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10000HIT御礼

 2022/09/27(Tue)
本日、賀茂斎院サイトがめでたく10000HITを越えました! こんなに早くこの日が来るとは、正直本人が一番びっくりしています(笑)。今までお運びくださった皆様、本当にありがとうございました。更新は相変わらずのんびりペースですが、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

なおツイッターでも触れましたが、先日長年の悲願だった上醍醐陵訪問をついに達成しましたので、近いうちにこちらで報告予定です。登山に慣れた健脚の方はともかく、初心者には予想以上に大変な場所でしたので、必要な準備や注意点等まとめて今後の参考になるようお知らせしたいと思いますので、もうしばらくお待ちくださいね。

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上醍醐陵(24代斎院令子内親王・29代斎院禧子内親王墓所)



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ツイッター始めました

 2022/05/04(Wed)
えー、大変遅まきながらではありますが、このたびようやくブログ以外のSNSを始めました。というのも、つい先日までずっとガラケーだったこともあり、なかなか踏み切れなかったのです。しかし当方auで、今年の2月でガラケー終了ということになり、渋々ながらスマホに替えたのを機に、思い切って決断しました。
というわけで、実を言えば始めたのは3月だったのですが、最初は右も左もわからない状態だったため、しばらくはお試し期間ということで内緒にしていました。もっともかなり早くからお気づきの方もいらっしゃったようですが(笑)、色々遊んでみて大分慣れてきたので、これからは賀茂斎院サイトとツイッターも相互リンクで参ります。またブログにもツイートボタンをつけましたので、あわせてよろしくお願いいたします。

ちなみに何故本日公開にしたかと言いますと、これもすぐにピンと来た方もいらっしゃるかと思いますが、5月4日は本来、葵祭の斎王代御禊の日なのです。葵祭は残念ながら今年も見送りとなってしまいましたが、どうせなら15日の行列よりも御禊の日の方が斎院サイトらしいかな、と決めました。最初にサイトを開設した時はそこまで考えていなかったので、今回祭にちなんだ日にできてちょっと嬉しいです(もっとも厳密に言えば本来は旧暦五月の中午日でもう少し先なのですが、却ってわかりにくいのでやめました。笑)。

さてそのツイッターですが、サイトについては伏せていたこともあり、今までのツイートは平安時代関連についてはちらほら触れていたものの、斎院ネタは殆ど出していませんでした。というわけで本日からめでたく解禁(笑)ということになりますが、酒井抱一や美術展や洋館等といった平安時代以外の話題も多分引き続き色々取り上げていくと思います。最近は安房直子さんとドールハウスで盛り上がっていましたが、関心のある方はお付き合いいただければ嬉しいです。
…それにしても、このブログはそもそも美術展巡りの記録で始めたはずなのに、近頃はコロナで美術展にご無沙汰しているせいもあって、すっかり平安時代一辺倒になってしまいました(苦笑)。いずれ美術展巡りが再開できれば、そういう話題もまた時々は上げていきたいと思いますが、はてさていつになることやら…(溜息)

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白川伯王家と斎院の母

 2022/04/18(Mon)
どたばたしているうちに早くも4月になり、ついでに賀茂斎院サイトも何と9000HITを超えました。いつも来てくださる方も最近初めて知ったという方も、皆様ありがとうございます。何しろ管理人はアマチュア故、かなり好き勝手に自由な解釈というか無責任な妄想を繰り広げることもありますが、少しでも楽しんでいただければ嬉しいです。

さて今回、久しぶりにちょっと大きめの更新となりました。今まであまりネタがないな(笑)と思っていた27代斎院ソウ子内親王(ソウ=りっしんべん+宗)について、今更ですが生母に関するちょっと面白い疑惑?を見つけたのです。

主な史料を見ると、ソウ子の母はほぼ一致して「神祇伯女」または「康資王女」とあり、さらに個人名の表記があるものは「源仁子」となっています。しかし「神祇伯女」の方が実は曲者で、どうやら神祇伯こと康資王の娘は二人いたらしい、ということがわかりました。何のことはない、よく調べたら『平安時代史事典』で既に指摘されていたことでして、一人は堀河朝に典侍となった女性、もう一人は鳥羽朝にやはり典侍となった源仁子です。どちらも年齢不詳ですが、典侍になった時期から見て、多分仁子の方が妹でしょう。
しかしそうなると、今度はソウ子母の「神祇伯女」は一体どっちなんだ?という新たな疑惑が出てきます。
というわけで再び史料を漁りまくった結果、残念ながら決定的な根拠は見つからなかったものの、ソウ子母は多分仁子ではないかと思われます。というのも、姉の堀河朝典侍は任官後の消息が見当たりませんし、一方で仁子の方はどうやら鳥羽天皇に出仕するまでは女官経験はなかったらしいのです。『今鏡』によればソウ子母は元々「大宮」女房だったそうなので、これが正しければ仁子の方が可能性は高いでしょう(もっともこの「大宮(=太皇太后)」がまた、四条宮藤原寛子説と二条大宮令子内親王説があってややこしいのですが、こちらは多分令子内親王だろうと考えます)。

ところでここで面白い事実がもう一つありまして、源仁子は実はただの典侍ではなく、鳥羽天皇即位式でケン帳(高御座のとばりを開けて新天皇の姿を見せる役目)を務めた女官でした(※ケンの字はこちらを参照のこと)。このケン帳は左右二人の女官が担当するもので、源仁子は左のケン帳でしたが、この時右のケン帳は国文学で有名な『讃岐典侍日記』の作者・藤原長子だったのです。
しかし大変残念なことに、『讃岐典侍日記』では即位式の時の描写はさらっと流されてしまい、源仁子のことなど影も形も出てきません(ちなみに『中右記』では例によって非常に詳しく記録しており、おかげで確かに源仁子が左のケン帳だったこともわかっています)。日記の上巻では同僚の典侍や乳母たちの名前も結構出てくるのに、よっぽど白河院に無理やり引っ張り出されたのが嫌だったのかもしれませんが、それにしては(大変名誉な役なので)兄弟に散々羨ましがられたとかいう記述もあるのですよね。

それで思ったのが、讃岐典侍が堀河天皇と男女の関係だった(らしい)のだとすれば、もしや自分にはできなかった御子を産んだ源仁子に嫉妬していたのか?という、我ながら何とも俗っぽい想像でした(笑)。

いや、普段賀茂斎院なんて浮世離れした世界を調べていると、なかなかこういう『源氏物語』の桐壺だとか江戸時代の大奥的なドロドロの愛憎劇にはあまり縁がないのですが、これは正直ちょっと面白いかも、と思ったのです。それで色々調べてみたら、やっぱり研究者の先生方にもそういう妄想、もとい推測をされている方が結構いらっしゃるのですね。一方で「讃岐典侍=堀河天皇の愛人説は殆ど定説になっているが、本当だろうか?」と疑問を呈する論文もありましたが、しかし天皇と二人きり(?)で朝を迎えた自分を「我が寝くたれの姿」なんて表現しているところから見て、やっぱりこれはそういうことだろうと千尋も思いました。

ところで今回、その『讃岐典侍日記』の注釈書を片っ端から読み漁っていて一つ気が付いたのですが、問題の源仁子について、研究者の皆様は殆ど揃って「ケン帳女王」としているのです。
というのも、仁子の家系は後に「白川伯王家(または伯家・白川家とも)」と呼ばれ、代々神祇伯を世襲して何と明治に至るまで「王」の称号を持ち続けた、大変珍しい(というか唯一の)家なのです。そして伯家の女子は、これまた代々即位式で「ケン帳女王」の任にあたるのが決まりとなっており、逆に言えばこの即位式での役目のためもあって、長く子孫まで王号を許されたのでした(平安後期には親王が減っていたため、当然その娘や孫である「女王」も少なく、要するに人員不足だったのです)。
しかしここで一つ大問題がありまして、この伯家が「伯家」という世襲の家系に決定したのは、実は源仁子よりもさらにずっと後(それどころかソウ子内親王さえも亡くなった後)のことなのです。これはもう随分昔、伯家を研究されていた藤森馨氏(旧姓・小松)が「即位儀礼と白川伯王家」等の論文にまとめられているのですが、ということは鳥羽天皇即位の時にはまだ「伯家」という(代々王氏であり続ける)家は存在せず、従って「伯家の女性がケン帳女王を務める」という慣例も当然なかったのでした(だから仁子も『中右記』では「仁子女王」ではなく「源朝臣仁子」となっています)。

このケン帳女王に関する問題については、千尋はたまたま以前30代斎院怡子内親王の関連で興味が湧いて調べたことがあったのですぐ思い出しましたが、意外と『讃岐典侍日記』研究者の間では知られていないようなのですね(正直言って、岩佐美代子氏まで同じ誤解をしていたのは驚きでした)。何だか毎回こんな微妙な粗探しというか重箱の隅をつつくような指摘ばかりしていますが、これは小さいようで意外に重要な問題ではないかと思ったので、今回取り上げました。
ちなみに怡子内親王の項では、崇徳天皇の即位式でケン帳女王を務めた仁子女王(多分怡子内親王の姉?)のことに触れていますが、この頃もまだ「伯家」は成立していませんし、そもそも仁子女王は輔仁親王の娘(つまり後三条天皇の孫)で、こちらは源氏ではなく正真正銘「女王」であり、当然後の伯家の一員でもありません。しかし名前が何しろ同じ「仁子」なので、後で読み返して「あれ、私勘違いしてた!?」と一瞬焦りました(苦笑)。

ともあれ、色々調べていてつくづくと思うのは、研究というのは調べれば調べるほど際限なく調査対象が広がっていくのだなあということです。生涯修行というか日々研鑚あるのみというか、いくら学んでもきりがないというのは大変な一方でとても楽しいことで、おかげで一生退屈しそうにありません(笑)。どこまで行けるかはわかりませんが、これからも行ける限り、少しでも遠くまで行ってみたいと思います。

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春遠からじ

 2022/02/27(Sun)
ご無沙汰しています、今年の冬は相変わらずコロナで大変な上、寒さや降雪も厳しく各地で大変ですね。昨日あたりからやっと少し春らしい暖かさになってきましたが、それはそれで花粉症の千尋にはちょっと憂鬱です…
また美術展の方も、今年は久々のフェルメール来日ということもあって、年が明けたら行けるかなと期待していたのですが、これまた引き続き足止め中です。東博のポンペイ展や科博の宝石展もできれば一度見に行きたいので、せめて3月には落ち着いてほしいものですが、まだちょっと状況が読めませんね。
というわけで、賀茂斎院サイトにちょっぴり追加&リニューアルというほどではないですが修正しました。

まず修正点ですが、トップページのリンク集を大幅増強、千尋がお世話になっている諸々の学術機関や博物館・図書館、各種データベース等々を片っ端から詰め込みました。またWEB公開されている論文についても、ちらほらリンク切れになっているものが見つかったので、今回全面的にDOIへURLを修正しています。文系の学術資料はまだまだデジタル化では遅れていますが、それでも随分リポジトリ等も増えましたし、WEBで手軽に資料を閲覧できるのは本当にありがたいですね。

ところで、過去に雑誌で発表された論文の内、その後図書に収録(場合によっては加筆修正等あり)されているものも意外と多いのですが、これがなかなか厄介な代物です。千尋もすべての研究者の動向を追いきれているわけではありませんし、また本に収録する際に論題自体が変わっていたりすると、目次だけではわかりません。なので発行直後に書店や図書館で運よく現物を見つけた場合はともかく、そうでないものはかなり経った後になって「え、これ本になってたの?」と気が付くこともしょっちゅうなのですよね。
また図書館の図書目録も古い本はなかなか目次データがなく、ましてや初出情報となると現物に当たらなければはっきり確認できないのが本当に不便です。図書館でレファレンスサービスを利用するという手もあるものの、何しろ量が多いため、一度に依頼できる件数にもこれまた限度があります。というわけで結局、東京の大きな図書館で直接確認するのが一番手っ取り早いのですが、今はコロナでその手が使えないのがまた不便なのでした。

一方、古い論文や本の場合は著作権がフリーとなっているものもあり、絶版本等は結構WEB公開も進んでいます。おかげで論文の文献複写依頼をした後になって、実は国会図書館のデジタルライブラリーで見られることに気が付いたとか、県外の図書館から『天皇皇族実録』を取り寄せてもらったら、その後で宮内庁がデータベース公開していたのを知ったとかなんてこともありました(笑)。せめてうちの賀茂斎院サイトではそういう苦労のないように、図書に再録された論文やWEBで公開されているものを見付けた時はできる限り最新のデータを随時追加していますが、どうせなら図書目録や論文データベースにも初出情報や図書収録情報の項目があれば便利なのになあ、とよく思います(ただし登録作業は物凄く大変でしょうけれど…)。

そんな具合でレポート作成は一時停止中ですが、今回は16代斎院選子内親王について、大変遅まきながらですが歌集関連のデータをちょっと追加しました。
そもそも選子は歴代斎院の中では知名度が高い人物で、歌集についてもかなりの先行研究があるため、なかなか全部は確認しきれないということもあってちょっと後回しになっていました。何しろ斎王の和歌研究となると、今更千尋が手を出すまでもなく所京子先生という大先輩がいらっしゃいますし、そもそも和歌となると日本史以上に不勉強でわからないことだらけでお手上げです。さらに選子の場合、『大斎院前の御集』『大斎院御集』は選子本人というより選子に仕えた女房集団のグループ歌集?のような内容なので、わざわざ載せなくてもいいかなと思っていたのです。
しかし改めて図書館から借りた注釈書をじっくり読んでみると、当時の他の史料からはなかなかわからないような斎院御所の日常が伺えて、これはこれで結構面白いのですよね。特に歌そのものより詞書の方が、斎院御所には紅葉や梅の木があったらしいとか、季節の変わり目には草焼き?のようなこともしていたらしいとか、そういう何気ない描写が意外にリアルに実情を伝えていて、公家日記とはまた違った魅力がありました。
ともあれ今回は、歌集の中から特に斎院ならではの賀茂祭や相嘗祭等に関連した歌をピックアップして載せてみました(なお『発心和歌集』は何しろ仏教関連の歌しかないため、対象外としています)。

あともう一つ、勅撰和歌集でもなく選子本人の私家集でもない『斎宮女御集』も今回加えましたが、これは正直に言いますと完全に千尋の趣味です(笑)。もちろん選子の最も若い頃の詠歌(多分)という点にも注目しましたが、何と言っても千尋は昔から斎宮女御の大ファンでして、そもそも彼女を知ったことが斎王へ興味を持つきっかけだったのです。それで山中智恵子氏の名著『斎宮女御徽子女王』はもちろん、『斎宮女御集』の注釈書も図書館で借りるだけでは満足できず買ってしまったくらいなので、これは是非とも一緒に入れねばと思って引っ張り出してきました。
それにしても、斎宮女御徽子女王と後の大斎院選子内親王という二人の贈答も貴重ですが、徽子女王が亡くなった時にあったという「さい院(選子内親王)より御とぶらひ」の歌が残っていないのは何とも残念です。恐らくこの時の弔問でも、当然選子は異母姉の規子内親王へお悔やみの手紙に和歌も添えて送っていただろうと思うのですが、一体どんな歌だったのでしょうね?
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平安よもやま話

 2021/12/01(Wed)
 本日、敬宮愛子内親王殿下が二十歳になられましたね。ご成人おめでとうございます。
 20年前のまさに今日、千尋は母親と二人で京都旅行中に新宮様ご誕生の吉報を聞きました。実は何を隠そう、千尋自身も12月1日が誕生日でして、あの時は本当に我がことのように嬉しく感激しました。翌日早速京都御所へお祝いの記帳に駆けつけたのも、いい思い出の一つです。
 ところで愛子様は現在平安時代の文学に関心をお持ちだそうで、今朝のニュースでも古い屏風やお香の道具等を熱心にご覧になっている映像が流れ、これまたとても嬉しかったです。今まで皇室の方で日本史や古典を研究対象に選ばれる方は意外にいらっしゃらなかったようですが、愛子様もこれから天皇陛下のように公務の合間に好きな研究に勤しまれるのかなと、同好の士としても嬉しくまた微笑ましく思いました。色々難しいお立場ではありますが、どうか幸多き人生となりますよう、心からお祈りいたします。

 さて、先日まで調べ物でばたばたしていたのが一段落着きましたが、今年はまさにその調べ物でお世話になった方の一人、藤田勝也氏の『平安貴族の住まい』(吉川弘文館)が歴史文化ライブラリーで出版されました。一般向けですが内容は実に充実していて、しかもわかりやすく大変面白かったです。

  

 よく「寝殿造」というと教科書で見かける想像図(※大元は沢田名垂『家屋雑考』の「寝殿造鳥瞰図」)でおなじみだけれど、あれはあくまで想像図であるだけでなく当時の実態にも則していなかった(!)そうで、これは恥ずかしながら千尋も今まで知りませんでした。前回模型写真を紹介した東三条院の復元図くらいは見たことがありましたが、近年は発掘調査も随分進んだおかげで考古学方面から新しくわかったこともたくさんあり、従来思われていたイメージとは随分違う一面が見えてきているそうです。ちなみにこれは個々の邸宅に限らず平安京そのものについても同様で、右京は『池亭記』で言われていたほど荒廃していなかったらしいとかいう話もありますが、あまり文献史料だけを信頼しすぎても危険なのですね(確かに、例えば『小右記』だけを読んだら「道長は何て横暴な権力者なんだ!」と思い込んでしまいそうですが。笑)。

 参考リンク:寝殿造の歴史

 ところで斎院関連では、豪壮な寝殿造が建てられる一方で、質素な萱葺きの建物も作られた、という話が面白く興味を引かれました。こうした建物はしばしば「萱御所」の名で文献に登場しますが、萱御所と言えば連想するのはもちろん式子内親王で、何しろ彼女は「萱斎院」という呼称まであったくらいです。現代人が茅葺屋根と聞くと田舎の民家を連想しますが(もっとも現代では茅葺は逆に大変お金がかかります)、平安時代の内裏や貴族たちの高級住宅はもっぱら檜皮葺で、茅葺はやはり粗末なイメージでした。ただし田舎ではなく平安京に敢えてそんな粗末な建物が作られたのは、藤田氏曰く「数寄的な空間を創り出そうという意図」による、「都市内の草庵のごとき存在」であろうということです(もちろんハレではなくケの空間であることは言うまでもありません)。
 そして言われてみれば、式子の和歌には不思議と?ちらほら「山里」とか「山深く」という言葉が出てきます。当時は歌枕とか題詠とかで想像だけで詠む歌も多かったとはいえ、一生を通して平安京かせいぜい紫野斎院でしか暮らしていない高貴な内親王にしては不思議だなと思っていましたが、もしかしたら一時住んだ萱御所の鄙びた趣のたたずまいからそんな空想をしたのかな、なんて考えました。賀茂祭での賀茂社の神館を詠む時は「仮寝」とか「旅枕」と、明らかに一時わずかに滞在しただけという言葉遣いですが、それ以外の歌の方が「跡もなき庭の浅茅」だとか「人はたづねぬ松の戸」「松の柱の杉の庵」だとか、うらぶれて逼塞しているかまたは山奥の隠者のような(確かに出家はしていましたが)、題詠にしても皇女の作にしてはうら悲しい風情の歌が多く、けれどそれもまた魅力的です。

 さてもう一冊、こちらはちょっと意表を突かれて驚いたのですが、永井晋氏の『八条院の世界』(山川出版社)も今年の出版でした。

  

 ↑この帯の「史上最強の皇女」というフレーズにちょっと吹き出してしまいましたが、女帝にも后にもならなかった「皇女」で日本史上最強の人物は誰か?と言われたら、確かに八条院ショウ子内親王かもしれません(ショウ=日偏+章)。父は鳥羽院、母は美福門院で、崇徳天皇や後白河天皇の異母妹にあたり、式子内親王やその弟以仁の庇護者であったことでも有名な、これまた賀茂斎院とも少なからぬ縁のある女性でした。
 女院となった皇女は数多いですが、中でも八条院は両親から莫大な遺産を相続した大変な資産家で、その財産を巡って本人の生前は元より、死後も長く天皇家内の争いの種になったほどでした。本書ではそこまで触れてはいませんが、分厚い上に中身も大変に濃い一冊で、正直言って一度読み通しただけではとても内容が頭に入りません。ご本人は終生未婚で当然子孫もいないとはいえ、この時代無視できない重要人物の一人なので、暇ができたらまた読み返してお勉強する予定です(しかしいつになることか…苦笑)

 ちなみにこの本、時々入る著者の個人的なコメントがなかなか愉快で、例えば藤原定家などは日記は長いが重要な儀式はちっとも書いてくれないとぼやき、「一緒に仕事をしたくはないが、愛すべき天才である」だそうです(笑)。一方九条兼実は日記を読んで「本当に筆まめな、真面目な人だと感じる」としながらも、なかなか摂関になれない彼の不満は「最上級のエリートがもつ不満である」とばっさり一刀両断されていました(実際これまたなかなか癖の強い性格だったようですが)。また、定家の姉で『たまきはる』の著者の八時条院中納言(健御前)が後白河院と八条院が後鳥羽天皇即位について交わした相談をこっそり聞いた時の記録について「よくぞ居座って聞いてくれたという内容である」と述べていたのにも笑ってしまいました(それだけ重要な会話だったのは事実なんですが)。なお同じくだりについて、これも短いながら八条院の生涯を紹介した岩佐美代子氏の『内親王ものがたり』(岩波書店)では「(健御前は)そこまでぬすみ聞いた所で、今ようやく無作法に気がふいたふりをして引き下がったというのですから、この人、相当なものです」と書いています(笑)。

  

 ともあれ、去年も橋本義彦氏の『平安貴族 (平凡社ライブラリー0901)』や服部敏良氏の『王朝貴族の病状診断』等の名著が新装版で出版される等、このところ平安時代関連で読み応えのある書籍が続々出てきて嬉しい限りです。吉川弘文館の『人物叢書』やミネルヴァ書房の『ミネルヴァ日本評伝選』も、まだまだ面白そうな人たちが未刊なので、続きが楽しみですね(ところでミネルヴァは酒井抱一も予定に入ってるんですが、一体いつになるんでしょう…)。

 では最後に、今回のおまけ。

八条院跡


『八条院の世界』でも紹介されていた、八条院跡の案内プレートです(2013年撮影)。

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