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「幻の宮 伊勢斎宮と平安京」のお知らせ

 2021/07/31(Sat)
 少々出遅れましたが、ただ今京都の平安京創生館にて伊勢斎宮関連の展示が開催されているとの情報を知りました。賀茂斎院とは直接の関係はありませんが、多分斎院サイトのお客様は関心のある方も多いでしょうから、この機会にご紹介します。

「幻の宮 伊勢斎宮と平安京」
 令和3年6月16日(水)~令和4年6月8日(水)
 京都アスニー内・京都市平安創生館にて開催中

 第1期:平安京と斎宮 [監修:榎村寛之氏(斎宮歴史博物館学芸員)]
  令和3年6月16日(水)~10月6日(水)
 第2期:平安京から見つかった斎宮 [監修:西山良平氏(京都大学名誉教授)]
  令和3年10月21日(木)~令和4年2月3日(木)
 第3期:見えてきた幻の宮 [監修:榎村寛之氏]
  令和4年2月17日(木)~6月8日(水)

「京都市平安京創生館・企画展のページ」
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/asny1/souseikan/kikaku.html

 榎村氏と西山氏は千尋も以前レポート作成の際に論文を参考にさせていただいており、特に榎村氏は斎宮について一般向けの著作もある研究者様なので、お馴染みの方も多いでしょうね。目下新型コロナの拡大が心配な状況で、千尋もはるばる関東から京都まで行くのは残念ながら当分厳しそうですが、何とか一回だけでも行ってみたいです(そういえばそもそも斎宮歴史博物館もかなりご無沙汰なのでした…)。

「平安京復元模型」(平安京創生館常設展示・2018年1月撮影)
2018asuni.jpg
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七千御礼

 2021/05/15(Sat)
ふと気が付いたら、一昨日あたりに賀茂斎院サイトがアクセス7000を越えていました。
早いものでそろそろ開設から10年になりますが、去年の夏に5000を越えたと思ったら年末には6000に達し、こんなマニアックな内容にもかかわらず意外に多くの方が見てくださっているようで、管理人としても嬉しいです。賀茂斎院はこれからもライフワークとして、細々とながらも地道に末永く続けて行きたいと思いますので、引き続きよろしくお願いいたします。

さて、本日は五月十五日ですが、残念ながら今年も新型コロナの影響で例年のような葵祭の行列はなしとなったそうですね。私も去年からずっと京都旅行自体がご無沙汰なばかりか、東京の美術館巡りや図書館での調べ物もままならずもどかしい限りですが、とにかく今は一日も早く感染拡大が収まることを待つばかりです。

2015葵祭
(2015年葵祭・社頭の儀にて撮影)


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いつきのみやと今様の謎

 2021/04/25(Sun)
 またまたご無沙汰しております、コロナですっかり美術展禁足令となり、早一年が過ぎてしまいました。以前であれば考えられないような生活ですが、馴れとは恐ろしいもので、これはこれでこんなものかと段々当たり前になってしまいました。おかげで長らく東京に行かず、美術散歩もすっかりご無沙汰の代わりに、目下せっせと図書館通いの日々を過ごしています。

 というわけで、今年になってから今まで見落としていた賀茂斎院関連の論文を色々と見つけまして、またちょっとばたばたしていました。というのも、雑誌掲載の論文はCiNiiやBoogle Scholarで割合早く情報が出ますが、図書掲載の論文はなかなか探しにくく厄介なのです。特に斎院長官についての論文は、本自体は昨年に出ていたのに全然気づかず、今年の2月になってからたまたま情報に遭遇して慌てて図書館に取り寄せをお願いする羽目になりました(学術書は高くてなかなか全部は買えないのです…)。

 ところでもう一つ、斎院御神楽についての論文(これは初出時に確認済)がやはり本になったので改めて読み返してみたところ、24代令子内親王と今様について取り上げた研究書があることを知りました。『今様の時代――変容する宮廷芸能』(沖本幸子)という本で、発行は2006年なのですが、今様となると守備範囲外ということもあって全然気づかなかったのです。
 しかし賀茂斎院と今様とは、今まであまり考えたことのなかった組み合わせですが、考えてみると令子の姉は田楽大好きで一大ブームを巻き起こした郁芳門院ですし、弟の堀河天皇も知る人ぞ知る音楽好きです。白河天皇とその子供たちはどうやら音楽の素養のある一家だったようで、当時の宮中は賑やかで明るい雰囲気だったのでしょうね。



 さてそれはいいのですが、この『今様の時代』でもう一つ、大変興味深い考察に遭遇しました。
 『今鏡』の最後の方「敷島の打聞」に、斎宮御所で起きたというとあるエピソードが紹介されています。ちょっと難しいですが、原文は以下の通り。

 いづれのいつきのみやとか、人の参りて、今様うたひなどせられけるに、末つ方に、四句の神歌うたふとて、
  植木をせしやうは 鴬住ませむとにもあらず
と歌はれければ、心とき人など聞きて、「憚りあることなどや出で来む」と思ひけるほどに、
  くつくつかうなが並め据えて 染紙よませむとなりけり
とぞ歌はれたりけるが、いとその人歌詠みなどには聞えざりけれども、えつる道になりぬれば、かくぞ侍りける。この事刑部卿とか人の語られ侍りしに、侍従大納言と申す人も侍りしが、さらば理(ことわり)なるべし。

 どの斎宮のことだったか、御所に人々が参上して今様を歌っていた時、神歌で「僧」「経」という言葉が出てくる歌がありました。(斎宮御所で)それを歌ってはまずいのでは?と他の人が思っていると、歌い手はとっさに「僧」を「かうなが(髪長)」、「経」を「染紙」に置き換えて歌ったそうで、その道の達人だからできたことなのだろう、という話です。
 この斎宮が一体誰だったのかは最後まで明かされず、また歌を詠みかえた人物も官職だけで名前は記されていませんが、従来の説では刑部卿は平忠盛(清盛の父)、また侍従大納言は忠盛と親しかった藤原成通とされています。これについて、沖本氏は刑部卿は今様の名手であった藤原敦兼であろうとし、また「いつきのみや」を斎宮ではなく斎院令子内親王ではないか、と推測しているのです。大変魅力的で面白い説ですが、ここでちょっと待てよ、と思いました。

 平安時代に「いつきのみや」と言えば、頭に「賀茂」と付かない限り、普通に考えて連想するのはやはり伊勢斎宮でしょう。私も全部の文献を確認したわけではありませんが、斎院を「いつきのみや」と表記した史料というのは、あまり覚えがありません。
 さらにもうひとつ、この逸話は『延喜式』に定められた斎宮忌詞が深く関わっています。当時神事の場では仏教に関するものは忌避されており、従って斎宮でも「僧侶」とか「経典」のような言葉は穢れに関する言葉と同様にタブーだったというのは、ちょっと斎王について知識のある人ならご存知でしょう。
 しかしここに重大な落とし穴がありまして、同じ『延喜式』に定められた賀茂斎院の忌詞には、何故か仏教関係の言葉は含まれていないのです。ということは、「僧」を「髪長」と言い換える必要もなく、つまりこの逸話自体が斎院では生まれるはずがない、ということになってしまうわけで、ということはやはりこれは賀茂斎院ではなく伊勢斎宮での話なのではないでしょうか。

 またもう一点気になったのが、従来「刑部卿」=平忠盛とされてきた理由です。そもそも忠盛の最後の官職が刑部卿であったことから、死後の彼の呼称は「刑部卿」「刑部卿忠盛」が一般的だったようで、当然それが大きな理由の一つでしょう。ただもしかするともう一つ、彼が「伊勢平氏」であることも関係があるのでは、と思ったのです。
 もっともちょっと調べてみたところ、忠盛の時代には一族の基盤は伊賀へ移っていたらしいのですが、と言っても伊賀といえば伊勢のすぐお隣です。あいにく平氏については勉強不足でよく知らないのですが、『今鏡』執筆当時忠盛の(さらにその子清盛の)一族が「伊勢平氏」という認識であったのなら、地元である伊勢の斎宮御所に出入りするのは当然の事、と思われたのではないでしょうか。

 というわけで、沖本氏の論文より後に出版された『今鏡』注釈書でもこの点は特に追及されていなかったこともあり、問題提起としては面白いかと思って令子内親王の項目に載せてみました。できれば問題の「いつきのみや」が誰なのかを特定できればもっと面白いのですが、目下のところそこまでの手がかりはなさそうなので、これは今後の宿題としてまた改めて取り組んでみたいと思います。

 そうそう、最後になりましたが、今回の更新で『天皇皇族実録』のリンク情報も追加しました。あいにく近場にゆまに書房の復刻版を所蔵している図書館がないため、以前は東京まで出向かないと閲覧できなかったのですが、いつの間にか宮内庁のDBで原本が全巻公開されていて、これは本当に大助かりでした。
 とはいえ、天皇によってはどの巻に斎院になった皇女が掲載されているのか判りにくいため、すぐに探せるように全斎院にリンクをつけました。もちろん斎院以外の皇子・皇女や后妃の情報も充実した貴重な資料ですので、ご存知なかった方は是非ご利用ください。
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賀茂斎院の謎・3 再びお姫様の名前

 2020/08/20(Thu)
 先日斎院サイトに『水左記』話を更新した後、何だかお客様がちょっと増えたようです。ある意味時事ネタともいえる疱瘡流行が絡んでいたためかもしれませんが、「退下した後の(前)斎院」の消息というのは尊称皇后でもない限り珍しいもので、これを知って大変嬉しかったですね。何しろ俊房と娟子は前回も触れたように駆け落ち+周囲の大反対を乗り越えて結ばれた、当時では珍しいまさに物語の男女のようなカップルで、千尋も大変興味があったのです。残念ながら娟子は子供には恵まれなかったものの、年を重ねてもあれだけ大切にされていたのであれば、きっと幸せな一生だったのでしょうね。

 さて、前々回に引き続き、今回のお題はまたしても賀茂斎院の「お名前」です。

 こちらをご覧の皆様の中には既にご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、今年の4月に『藤原道長を創った女たち』(服藤早苗・高松百香編,明石書院)という本が出ました。その中に「天皇と結婚した三人の孫内親王」(野口華世著)という章がありまして、禎子内親王(父・三条天皇)・章子内親王(父・後一条天皇)と並んで17代斎院の馨子内親王も紹介されていたのですが、そこで馨子内親王の名前の訓読みを「さほこ」である、としているのです。

 え、「馨子」が「さほこ」?と驚いたのですが、解説によると馨子内親王が着袴で二品に叙された時、『左経記』に「内府(藤原教通)仰せて云わく、先(佐)品子を以て二品に叙すべしてえり」とあり、よって訓が「さほこ」であることがわかる、というのです。慌ててうちの賀茂斎院サイトを見てみると、確かに問題の記事(長元4年10月29日条)にはしっかり「以佐品子可叙二品者」とあり、底本とした増補史料大成の『左経記』も間違いなく「佐品子」と書かれていました。
 しかしながら、「馨」がどうやったら「さほ」になるのか、まず漢字の意味からしてぴんと来ません。それに「馨子」と書いた上で注等に訓読みをつけているのであればわかりますが、六国史や公文書のような正式なものではない公家日記とはいえ、訓読み表記だけというのは(そもそも同様の例自体が極めて少ないのですが)何だか変だな、という気がして納得できず、しばらく意識の片隅に引っかかっていました。

 ところが、最近あらためて原文を見直していて、ふと思いついたことがあったのです。
 この「以先品子可叙二品」はもしかして、「先」ではなく「无」なのではないでしょうか?
 というのも、「无品」はつまり「無品」で、親王・内親王の品位についての記録ではよく見られる言葉です。『左経記』では残念ながら他に見当たらないようですが、同時代の『小右記』や『日本紀略』でもこの「无品」はよく使われているので、可能性がないとはいえないかも、と考えたのでした。

 既に述べたように増補史料大成本は「佐品子」ですが、近年発行された『大日本史料(第2編之31)』では、「先品子」とした上で「先」の右に[佐イ](異本で「佐」とするものがある)となっています。また、国立公文書館で『左経記』の写本を所蔵しており、データベースで画像公開もされているのですが、こちらを確かめてみたところやはり「先品子」でした。
 もちろん、原本では「佐品子」となっていたのが、筆写を重ねるうちにどこかで「先品子」となり、こちらの方が主流になってしまったという可能性もあります。しかし「先」という字は「无」と字体がよく似ており、「佐(または左)」と「先」を間違えるよりは、「无」が「先」に間違えられたという方がありそうに感じられます(ちなみに国立公文書館本の同記事には「左」の字も出てきますが、「先」とは明らかに違っていてはっきり区別がつきました)。
 こうなると他の写本も見てみたいところですが、宮内庁書陵部や国立国会図書館所蔵の写本については、残念ながらWEB公開はされていません。しかし何か他に手掛かりはないかと諦めきれずに探してみたところ、国文研のデータベースから、大和文華館所蔵の写本もWEB公開されていることがわかりました。
 そして何とびっくり、大和文華館本には「先品子」の「先」の横に、「无歟(「先」は正しくは「无」ではないか)」と注があったのです! おお、こんなところにまさかの同意見が!と、この発見(というと大袈裟ですが)には大感激でした。

 ところで今までも何度か触れてきましたが、平安時代の女性名というのは大変厄介で、訓読みが判明している例は殆どありません。そんな中、馨子内親王の従姉妹にあたる後朱雀皇女の斎宮良子・斎院娟子姉妹について、『範国記』に記録が残っているのが貴重な例外です。
 うちの斎院サイトでも紹介していますが、原文では「一宮御名良子、良字読長、二宮御名娟子、読麗」となっていて、やはり正式な諱を書いた上で訓の説明をつけていました。なので馨子の場合も、もし本当に「サホコ」であれば、「以馨子<読佐保>可叙二品」等のような書き方になったのではないでしょうか。
 また、上でも触れたように「馨」=「サホ」という訓読みは(少なくとも現代人には)連想しにくいですが、加えて当時のひらがながくずし字から生まれたという経緯を考えると、「ほ」の音で一般的なのは「保」か「本」で、「品」を字母とした「ほ」の例は見られません。また「佐」はともかく、「先」も「さ」の字母として使われた例は調べた限りでは見当たらず、この点からも「先品」=「サホ」であった可能性は低いのではないかと思います。

 とはいえ、そもそも「サホコ(?)をもって二品に叙すべし」という解釈は、文法的には当時の他の叙品記事と比較しても矛盾がなく、その点は問題ありません。しかし「先」が「无」だとすると、「無品の子(?)をもって~」というのは、内親王の叙品についての文章としてはちょっと違和感があります。
 というわけで、ここからは完全に推測というか想像になりますが、本来の原本では「以无品馨子可叙二品(無品馨子を以って二品に叙すべし)」と、本名(諱)も記載されていたのではないでしょうか。しかし原本かそれに近い写本かで、「馨」と「子」の間にたまたま改行があったとかで、筆写した際に「馨」が脱落してしまった結果、「以无品子可叙二品」になってしまったのではないか、というのが目下の千尋の仮説なのでした。

 なお、そもそも問題の着袴二品の時、馨子内親王が「無品」だったのかどうかについては、残念ながら決定的証拠(笑)は現存史料の中にはないためわかりません。なのでじゃあ他の内親王の例はどうなのかと思い、平安時代の朝原内親王から馨子内親王までのデータを一通りさらってみました(かなり長くなるので、興味のある方はサイトをご覧ください)。
 その結果、確実に着裳以前の叙品であったケースは馨子の姉の章子内親王以外見つからなかったので、状況証拠から見てやはり馨子内親王は無品から二品へ直叙されたと思われます。ちなみに章子は5歳で着袴一品ですが、これはあくまで例外中の例外で、殆どの場合はどんなに早くても着裳で最初の叙品というのが決まりだったようです。
 それにしても5歳で一品とはとんでもない話ですが、それよりは遅いとはいえ、禎子内親王の11歳着裳で一品も当時としては随分無茶な話です。しかしこんな場合俄然元気になる(笑)実資さんのコメントが『小右記』にないなと思っていたら、たまたまWEBで見つけた論文の中で、別な時の記事で「着裳前に一品にするなんてけしからん!」と書いていたことが紹介されていて、あーやっぱりと思わず笑ってしまいました。まあこの件に関しては実資さんの言い分の方がもっともだと思いますが、私の中での彼のイメージは何を隠そう永井路子氏の小説『この世をば』がベースでして、確かに博識だし道長何するものぞな小野宮流のプライドもあったようですが、高潔な人格者というのとはちょっと違ったのではないかなあ、と勝手に思ってます(何しろ永井氏によると「意地悪評論家」だそうなので。笑)。

 ともあれ、前回の『水左記』を調査中にこの問題に引っかかったため、ここしばらく二本立ての同時進行で大変忙しかったです。なので前々回の8/7の記事で「歴代35人の中で確実な読みのわかっている人物は一人もいない」と書いた時には、実はまだここまで考えていなかったのですが、この思いがけない宿題のおかげで大変充実した夏休みになりました(笑)。



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賀茂斎院の謎・2 「狂斎院」のその後

 2020/08/16(Sun)
 前回の日記でちらっと予告しましたが、賀茂斎院サイトにようやく蓮華乗院についての記事を上げることができました。…ところが、つい先日たまたま大変面白いものを見つけてしまい、おかげでこの一週間というものすっかりそちらに夢中になってしまいました。最初は8/10に一度一区切りのつもりでアップしたのですが、その後次から次へと別な関連資料の存在が明らかになり、そのたびにちまちまと追加修正を繰り返した結果、やっと何とか一段落ついたかと思います。お盆期間中にもかかわらず(しかも連日の猛暑の中)開館してくださっている図書館の皆様、おかげさまで本当に助かりましたありがとうございます!

 というわけで、今回のお題は18代斎院・娟子内親王です。

 斎宮・斎院に興味のある方なら御存知かと思いますが、娟子内親王は歴代斎王の中でも(というか内親王全体を見ても)大変珍しい、高貴な身分でありながら何と恋人と駆け落ちを決行した(!)というドラマチックな逸話のある人物です。当時は相当大騒ぎになったのでしょう、おかげで「狂斎院」等という芳しからぬ呼び名もありますが、最終的には二人の恋は許されめでたく正式に結婚に至ったようです。
 さて、その娟子のお相手である源俊房ですが、この人の日記『水左記』は何と現代まで直筆の原本が伝わっています。原本が残っているものとしては、かの藤原道長の日記『御堂関白記』に次いで古いもので、しかも当時の記録は少ないため、大変貴重な一次史料であることは言うまでもありません。
 しかしながらこの『水左記』、こと賀茂斎院に関しては記録が少なく、あまり重要な史料とは言えません。しかも筆者の俊房自身、前斎院である内親王を妻にしていながら、残念ながら日記には肝心の奥さんの話題は殆ど出てきておらず、正直言ってちょっとつまらないなと思っていました。

 ところが、最近ひょんなことからWEBで面白い情報に遭遇しました。
多摩遊覧」というブログに『水左記』に関する記事(本文はこちら)がありまして、何と『水左記』に登場する「御前」という人物が、ずばり娟子内親王だというのです。これには「え、本当!?」と仰天し、慌てて図書館から『水左記』を借りてきました。
「多摩遊覧」の武野史人様によりますと、承暦元年(1077)に「御前」が良子内親王(娟子の同母姉)の喪に服していたという記事があり、よって「御前」は娟子であろうということです。武野様はそれ以上は特に触れていないのですが、これについてちょっと詳しく説明します。

 そもそも問題の記事は11月19日、「御前」が一品宮(良子)の喪から除服(服喪を終えること)した、という内容です。良子内親王は同年8月26日に亡くなったので、つまり「御前」はそれから三ヶ月間、良子の喪に服していたということになります。
 ここで大事なのがこの服喪期間で、平安時代には「喪葬令」という法律があり、故人との血縁や関係等により服喪期間が細かく定められていました。具体的には、以下の通りになります。

 ・天皇・太上天皇・父母・夫・主人~1年
 ・祖父母・養父母~5ヶ月
 ・曾祖父母・外祖父母・父の兄弟姉妹・妻・兄弟姉妹・夫の父母・嫡子~3ヶ月
 ・高祖父母・母の兄弟姉妹・継母・同居の継父・異父兄弟姉妹・庶子・嫡孫~1ヶ月
 ・庶孫・父方のいとこ・兄弟の子~7日

 良子内親王の場合、「御前」は3ケ月の服喪なので、該当する服喪者は「(良子内親王の)曽孫・外孫(娘の子)・兄弟の子(甥・姪)、夫、兄弟姉妹、息子の妻、母」ということになります。
 ところが、良子内親王は前斎宮で、妹の娟子とは違って生涯独身でした。ということは、配偶者や姻戚はもちろんのこと子や孫もいませんから、3ケ月の服喪に該当するのは以下の人々です(※当時存命の人物のみ)。

 ・母~陽明門院禎子内親王
 ・兄弟姉妹~同母妹娟子内親王、異母妹バイ子内親王・正子内親王
 ・甥・姪(弟後三条天皇の子)~白河天皇・東宮実仁親王・輔仁親王、聡子内親王・俊子内親王・佳子内親王・篤子内親王

 この中で、陽明門院は『水左記』でそのまま院号で「陽明門院」と記されているので、当然該当しません。また白河天皇と実仁親王も、「主上」「東宮」等の敬称や称号なので当然該当せず、また輔仁親王もこの前後には出てきませんが「三宮」でしょうから同様です。
 ということは、「御前」は残りの姉妹と姪の中の誰かということになります。

 ここで『水左記』の承暦元年8月の記事をよく読むと、この一月の間「御前」に関する記事が大変多く、毎日のように「御前」が登場します。というのも、この時平安京では疱瘡(天然痘)が大流行しており、死者は数え切れないほどと言われる悲惨な状況でした。「御前」も重態に陥った末に遂には出家してしまったとあるので、一歩間違えば命を落としていたかもしれません。実際、良子内親王はほぼ同時期に亡くなっており、『水左記』にはそれ以外にも貴族たちがばたばた疱瘡に倒れた様子が連日記録されています。
 ちょっと前までなら現代の日本人には想像もできないような話でしたが、コロナの危機に晒されている現在改めて読むと、感染症の恐ろしさは昔も今も変わらないのだなとしみじみ痛感します。ましてや満足な治療法もなかった当時の人々の恐怖がどれほどのものだったかと思うと、決して他人事ではありませんね。

 ともあれ、俊房本人も7月末に発症して随分苦しんだようですが、「御前」のために祈祷を頼んだり仏像を作らせたりと、あれこれ懸命に手を尽くしています。俊房がここまでして、しかもそれを日記に書き留めたほどの相手となると、これはやはりこの「御前」が妻の娟子だったとしか考えられません。
 ちなみに改めて大日本史料データベースで検索してみたところ、『史料総覧』の綱文に「故右大臣師房の室藤原尊子出家す」とありました。また『平安時代史事典』等の資料でも同様で、つまり今まで「御前」は俊房の母尊子(藤原道長の娘)と思われていたようです。あの角田文衛先生も気が付かなかったらしいのがちょっと意外ですが、角田先生も別記事の「尼上」は尊子だとしているので、「御前=尼上=尊子」と思っていたのでしょうか?

 ともあれ、色々調べた結果、やはり「御前」は尊子ではなく娟子のことらしいという結論に達しました。今まで『水左記』には娟子の記事は殆どないとばかり思っていましたが、改めて読み直すと重病に苦しむ妻を案じて必死で手を尽くす俊房の心情が伝わってくるようで、何だか感動してしまいました。

 ところで、上記の「御前」候補の人物の顔ぶれを見て、あれっと思いました。
 良子の妹と姪合計7人の内、妹の娟子・バイ子・正子、そして姪の佳子・篤子は前斎院で、何と7人中5人が斎院経験者なのです。当時は皇女の殆どが斎王経験者だったとはいえ、前斎宮は俊子内親王だけで、随分斎院率が高い?ですね(もっとも当時の斎宮は女王が多かったとので、それを考えると当然なのですが)。



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