双子だったとすれば、婉子が宣下された908年に代明も共に宣下されていないのはむしろ不自然ではないでしょうか。こうした状況から、(記録はありませんが)恐らく代明の親王宣下は905~906年のうちに行われたものと思われます。

【親王宣下の年と年齢一覧】
 克明(903生) 904/11/17宣下(2才)
 保明(903/11/30生) 904/2/10宣下(2才)
 代明(904生) 宣下不明
 重明(906生) 908/5/7宣下(3才)
 常明(906生) 908/4/5宣下(3才)
 式明(907生) 911/11/28宣下(4才)
 有明(910生) 911/11/28宣下(2才)
 時明(912生) 914/11/25宣下(3才)
 長明(912生) 914/11/25宣下(3才)
 寛明[朱雀](923/7/24生) 923/11/17宣下(1才)
 章明(924生) 930/9/29宣下(7才)
 成明[村上](926/6/2生) 926/11/28宣下(1才)

 勧子(899生) 900/12/14宣下(2才)
 宣子(902生) 903/2/17宣下(2才)
 恭子(902生) 903/2/17宣下(2才)
 慶子(903?生 )904/11/17宣下(2才?)
 勤子(904?生) 908/4/5宣下(5才?)<要記:2才>
 都子(905生) 908/4/5宣下(4才)
 婉子(?)
 修子(生年不明)
 敏子(生年不明) 911/11/28宣下<要記:6才>
 雅子(910生) 911/11/28宣下(2才)<要記:3才>
 普子(910生) 911/11/28宣下(2才)
 靖子(915生) 930/9/29宣下(16才)
 韶子(918生) 920/12/17宣下(3才)
 康子(919?生) 920/12/17宣下(2才?)
 斉子(921生) 923/11/18宣下(3才)
 英子(921生) 930/9/29宣下(10才)

 では、仮に婉子内親王の908年宣下が正しかったとして、当時婉子は一体何才だったのでしょうか。
 これについては、『紀略』が第6皇女とする都子内親王(981/10/21没)が享年77とあり、逆算して905年生まれであることが判ります。一方婉子はすぐ下の第7皇女ですから、908年の宣下で最低でも2才以上と考えると少なくとも905年以降でしょう。さらに907年生まれの式明親王が911年に親王宣下を受けているので、婉子は905~906年生まれにほぼ絞り込めるものと考えます。(式明は同母弟有明と共に宣下を受けていますが、910年生まれの有明を母源和子が身篭ったのはどう遡っても909年以降なので、式明は婉子より年下だったと見るのが妥当でしょう)


 なお皇子女の一覧表を見ていて面白いと思ったのが、特に醍醐天皇の寵愛篤かったと思われる妃3人が、ほぼ交代で毎年のように出産していたことでした。女御源和子が5人、更衣藤原鮮子が4人、更衣源周子が5人の子を産んでいて、表に直すとこんな感じです。

【妃たちの出産年】
 902  藤原鮮子 恭子内親王
 903  源和子  慶子内親王
 904  藤原鮮子 代明親王
    源周子  勤子内親王
 905  源周子  都子内親王
 906  源和子  常明親王
 906? 藤原鮮子 婉子内親王
 907  源和子  式明親王
 908? 藤原鮮子 敏子内親王
 910  源和子  有明親王
 910  源周子  雅子内親王
 912  源周子  時明親王
 914  源周子  源高明
 918  源和子  韶子内親王
 921  源和子  斉子内親王

 ちなみにこの間、皇后藤原穏子は903年に皇太子保明親王(当時穏子はまだ女御)が生まれた後、第2子となった康子内親王の誕生は実に16年後の919年です。その後保明が早世したこともあり、923年に朱雀天皇、926年に村上天皇が生まれていますが、こうしてみるとかなりあからさまというか、確かに源氏物語の桐壺帝とちょっと似ているかもしれませんね、醍醐天皇…


 というわけで、最終的に皇子女たちの生まれた順序と生年は、大体以下のとおりではないかという結論に達しました。

【醍醐天皇皇子・皇女の出生順と生年】
 1.克明 903生
 2.保明 903/11/30生
 3.代明 904生
 4.重明 906生(908宣下)
 5.常明 906生(908宣下)
 6.式明 907生(911宣下、有明は同母)
 7.有明 910生(911宣下)
 8.時明 912生(914宣下)
 9.長明 912生(914宣下)
  源高明 914生(920降下)
 10.(源)兼明 914生(920降下,977宣下)
   源自明 917生(920降下)
   源允明 918生(920降下,934元服)
   源為明 919-921?生(923降下,941元服)
 11.(源)盛明 919-922?生(923降下,942元服,967宣下)
 12.寛明[朱雀] 923/7/24生(923宣下)
 13.章明 924生(930宣下)
 14.成明[村上] 926/6/2生(926宣下)

 1.勧子 899生(900宣下)
 2.宣子 902生(903宣下)
 3.恭子 902生(903宣下)
 4.慶子 903?生(904宣下)
 5.勤子 904?生(908宣下、都子は同母)
 6.都子 905生(908宣下)
 7.婉子 905-906?生(908宣下)
 8.修子 907-908?(同母の普子が910生,911宣下)
 9.敏子 907-910?生(911宣下)
 10.雅子 910生(911宣下)
 11.普子 910生(911宣下)
 12.(源)靖子 915生(920降下?,930宣下)
 13.韶子 918生(920宣下)
 14.康子 919?生(920宣下)
 15.斉子 921生(923宣下)
 16.英子 921生(930宣下)

 内親王16人はそれほど混乱がなかったのですが、皇子たちのうち源氏に降下した末の2人と、朱雀天皇以下3人の親王の順序はかなり困りました。というのも、『紀略』では朱雀天皇を第11皇子、村上天皇を第14皇子としており、一方で盛明を醍醐第十五之子としているのです。
 盛明は923年に源氏に降下していたらしいので(『西宮記』では具体的な人名は書かれていないものの、年代から見て盛明と為明以外該当者なし)、少なくとも923年生まれの朱雀天皇よりは年上のはずです。なのに第15子とはこれいかに、と頭を抱えましたが、しばらく頭をひねった末、これはもしかすると源氏・親王を問わず純粋に生まれた順序を言っているのでは、と思いつきました。果たして並べ直してみると、盛明が第15子、朱雀天皇が第16子、村上天皇が第18子で、さらに親王だけなら盛明は第11親王、朱雀天皇は第12親王(『要記』も第12皇子とする)、村上天皇は第14親王となり、完全ではないもののほぼ一致します。(『紀略』はずっと後に編纂された史料なので、源氏に降下した後復帰した2人も年齢順にカウントしたようです)
 ただ『紀略』には盛明の享年が59とあり、これだと928年生まれになってしまうのですが、『紀略』も『要記』より古いとは言えちらほら誤りがあるそうなので、多分これは不正確なのだろうということにしました。もちろんこの二つの史料だけではここまで絞りきれず、大日本史料を片っ端からひっくり返して判る限りの史料を漁りましたが、醍醐天皇の子どもの年齢順がこんなに不明点が多いとは意外でした…

 ところでそういえば、醍醐天皇は歴代の天皇の中では割と名前を知られている方だと思うのですが(もっとも一般的にはまず「道真を左遷した人」というあまり芳しくないイメージでしょうけれど)、それにしては伝記等が殆ど出ていないということにもちょっと驚きました。もしかすると研究書には専門の論文等を収録したものがあるのかもしれませんが、そのうち吉川弘文館で出してくれないかなとちょっと期待しています。

追記:なお天皇の子女に関する資料で一番手っ取り早いのは恐らく『天皇皇族実録』で、醍醐天皇も2007年に発行済なのですが、あいにく我が家の近所にはこれを所蔵している図書館がないのでした。(何しろ大変お高い本なのです) 東京の大学図書館でも学外者が閲覧できるところはあまりなさそうなので、大変残念です…


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