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賀茂斎院の謎・3 再びお姫様の名前

 2020/08/20(Thu)
 先日斎院サイトに『水左記』話を更新した後、何だかお客様がちょっと増えたようです。ある意味時事ネタともいえる疱瘡流行が絡んでいたためかもしれませんが、「退下した後の(前)斎院」の消息というのは尊称皇后でもない限り珍しいもので、これを知って大変嬉しかったですね。何しろ俊房と娟子は前回も触れたように駆け落ち+周囲の大反対を乗り越えて結ばれた、当時では珍しいまさに物語の男女のようなカップルで、千尋も大変興味があったのです。残念ながら娟子は子供には恵まれなかったものの、年を重ねてもあれだけ大切にされていたのであれば、きっと幸せな一生だったのでしょうね。

 さて、前々回に引き続き、今回のお題はまたしても賀茂斎院の「お名前」です。

 こちらをご覧の皆様の中には既にご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、今年の4月に『藤原道長を創った女たち』(服藤早苗・高松百香編,明石書院)という本が出ました。その中に「天皇と結婚した三人の孫内親王」(野口華世著)という章がありまして、禎子内親王(父・三条天皇)・章子内親王(父・後一条天皇)と並んで17代斎院の馨子内親王も紹介されていたのですが、そこで馨子内親王の名前の訓読みを「さほこ」である、としているのです。

 え、「馨子」が「さほこ」?と驚いたのですが、解説によると馨子内親王が着袴で二品に叙された時、『左経記』に「内府(藤原教通)仰せて云わく、先(佐)品子を以て二品に叙すべしてえり」とあり、よって訓が「さほこ」であることがわかる、というのです。慌ててうちの賀茂斎院サイトを見てみると、確かに問題の記事(長元4年10月29日条)にはしっかり「以佐品子可叙二品者」とあり、底本とした増補史料大成の『左経記』も間違いなく「佐品子」と書かれていました。
 しかしながら、「馨」がどうやったら「さほ」になるのか、まず漢字の意味からしてぴんと来ません。それに「馨子」と書いた上で注等に訓読みをつけているのであればわかりますが、六国史や公文書のような正式なものではない公家日記とはいえ、訓読み表記だけというのは(そもそも同様の例自体が極めて少ないのですが)何だか変だな、という気がして納得できず、しばらく意識の片隅に引っかかっていました。

 ところが、最近あらためて原文を見直していて、ふと思いついたことがあったのです。
 この「以先品子可叙二品」はもしかして、「先」ではなく「无」なのではないでしょうか?
 というのも、「无品」はつまり「無品」で、親王・内親王の品位についての記録ではよく見られる言葉です。『左経記』では残念ながら他に見当たらないようですが、同時代の『小右記』や『日本紀略』でもこの「无品」はよく使われているので、可能性がないとはいえないかも、と考えたのでした。

 既に述べたように増補史料大成本は「佐品子」ですが、近年発行された『大日本史料(第2編之31)』では、「先品子」とした上で「先」の右に[佐イ](異本で「佐」とするものがある)となっています。また、国立公文書館で『左経記』の写本を所蔵しており、データベースで画像公開もされているのですが、こちらを確かめてみたところやはり「先品子」でした。
 もちろん、原本では「佐品子」となっていたのが、筆写を重ねるうちにどこかで「先品子」となり、こちらの方が主流になってしまったという可能性もあります。しかし「先」という字は「无」と字体がよく似ており、「佐(または左)」と「先」を間違えるよりは、「无」が「先」に間違えられたという方がありそうに感じられます(ちなみに国立公文書館本の同記事には「左」の字も出てきますが、「先」とは明らかに違っていてはっきり区別がつきました)。
 こうなると他の写本も見てみたいところですが、宮内庁書陵部や国立国会図書館所蔵の写本については、残念ながらWEB公開はされていません。しかし何か他に手掛かりはないかと諦めきれずに探してみたところ、国文研のデータベースから、大和文華館所蔵の写本もWEB公開されていることがわかりました。
 そして何とびっくり、大和文華館本には「先品子」の「先」の横に、「无歟(「先」は正しくは「无」ではないか)」と注があったのです! おお、こんなところにまさかの同意見が!と、この発見(というと大袈裟ですが)には大感激でした。

 ところで今までも何度か触れてきましたが、平安時代の女性名というのは大変厄介で、訓読みが判明している例は殆どありません。そんな中、馨子内親王の従姉妹にあたる後朱雀皇女の斎宮良子・斎院娟子姉妹について、『範国記』に記録が残っているのが貴重な例外です。
 うちの斎院サイトでも紹介していますが、原文では「一宮御名良子、良字読長、二宮御名娟子、読麗」となっていて、やはり正式な諱を書いた上で訓の説明をつけていました。なので馨子の場合も、もし本当に「サホコ」であれば、「以馨子<読佐保>可叙二品」等のような書き方になったのではないでしょうか。
 また、上でも触れたように「馨」=「サホ」という訓読みは(少なくとも現代人には)連想しにくいですが、加えて当時のひらがながくずし字から生まれたという経緯を考えると、「ほ」の音で一般的なのは「保」か「本」で、「品」を字母とした「ほ」の例は見られません。また「佐」はともかく、「先」も「さ」の字母として使われた例は調べた限りでは見当たらず、この点からも「先品」=「サホ」であった可能性は低いのではないかと思います。

 とはいえ、そもそも「サホコ(?)をもって二品に叙すべし」という解釈は、文法的には当時の他の叙品記事と比較しても矛盾がなく、その点は問題ありません。しかし「先」が「无」だとすると、「無品の子(?)をもって~」というのは、内親王の叙品についての文章としてはちょっと違和感があります。
 というわけで、ここからは完全に推測というか想像になりますが、本来の原本では「以无品馨子可叙二品(無品馨子を以って二品に叙すべし)」と、本名(諱)も記載されていたのではないでしょうか。しかし原本かそれに近い写本かで、「馨」と「子」の間にたまたま改行があったとかで、筆写した際に「馨」が脱落してしまった結果、「以无品子可叙二品」になってしまったのではないか、というのが目下の千尋の仮説なのでした。

 なお、そもそも問題の着袴二品の時、馨子内親王が「無品」だったのかどうかについては、残念ながら決定的証拠(笑)は現存史料の中にはないためわかりません。なのでじゃあ他の内親王の例はどうなのかと思い、平安時代の朝原内親王から馨子内親王までのデータを一通りさらってみました(かなり長くなるので、興味のある方はサイトをご覧ください)。
 その結果、確実に着裳以前の叙品であったケースは馨子の姉の章子内親王以外見つからなかったので、状況証拠から見てやはり馨子内親王は無品から二品へ直叙されたと思われます。ちなみに章子は5歳で着袴一品ですが、これはあくまで例外中の例外で、殆どの場合はどんなに早くても着裳で最初の叙品というのが決まりだったようです。
 それにしても5歳で一品とはとんでもない話ですが、それよりは遅いとはいえ、禎子内親王の11歳着裳で一品も当時としては随分無茶な話です。しかしこんな場合俄然元気になる(笑)実資さんのコメントが『小右記』にないなと思っていたら、たまたまWEBで見つけた論文の中で、別な時の記事で「着裳前に一品にするなんてけしからん!」と書いていたことが紹介されていて、あーやっぱりと思わず笑ってしまいました。まあこの件に関しては実資さんの言い分の方がもっともだと思いますが、私の中での彼のイメージは何を隠そう永井路子氏の小説『この世をば』がベースでして、確かに博識だし道長何するものぞな小野宮流のプライドもあったようですが、高潔な人格者というのとはちょっと違ったのではないかなあ、と勝手に思ってます(何しろ永井氏によると「意地悪評論家」だそうなので。笑)。

 ともあれ、前回の『水左記』を調査中にこの問題に引っかかったため、ここしばらく二本立ての同時進行で大変忙しかったです。なので前々回の8/7の記事で「歴代35人の中で確実な読みのわかっている人物は一人もいない」と書いた時には、実はまだここまで考えていなかったのですが、この思いがけない宿題のおかげで大変充実した夏休みになりました(笑)。



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賀茂斎院の謎・2 「狂斎院」のその後

 2020/08/16(Sun)
 前回の日記でちらっと予告しましたが、賀茂斎院サイトにようやく蓮華乗院についての記事を上げることができました。…ところが、つい先日たまたま大変面白いものを見つけてしまい、おかげでこの一週間というものすっかりそちらに夢中になってしまいました。最初は8/10に一度一区切りのつもりでアップしたのですが、その後次から次へと別な関連資料の存在が明らかになり、そのたびにちまちまと追加修正を繰り返した結果、やっと何とか一段落ついたかと思います。お盆期間中にもかかわらず(しかも連日の猛暑の中)開館してくださっている図書館の皆様、おかげさまで本当に助かりましたありがとうございます!

 というわけで、今回のお題は18代斎院・娟子内親王です。

 斎宮・斎院に興味のある方なら御存知かと思いますが、娟子内親王は歴代斎王の中でも(というか内親王全体を見ても)大変珍しい、高貴な身分でありながら何と恋人と駆け落ちを決行した(!)というドラマチックな逸話のある人物です。当時は相当大騒ぎになったのでしょう、おかげで「狂斎院」等という芳しからぬ呼び名もありますが、最終的には二人の恋は許されめでたく正式に結婚に至ったようです。
 さて、その娟子のお相手である源俊房ですが、この人の日記『水左記』は何と現代まで直筆の原本が伝わっています。原本が残っているものとしては、かの藤原道長の日記『御堂関白記』に次いで古いもので、しかも当時の記録は少ないため、大変貴重な一次史料であることは言うまでもありません。
 しかしながらこの『水左記』、こと賀茂斎院に関しては記録が少なく、あまり重要な史料とは言えません。しかも筆者の俊房自身、前斎院である内親王を妻にしていながら、残念ながら日記には肝心の奥さんの話題は殆ど出てきておらず、正直言ってちょっとつまらないなと思っていました。

 ところが、最近ひょんなことからWEBで面白い情報に遭遇しました。
多摩遊覧」というブログに『水左記』に関する記事(本文はこちら)がありまして、何と『水左記』に登場する「御前」という人物が、ずばり娟子内親王だというのです。これには「え、本当!?」と仰天し、慌てて図書館から『水左記』を借りてきました。
「多摩遊覧」の武野史人様によりますと、承暦元年(1077)に「御前」が良子内親王(娟子の同母姉)の喪に服していたという記事があり、よって「御前」は娟子であろうということです。武野様はそれ以上は特に触れていないのですが、これについてちょっと詳しく説明します。

 そもそも問題の記事は11月19日、「御前」が一品宮(良子)の喪から除服(服喪を終えること)した、という内容です。良子内親王は同年8月26日に亡くなったので、つまり「御前」はそれから三ヶ月間、良子の喪に服していたということになります。
 ここで大事なのがこの服喪期間で、平安時代には「喪葬令」という法律があり、故人との血縁や関係等により服喪期間が細かく定められていました。具体的には、以下の通りになります。

 ・天皇・太上天皇・父母・夫・主人~1年
 ・祖父母・養父母~5ヶ月
 ・曾祖父母・外祖父母・父の兄弟姉妹・妻・兄弟姉妹・夫の父母・嫡子~3ヶ月
 ・高祖父母・母の兄弟姉妹・継母・同居の継父・異父兄弟姉妹・庶子・嫡孫~1ヶ月
 ・庶孫・父方のいとこ・兄弟の子~7日

 良子内親王の場合、「御前」は3ケ月の服喪なので、該当する服喪者は「(良子内親王の)曽孫・外孫(娘の子)・兄弟の子(甥・姪)、夫、兄弟姉妹、息子の妻、母」ということになります。
 ところが、良子内親王は前斎宮で、妹の娟子とは違って生涯独身でした。ということは、配偶者や姻戚はもちろんのこと子や孫もいませんから、3ケ月の服喪に該当するのは以下の人々です(※当時存命の人物のみ)。

 ・母~陽明門院禎子内親王
 ・兄弟姉妹~同母妹娟子内親王、異母妹バイ子内親王・正子内親王
 ・甥・姪(弟後三条天皇の子)~白河天皇・東宮実仁親王・輔仁親王、聡子内親王・俊子内親王・佳子内親王・篤子内親王

 この中で、陽明門院は『水左記』でそのまま院号で「陽明門院」と記されているので、当然該当しません。また白河天皇と実仁親王も、「主上」「東宮」等の敬称や称号なので当然該当せず、また輔仁親王もこの前後には出てきませんが「三宮」でしょうから同様です。
 ということは、「御前」は残りの姉妹と姪の中の誰かということになります。

 ここで『水左記』の承暦元年8月の記事をよく読むと、この一月の間「御前」に関する記事が大変多く、毎日のように「御前」が登場します。というのも、この時平安京では疱瘡(天然痘)が大流行しており、死者は数え切れないほどと言われる悲惨な状況でした。「御前」も重態に陥った末に遂には出家してしまったとあるので、一歩間違えば命を落としていたかもしれません。実際、良子内親王はほぼ同時期に亡くなっており、『水左記』にはそれ以外にも貴族たちがばたばた疱瘡に倒れた様子が連日記録されています。
 ちょっと前までなら現代の日本人には想像もできないような話でしたが、コロナの危機に晒されている現在改めて読むと、感染症の恐ろしさは昔も今も変わらないのだなとしみじみ痛感します。ましてや満足な治療法もなかった当時の人々の恐怖がどれほどのものだったかと思うと、決して他人事ではありませんね。

 ともあれ、俊房本人も7月末に発症して随分苦しんだようですが、「御前」のために祈祷を頼んだり仏像を作らせたりと、あれこれ懸命に手を尽くしています。俊房がここまでして、しかもそれを日記に書き留めたほどの相手となると、これはやはりこの「御前」が妻の娟子だったとしか考えられません。
 ちなみに改めて大日本史料データベースで検索してみたところ、『史料総覧』の綱文に「故右大臣師房の室藤原尊子出家す」とありました。また『平安時代史事典』等の資料でも同様で、つまり今まで「御前」は俊房の母尊子(藤原道長の娘)と思われていたようです。あの角田文衛先生も気が付かなかったらしいのがちょっと意外ですが、角田先生も別記事の「尼上」は尊子だとしているので、「御前=尼上=尊子」と思っていたのでしょうか?

 ともあれ、色々調べた結果、やはり「御前」は尊子ではなく娟子のことらしいという結論に達しました。今まで『水左記』には娟子の記事は殆どないとばかり思っていましたが、改めて読み直すと重病に苦しむ妻を案じて必死で手を尽くす俊房の心情が伝わってくるようで、何だか感動してしまいました。

 ところで、上記の「御前」候補の人物の顔ぶれを見て、あれっと思いました。
 良子の妹と姪合計7人の内、妹の娟子・バイ子・正子、そして姪の佳子・篤子は前斎院で、何と7人中5人が斎院経験者なのです。当時は皇女の殆どが斎王経験者だったとはいえ、前斎宮は俊子内親王だけで、随分斎院率が高い?ですね(もっとも当時の斎宮は女王が多かったとので、それを考えると当然なのですが)。



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賀茂斎院の謎 お姫様の名前とお邸の名前

 2020/08/07(Fri)
 ここしばらくまた賀茂斎院サイトの資料集めとデータ整理に追われていましたが、一区切りついたところで7月に一度更新しました。今回『山槐記』と『玉葉』その他の記事を追加したので、これで式子内親王関連の史料はほぼ入力完了です。取りかかる前は『明月記』の方が大変そうな気がしていたのですが、『明月記』は記事の数こそ多いものの中身はそれほど長くないので案外手間もかからず、逆にとんでもない長文の『山槐記』の方が(史料としては非常に貴重なのですが)恐ろしく大変でした…
 なお本当は頌子内親王の蓮華乗院関連のデータもまとめてアップしたかったのですが、他の斎院とはちょっと分野の異なる内容ということもあって、7月時点では間に合いませんでした。というわけで、頌子に関しては比較的調べやすかった五辻第の件のみ先にアップしています(もっともこれはこれで、角田文衛大先生のおかげで却ってややこしくなってしまいましたが。苦笑)。

 さて、今回は和歌関連もちょっと追加しましたが、久しぶりに斎院と「お名前」に関する話です。
 以前伊勢斎宮絡みの話題で、そもそも昔の女性の名前は正しい読み方(訓読み)が殆どわかっていないということを書きましたが、賀茂斎院もその例に漏れず、歴代35人の中で確実な読みのわかっている人物は一人もいません。ただ最近になって、式子内親王研究者の奥野陽子氏が、著作『式子内親王』(ミネルヴァ日本評伝選, 2018)の中で大変面白い指摘をされていました。

 時に建久2年(1191)、摂政九条兼実がその日記『玉葉』に女叙位についての記事を書いていますが、この中に「押筆申云、則子与範子<前斎院云々、>雖字異訓同如何、余(九条兼実)云、於女名者不憚同訓歟」というくだりがあります。漢字ばかりで難しいですが、要するにこの時「則子」という名前の女官がいて、この名前は前斎院の範子と同じ訓読みだがいいのだろうかと、そういうことを言っているようです。
 もっとも残念ながらこの記事では、肝心のどんな読みだったかは明記されていないのですが、「則子」と「範子」で同じ読みとなれば、素直に考えてやはり「のりこ」と読んだ可能性が高いと考えられます。ちなみに西行法師の俗名は「佐藤義清」ですが、史料によっては「憲清」「則清」「範清」という表記もあることから「のりきよ」だろうと言われており、やはり「則=範」=「のり」なのですね。
 というわけで、奥野氏は当時女性名が訓読みされたことは間違いないだろうとしつつ、ここでは同じ「のりこ」である式子の名前が挙げられていないため、残念ながらあまり参考にはならないと述べています。もっとも「式子」の訓読みについては、これまた角田文衛先生が「のりこ」だろうと断言されてほぼ通説となっていますが、いやちょっと待てよ、とここで引っかかりました。

 奥野氏は触れていませんでしたが、上記の女叙位記事では「則子」「範子」のことが話題になる前に「俊子」という名前の女官がいたらしく、ここで兼実が「それは前斎宮(後三条天皇皇女の俊子内親王。1132没)と同名ではないか」と指摘しているのです。もっとも彼はどうやら俊子内親王とその姉の聡子内親王(1131没)を混同していたらしいのですが、兼実の質問に同席していた左大弁の藤原定長が懐から「抄物」(自作のダイジェスト本でしょうか)を取り出して確かめ、「俊子は樋口斎宮ですね」と答えています。わざわざ自分の勘違いまで律儀に書き留めているあたり、兼実さんはなかなかまめな人物ですが(笑)、ともあれこんな具合で、当時の人たちは60年も昔に亡くなった内親王のことまでよく知っていて、資料もきちんと確認していたようなのですね。
 それなのに、何故兼実や定長やその他の人たちは、範子と同じ前斎院でしかもまだ生きている(当時43歳の)式子のことは問題にしなかったのでしょう?

 これについては、そもそも千尋が『玉葉』を正しく解読できている保証がないのですが、少なくとも「則子」と「範子」の訓が同じだという話題に「式子」が出てこなかったのは確かです。ということは、もしかしたら「式子」の訓読みは実は「のりこ」ではなく、だから兼実も取り上げなかった、とは考えられないでしょうか?

 もっとも、兼実さんは式子と縁がなかったのかあるいは関心が薄かったのか、40年近くもの間書き続けた日記『玉葉』の中で、式子については殆ど触れていません。とはいえ故実先例に関しては人一倍うるさく、自分が生まれる前に亡くなっている昔の皇女の名前も把握していた兼実が、(いかに世間で影が薄かったとしても)今現在生きていてしかも前斎院の准后でさらには「あの」(笑)後白河院の娘でもある内親王の存在をころっと忘れていたというのは、ちょっと考えにくいのではないでしょうか。
 ちなみに後白河院が亡くなって式子が大炊御門第を相続した時、その前から仮住まいをしていた兼実がそのまま居座って明け渡さなかったという有名な話は、この翌年(建久3年)のことでした。おかげで式子ファンの千尋には何となくいいイメージのない兼実ですけれど(ごめんなさい)、上に述べたように故実先例に関しては、自分の間違いも隠さず日記に書き留めておくような一面もある人でした。そんな彼の人柄から考えて、少なくとも彼の意識に「式子=のりこ」という認識があれば、それを承知していながら無視することはなかったのではないかなと思うのです。

 というわけで、おこがましくも角田大先生のお説に異を唱えるような結論になりましたが、とはいえ「じゃあ本当は『のりこ』でなく何と読んだのか?」となると、これはもうまったく手掛かりがないのでお手上げです(笑)。とはいえ、「ショクシ」「シキシ」のような音読みでなかったことは確かで、そこを強く主張した角田先生の功績はやはり偉大なものだと思いますが、今になってこういう再発見(?)が出てくるというのも面白いですね。

 さてもうひとつ、今度は人名ではなく邸宅の名前の話です。
 冒頭で少し触れましたが、33代斎院頌子内親王は「五辻斎院」という通称でよく知られていた人物でした。この呼び名は彼女の邸宅が「五辻殿(五辻宮とも)」であったからで、調べてみたらこれがなかなか面白かったのです。

 現在の京都にも、北野天満宮の近くに「五辻通」という東西の道がありますが、頌子内親王の五辻第もこの近くにあったことがわかっています。この「五辻」はその名の通り「オ」字型の道、つまり五本の道が交差した場所であったことに由来したようですが、そもそもその名称自体が、頌子の誕生以後に史料に登場したもので、元は頌子の母春日局の邸宅でした。
 この春日局、父は徳大寺実能(待賢門院の同母兄)ですから家柄もなかなかだったのですが、どうやらその生まれについては色々訳ありだったらしく、鳥羽院の寵愛を受ける前は認知されていなかったことを、藤原頼長が日記『台記』に書いています。しかし頌子内親王が生まれると、五辻第(最初は「春日殿堂」と呼ばれていたようです)は内親王御所となり、やがて後白河天皇(頌子の異母兄)を始めとして歴代の天皇や上皇が五辻第へ行幸するようになったので、かなり大規模な邸宅だったようです。頌子内親王は他にもいくつもの荘園を持っており、後には鳥羽院の菩提を弔うために高野山に寺院を建立しているくらいなので、相当に裕福だったのでしょうね。

 というわけで、その高野山の蓮華乗院のことも合わせてアップしたかったのですが、史料が手近の図書館では入手できなかったため、7月の更新ではひとまず見送りました。何しろこのコロナ騒動でここ数か月東京へも行けないままなので、東京の大きな図書館ならすぐに手に取れる史料もなかなか確認できないのがもどかしいですが、その分今はこれまで大雑把にさらっただけだった史料の洗い直しを進めているところです。おかげで色々と面白い再発見もあったので、そのあたりも含めて続きはまたいずれ。

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絵画の中の賀茂斎院 ~描かれた式子内親王~

 2020/06/30(Tue)
 先日ちょっとまた色々賀茂斎院サイトを更新しましたが、そこで「斎院関連資料」のページに「斎院関連史料等の画像」という項目を新たに設けました。
 名前を見ると仰々しいですが、簡単に言ってしまえば斎院関連の画像リンク集でして、何のことはない、今まで千尋のPCの中にぽつぽつ存在していた斎院関連のブックマークがベースです(笑)。これまでも時折検索で面白そうなものがあるとブクマしていたのですが、これはこれで賀茂斎院情報としてそれなりに有益だろうと感じたので、いっそきちんと整理して公開しようと思って作ってみました。

 ともあれ今回一覧として整理してみた結果、圧倒的に多かったのは予想通りというべきか、やはり31代斎院式子内親王でした。
 元々賀茂斎院としてよりも歌人として名高く、現代でも人気の式子内親王ですが、この人はそれに加えて小倉百人一首の歌人という強み(しかも持統天皇と合わせて二人だけの皇族女性)も加わって、数多くの絵巻や画帖等に描かれています。またここ10年程の間に式子内親王に関する書籍も色々出版されていますが、表紙を見るとWEBで見かけた覚えのある絵がちらほら使われていて、大体は出典がわかるのですよね。
 しかし今回、様々な絵の中の式子内親王を改めて一通り見た時、あれ、と気になった点がありました。

 そもそも、歌人を絵画に表したものはしばしば「歌仙絵」と称され、中でも代表的な作品が去年京都国立博物館で大回顧展が開催された「佐竹本三十六歌仙絵巻」です。もちろん千尋も喜び勇んで見に行きましたし、一部入れ替えこそあったものの、36人中実に30人(!!)の歌仙が集結した会場は、まったく圧巻と言う他なかったです。絵巻切断(正確には分割?)からちょうど百年という時代に巡り合わせた幸運に心底感謝したものですが、ただひとつ、よりによって斎宮女御がなかったのは大変残念でした(もっともそれ以前の美術展で既に3回ほど見てはいるのですが、やはりこの機会にもう一度見たかったです)。
 ともあれ、そうした歌仙の中でも特に有名な柿本人麻呂や小野小町等は、絵画化するにあたって色々と「お約束」が決まっており、装束やポーズ等がある程度パターン化されています。例えば小野小町なら、後ろ姿にして顔を見せない(あまりに美貌過ぎて描けなかった、または敢えて見せないことで想像の余地を残した等諸説あり)とか、または十二単ではなく細長を着ている(これは原因不明。どなたかご存知でしたら教えてください)とか、そういう感じですね。

 で、式子内親王の場合はと言いますと、(少なくとも平安時代の有職故実に則って描かれた場合)ほぼ全ての絵に共通していると言えるのが「几帳と畳」です。
 三十六歌仙の斎宮女御や百人一首の持統天皇も同じですが、この「几帳と畳」は天皇もしくは皇族という大変高貴な人物(特に几帳なら女性)であることを表す目印で、このようなものを持物(じぶつ)と呼びます。西洋美術では英語で「アトリビュート」と言いますが、勿論日本美術でもこうした持物はあり、仏像がいい例です。手に塔を載せていれば毘沙門天とか、獅子に乗っていれば文殊菩薩だとか、間違いなくその人(仏像なら仏様)だと特定できる手がかりになるので、大変重要です。
 というわけで、式子内親王の場合も個人特定とまではいかないものの、几帳と畳は最低限欠かせない必須のアイテムなのです。しかもただの几帳と畳ではなく、几帳は「美麗几帳」と呼ばれる豪華な織物を用いた贅沢品、また畳も繧繝縁(うんげんべり)と呼ばれる最高級の格式の品(雛人形でお内裏様が座っているあの畳です)で、見る人が見ればそれだけで一目瞭然なんですね。

 ところが今回、式子内親王の絵を見渡してみて、もう一つ面白い共通点があることに気が付きました。
 上記のように、几帳と畳さえあればそれが高貴な女性であることがわかるわけで、逆に言えば畳はともかく几帳なんてどこにどう置いてもよさそうなものです。と言っても、そもそも几帳は貴婦人がその姿を隠すために用いるものなので、当然本人よりも手前に置かなければならず、従って背景に置くというのは適当ではありません(もっとも尾形光琳の「秋好中宮」(MOA美術館所蔵)はまさに背景が美麗几帳ですが、女性ばかりの場面を描いたものなので問題ないと考えたのかもしれません)。ちなみにこれがさらに進化?すると、これまた光琳の「三十六歌仙屏風」のように几帳だけを描いて本人の姿はまったく見えない(笑)という、まるで留守文様のような図柄になったりもします。
 しかし式子内親王の場合、何故か圧倒的に多かったのが「左側に几帳を置き、几帳の右端から後姿を半分ほど覗かせている」という構図だったのです。

参考リンク:『新三十六歌仙図 式子内親王』(和泉市久保惣記念美術館)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010677000.html

 はて、一体どうしてこんな構図まで揃って同じになったんだろう?としばし考え込んだのですが、リストアップした絵をさらに見ていくうち、はたと思い当たったことがありました。

 そもそも、最初に式子内親王が絵画として登場したと思われるのは藤原定家が百人一首を考案したよりもさらに前(といってもほぼ同時代ですが)、後鳥羽院が自ら撰したという「時代不同歌合」です。これはその名の通り、古今の歌人を時代に関係なく歌合のように番えたもので、有名なところですと「在原業平と西行法師」とか「僧正遍照と大僧正慈円」といった具合で、まさに時代を越えた夢の対決を歌合せにしたわけですね。
 そしてその中に式子内親王も登場するのですが、右方の式子内親王が番えた左方の相手は勿論、かの斎宮女御(徽子女王)です。
 片や平安中期の伊勢斎宮、片や平安後期の賀茂斎院という二人の斎王、さらに実力からいってもいずれ劣らぬ優れた歌人同士であり、まさに好一対の組み合わせでしょう。そしてこの「時代不同歌合」でも、式子は必ず左の几帳から後姿を覗かせています。

 というのも、左方(=鑑賞者から見て右側)に位置する斎宮女御は、「右側に置いた几帳の左端から」頭の上半分(正確には目から上)だけを覗かせて横たわっている構図なのです。

参考リンク:斎宮歴史博物館所蔵「時代不同歌合絵巻断簡」
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/da/detail?id=494498

 面白いことに、最も古い歌仙絵のひとつと言われる「佐竹本三十六歌仙絵巻」の斎宮女御の「右側に斜めに几帳を置き、畳の上に座して顔を伏せている」という構図は何故かメジャーではなく、上記のような時代不同歌合の「右に置いた几帳から、目から上だけを出して横たわる(または眠っている)」構図が、斎宮女御を描くにあたっての「お約束」として定着したようなのです(斎王研究者の榎本寛之氏は『伊勢斎宮と斎王』でこの構図を「夢で歌の啓示を受けているところ」ではないかとしています)。そしてそれと対になる形で描かれた式子内親王は、構図も斎宮女御とは反対に「左に置いた几帳から、後姿(あるいは少し振り返った姿)を覗かせる」という形に描かれ、それが後に百人一首の中で描かれた時にもそのまま継承されていったらしいのですね。つまり最初に斎宮女御と対で描かれたからこそ、式子内親王の絵姿はあの構図になったということではないでしょうか。

 とはいえ、百人一首では番える相手であった斎宮女御は存在しなかったためもあってか、後には左右逆転した構図の絵や、それどころか佐竹本の斎宮女御の構図をほぼそのまま踏襲した絵(狩野探幽作「百人一首画帖」)等も描かれています(ちなみに探幽は小野小町も佐竹本の構図ではなく細長を採用しており、一方後姿の構図は何故か紫式部です)。
 なお探幽は「新三十六歌仙」を題材にした作品で、少し振り返った見返り美人風な構図の式子内親王も描いています。元々探幽の画風は大変典雅で上品ですが、この絵は衣装も几帳も大変丹念に描かれたとても美しいものなので、興味のある方はぜひリンクからアップでご覧ください。

参考リンク:
・『新三十六歌仙図帖(狩野探幽)/式子内親王』(東京国立博物館画像検索)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009412
・『女房三十六歌仙図画帖』[式子内親王・伊勢](斎宮歴史博物館)
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/da/detail?id=494440
・『光琳かるた』(京都大石天狗堂)
https://www.tengudo.jp/korin/


 最後に、近年出版された式子内親王関連図書をご紹介します。


・『式子内親王:たえだえかかる雪の玉水』


・『式子内親王私抄:清冽・ほのかな美の世界』
(表紙:フェリス女学院大学図書館所蔵『新三十六歌仙画帖』式子内親王)
https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html


・『異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今集』(角川選書)
(表紙:狩野探幽「百人一首画帖」式子内親王)


 なお以前にも書きましたが、千尋はもう随分昔、一度だけ探幽展で「百人一首画帖」を見たことがあります。しかしその時は残念ながら式子内親王は見られなかったので、ぜひいつか実物にお目にかかりたいと思っているのですが、個人蔵なためかその後なかなか美術展に出てきてくれたことがないんですよね…

関連過去ログ:
・「絢爛たる謎」(2011/7/6)
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この人だあれ? 謎の皇女と前斎院

 2020/05/26(Tue)
 えー、大変長らくご無沙汰しておりました千尋です。ここ2年程色々ありまして、すっかりブログも放置状態で大変失礼いたしました。
 今年に入ってようやく少し落ち着いたので、ぼちぼち賀茂斎院の調査も再開していたのですが、今回のコロナ騒動で例に漏れず仕事の方が色々混乱状態、斎院の調査も図書館が利用できなくなってこれまたお手上げという状態でした。
 ともあれ、ここへ来てようやく感染もある程度落ち着いてきたようですので、久々に斎院サイトの更新に踏み切りました。元々それほどITに強いわけでもなく、いまだにHTMLを手書きで地道に書いているような管理人ですので、お見苦しい点がありましたら申し訳ありません。
(ちなみに千尋は通常FireFoxなのですが、Chromeの表示が凄い状態になっていたらしいことに先日やっと気が付きました…)

 さて、今回の更新は主に二点ありまして、一つは後三条天皇の皇女のこと、もう一点は25代斎院禎子内親王の呼称についてです。


1.後三条天皇の皇女のこと
 前から気になっていたのですが、後三条天皇の皇后であった馨子内親王(17代斎院)には夭折した女宮がいたとされています。しかしこの皇女は「いた(らしい)」ということ以外は殆ど何もわかっておらず、どうにもお手上げでした。
 ところが今回、改めて『帥記』を読み直していて、謎の「若宮」という人物の存在に気がつき、もしかしてこれがそうなのかな?と思ったのです。
 詳細はサイトに述べましたが、この「若宮」は後三条天皇即位直後(治暦4年(1068))、内裏にいたことがわかっています。しかしこの頃は天皇の子供といえども、皇后所生子以外は内裏で成長することは殆どなかった時代です。また「若宮」という呼称から見ても、当時16歳の貞仁親王(のちの白河天皇)やその同母姉妹とは考えにくいのです。念のため『後三条天皇実録』も調べましたが、この「若宮」についてはどこにも触れられていませんでした。(※ただし『白河天皇実録』は今回のコロナ騒動の影響で未調査のため、もしかすると白河天皇の方に入っているかもしれません)

 またもうひとつ、『春記』にはこの「若宮」とは別に、後三条天皇の東宮時代に生まれてすぐに亡くなった「女二宮」の記録があります。この皇女については生母が「御息所」としか書かれておらず、これだけでは馨子内親王と藤原茂子のどちらかわからないのですよね。
 しかし改めて『栄花物語』を読み直したところ、まさに幼くして亡くなった『女二宮』についての記述があり、母親は茂子となっていたのですね。今まで読んだ注釈等では、第二皇女の俊子内親王は77歳まで長生きしているので間違いだろうとしか書いていなかったため、うっかり見落としてそのまま忘れていたようです。
 しかし『後三条天皇実録』はさすがというか、「皇女某」として俊子内親王とは別にしっかり記載してあったのです。そうか、つまりこれが『春記』の女二宮と同一人物なのかと、やっと納得しました。

 というわけで、後三条天皇の皇女は4人(聡子、俊子、佳子、篤子)とされていますが、正しくは6人だったろうと思われます。ただ馨子内親王所生の皇女については生年不明ですが、恐らく聡子、女二宮、俊子、佳子、篤子、(馨子の)女宮という順序だったのでしょう。


2.25代斎院禎子内親王の呼称について
 コロナ騒動で図書館が軒並み休館になる少し前、たまたま『兵範記』を借りていたのですが、原文を読んでいて仁平3年(1153)の記事に「東山前斎院」という見慣れない呼称を見つけました。
 はて、こんな名前の斎院はいたかしら?と慌てて手持ちの資料を調べましたが、該当人物は見つからず。時期的に言って、一緒に名前の出てくる統子内親王(28代斎院)以外では禎子内親王かソウ子内親王(27代斎院)が確実に存命だけれど、これだけではどちらなのか(あるいは別な誰かなのか)さっぱりわかりません。
 ところがさらに読み進めて行くと、「令參東山前齋院給、<枇杷殿齋院也、>」という一文に遭遇。何だ、枇杷殿斎院ということはつまり禎子内親王のことかと、呆気なく判明したのですが、こんな呼称があったとは今まで知りませんでした。
 ちなみに後で『兵範記人名索引』を調べてみたら、しっかり「東山前斎院→禎子(慎子)内親王」と記載がありました。これでやはり間違いないなと確認できたものの、何しろかの『平安時代史事典』でもまったく取り上げられていなかっただけに、正直完全に盲点でした…


 というわけで、斎院に関しては基礎的な所は一通りさらったつもりでいたのですが、実は意外な見落としが色々あるらしいと改めて痛感させられた二点でした。一方でこういう思いがけない発見があるのもこの調査の醍醐味の一つで、他にもまだまだこんなことがあるかもしれないなと、次が楽しみです。

 ところで実をいうと、今年は久々に5月4日の御禊を見に上賀茂神社へ行こうかと計画しておりました。残念ながらコロナの影響で葵祭そのものが御禊も行列も中止となってしまいましたが、どうか一日も早く日本も世界も感染が収束して、平和に暮らせる日が戻ってきますように。


「斎王代御禊」

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(2017年5月4日、下鴨神社にて)

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